

地球の深部から届く水素に浸かる―白馬八方温泉「八方の湯」
美しい青木湖を訪れたあと、白馬八方温泉 八方の湯へ。 湯に身体を沈めて最初に感じるのは、驚くほど滑らかな肌触りである。いわゆる「美肌の湯」と呼ばれるアルカリ性温泉(PH11もある)のつるりとした感覚。 しかし、この湯の本当の面白さは、肌触りのさらに奥、地下深くで起きている地球化学反応にある。 掲示されている2019年の温泉分析書を見ると、源泉は「白馬八方温泉第1号、3号の混合泉」。泉温48.1℃、分析時pH 11.4。泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)である。 成分総計はわずか128.3 mg/kg。ナトリウム40.3 mg/kg、カルシウム16.6 mg/kg、水酸化物イオンOH⁻が39.0 mg/kgなどで、いわゆる「成分が濃厚な温泉」とはまったく違う。 むしろ、薄く、透明で、強くアルカリ性である。 そして、この湯には分析表の数字だけでは十分に表現できない、もう一つの主役がいる。 水素(H₂)である。 なぜ、白馬の地下から水素が生まれるのか? 白馬八方温泉が世界的にも興味深いのは、この水素の由来が地質学的に研究されていることだ


青木湖から考える〈環境医学としてのサウナ〉@Lakeside villa SUI HAKUBA
白馬にほど近い青木湖。その湖畔に佇む「Lakeside villa SUI HAKUBA」(扉グループ)に宿泊した。 私は、基本的にサウナがそれほど得意ではない。 それは熱さだけではなく、多くのサウナは小さな閉鎖空間で、視線の先には壁がある。身体には強い熱刺激が加わり、心拍数も上がる。そのうえ視線まで閉じ込められると、どこか重苦しさを感じていた。 ところが、SUIのサウナはまったく違った。 大きなガラス窓の向こうに、美しい青木湖が広がっている。 湖面が揺れ、光が反射し、その向こうに森と山がある。 身体は小さなサウナ室の中にいるのに、視線はずっと遠くまで自然の中へ抜けていく。 身体は熱の中にありながら、意識は風景の中へ出ていく。 この開放感が、驚くほど心地よかった。 医師として考えてみると、サウナを「熱」だけで考えすぎてきたのかもしれない。何℃なのか。何分入るのか。湿度はどれくらいか。心拍数や血圧はどう変化するのか。 もちろん、どれも大切だ。 けれども人間の身体は、温度センサーだけでできているわけではない。 光、音、匂い、風、空間の広がり。そして、


牛に引かれて、湯へ――布引観音温泉
長野県小諸、布引観音の麓にある「布引観音温泉」へ。 ここは私が大好きな温泉。いい感じに鄙びた湯治場の風情が残っていて、古い湯治場の時間が流れている。温泉ビギナーにはお薦めできないが、ディープな温泉を知りたい人にはとっておきの場所だ。 建物に入る前から、まず驚く。 外には温泉がこんこんと湧き、飲泉することができる(温泉水だけではなく、深層水までも!)。 温泉は「入る」ものだと思っていると、ここではその前提が少し崩れるだろう。 湯に浸かるだけではなく、湯を飲むことも、湯治の本質だ。それは、ミネラルを体内に取り込むこと。人体でのミネラルの必要性に関しては、また都度都度アナウンスしていきたい。 温泉という地球の体液を、身体の外側からだけではなく、内側からも受け取る。 昔の「湯治」とは、本来こういうものだった。 湯治は、単に温泉に入って病気を治すことではなく、しばらく土地に滞在し、その土地の水を飲み、その土地のものを食べ、眠り、歩き、何度も湯に入る。 つまり、身体を土地の時間に預け直すことだった。 布引観音温泉には、そうした昔ながらの湯治場の気配が、まだ濃


YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERY
YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERYへ。 改めて驚いた。 横尾忠則さんのポスターは、どの年代の作品を見ても、まったく古く見えない。そして、誰にも似ていない。 これは考えてみれば、ものすごいことだ。 ポスターとは、本来とても「時代」に近いメディアだと思う。その時代の演劇や映画や音楽があり、社会があり、流行の色彩や書体やデザインがある。 だから普通なら、数十年前のポスターを見れば、「これは60年代だ」「これは80年代だ」と、どこかに時代の刻印が見える。 ところが横尾忠則のポスターは違う。 もちろん制作された時代はある。しかし、その時代に閉じ込められていない。 1960年代の作品が、2020年代の作品より新しく見えることさえある。これは「時代を先取りしていた」ということとも少し違う。 先取りしているだけなら、いつか時代が追いついてしまう。横尾忠則は、そもそも時代と競争していないのではないか。時代の前でも後ろでもない。 時間軸そのものから、少し外れたところにいる。 そこに横尾作品の不思議な「無時間性」


