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同時代の物語

医療において、重要なのは「読む」力だと思う。 表層に惑わされずに、その深層で起きているプロットから真の全体像を読み取る力。

自分は「読む」力は、文学や物語や芸術から学んだ。

なぜなら、奇蹟はしばしばマイナスの形で生じるが、読む力のある者にとってそれはプラスに転じるからだ。

 

2017年4月2日の読売新聞に、村上春樹さんのインタビューが載っていた。 日本でのインタビューに出るのは珍しい事だ。それは、メディアの側が自分のイメージや先入観を鋳型のように作品へ無理やり押し付け、自分たちが理解できる範囲の内容へと話のレベルを変形させてしまうからだと思う。春樹さんは物語の中でそんな矮小なことを語ってはいない。既知のことよりも、未知のことを、浅い場所よりも深い場所を語っている。

この新聞の見出しのように、春樹さんという作家を自分が強く信じているから、そう思う。

信じる力は、盲信では決してない。

今までの作品群の全体像を穴があくほど丁寧に読みこんでいるからこそ、生まれる力だ。

 

「物語」というものが、人間の心の構造の全体像を考える時、極めて大事だと思う。

心は無意識に「物語」を生み出し続けることで、安定や正気を保っているのではないかと、思う。

村上春樹さんがこの時代に提示した物語を、自分はひとつの問いとして受け取った。 だからこそ、読了してからも自分は物語につかまり、ふとした虚の時間が生まれると、春樹さんの「物語」の中に飛び込み直し、その物語の中で考えている。 「騎士団長殺し」を。 「顕れるイデア」と「遷ろうメタファー」を。

自分がまだ想像すらしたことのない、自分の中にある未知なる場所を旅しないと、きっと何とも出会わず、何も受け取ることができないだろうと、思う。 その羅針盤と地図とを、「顕れるイデア」と「遷ろうメタファー」としてこの時代に提示したのだ。

物語に正当な読み方、というものがあるだろうか。 きっと、ない。

それは、器に入る水が形を変えるように、器に応じてどのようにも形を変えるものなのだ。 だからこそ、結果として器の鋳型としての自分自身に出会うことになる。

生きてる限り、そうした「物語化」のプロセスは起きている。 それは、人間でもそうだし、時代もそうだと思う。

村上春樹さんの作品を心の中で反芻しながら、自転車のペダルを踏んでいる時にふと思ったこと。

小川洋子『物語の役割』 「たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、 人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、 どうにかして現実を受け入れようとする。もうそこでひとつの物語を作っているわけです。

あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分の中に積み重ねていく。

そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、 物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです』

小川洋子・河合隼雄対談『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫) 河合隼雄「いくら自然科学が発展しても、人間の死について論理的な説明ができるようになっても、私の死、私の親しい人の死、については何の解決にもならない。 その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。

死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。

物語をもつことによって、はじめて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結び付け、自分を一つに統合できる。

人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。 表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言語では表現できない。

それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なものが物語である。 物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。

生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。」

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