「違うままで、一つである」―横尾忠則と霊性の芸術
横尾忠則の作品を前にすると、いつも不思議な感覚に襲われる。 なぜなら、そこにはあまりにも多くのものがあるからだ。 聖なるものと俗なるもの。生と死。エロスと宗教。夢と現実。幼年期の記憶と大衆文化。神話と広告。宇宙と身体。日本とアメリカ・・・・ 普通なら、同じ場所には置かれないはずのものが、横尾の画面では何の断りもなく並んでいる。 しかも不思議なのは、それらが単なる混乱には見えないことである。むしろ、ばらばらであるはずのものが、一枚の画面の中で奇妙な必然を持って共存している。互いに溶け合っているわけではない。違いは残っている。それでも、すべてが同じ世界の中にいる。 この横尾忠則独特の感覚を、私は長いあいだ「異質なものの調和」と考えていた。しかし、本当に「調和」という言葉が適切なのだろうか、とも思っていた。 横尾が巧みに異質なものを結びつけているのではなく、私たちの側が、もともと一つの世界に存在していたものを、後から「異質」と呼び分けているだけなのではないか。横尾の作品を見つめていると、そんな疑いが生まれてくる。 そして、そのことを考えるうえで、どうし


『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ: 横尾忠則自伝』
横尾忠則さんの自伝『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ』を読んだ。 すごい本だ。言葉にしようとすると、一つには絞れない。 三島由紀夫、ジョンとヨーコ、アンディ・ウォーホール、サルバドール・ダリ・・。20世紀という時代そのものをつくった伝説的な人たちが、次々と登場する。 けれども不思議なのは、彼らが「偉人」として登場しないことだ。 横尾さんの人生の中に、ごく自然に現れる。会って、話して、食事をして、仕事をして、ときには喧嘩をし、笑い、別れる。歴史上の人物たちが、歴史前の生身の人間としてそこにいる。その距離感がすごい。 それは、横尾さん自身が彼らを必要以上に神格化しないからなのだと思う。相手がジョン・レノンでもアンディ・ウォーホールでもサルバドール・ダリでも、一人の人間として見ている。 そして同時に、自分自身のことも神格化しない。格好悪いこと、怖かったこと、嫉妬も、迷いも、病気も、死への恐怖も、ありのままを書く。 不思議な出来事に遭遇すれば、「こんなことが起きた」と、そのまま書く。 その徹底した正直さが、この本の大きな魅力だと思った。...


将棋とは「あらゆる可能性に敬意を払うこと」
将棋とは、「あらゆる可能性に敬意を払うこと」である。 わたしは小学生~高校生の頃、将棋狂だった。 将棋の相手を求めて、色々な将棋会館をわたり歩いたのも懐かしき思ひ出。 江戸時代、将棋は単なる遊戯ではなかった。 大橋宗桂を祖とする家元制度が整えられ、将棋は一つの文化として磨かれていった。 初代 大橋宗桂は最初の将棋名人(一世名人)で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人に将棋の実力で仕えた。現在の「名人」という言葉のルーツは大橋宗桂にある。囲碁の家元・本因坊算砂と指した将棋の記録(棋譜)が現存する世界最古の将棋の棋譜で、後陽成天皇へ献上した公式な詰将棋集も最古。 その歴史をたどる漫画(『宗桂 〜飛翔の譜〜』(作画:星野泰視 / 監修:渡辺明))を読むと、盤上の勝負の背後に、 日本人が「考えること」そのもの を文化として育ててきた時間が見えてくる。 私も、中学生時代の将棋大会で、江戸時代の棋譜を指して将棋記者から驚かれたことがある(当時の熊本日日新聞にも載った)。当時の大スター羽生さんの棋譜だけではなく、江戸時代の大橋宗桂の棋譜からも学んでいた


生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える
映画『急に具合が悪くなる』は素晴らしい映画だった。私が医療者として格闘し、もがいてきたテーマが重層的に織り込まれていて、とても身に染みた。 映画『急に具合が悪くなる』を観ながら、私はずっと、医療とは何だろうと考えていた。もう少し正確に言えば、人が人をケアするとは、いったい何をしていることなのだろう、と考えていた。 医療の現場では多くの限界を感じることの方が多い。 それでも、人は誰かの傍らにいる。話を聞く。身体に触れる。一緒に黙る。 そのとき、何が起きているのだろう。 考えてみれば、ケアは医学より古い。医学が誕生するずっと前から、人は病み、老い、傷つき、その傍らには別の誰かがいた。歌うこと、踊ること、物語を語ること、死者の傍らに座ること。ケアと芸術は、人類史のかなり深いところで根を共有しているのかもしれない。 この映画を見ながら、私は無数の「ひらく」という言葉が浮かんできた。 バザーリアは、制度をひらいた。ユマニチュードは、身体をひらいた。 異なる言語は、意味をひらく。演劇は、関係をひらく。そしてケアは、生命をひらく。 この五つは別々の話ではない。


辰口温泉「田んぼの湯」@石川県能美市
せっかく石川県にまで行ったので、石川県能美市にある辰口温泉へ。 今回訪れたのは、旅館「たがわ龍泉閣」の名物露天風呂、「田んぼの湯」。 「田んぼの湯」とは、比喩ではなく、本当に田んぼの中から湧き出した源泉を使った温泉でした。 南には白山。周囲には里山と田園。その中に六つの露天風呂が広がり、しかも男女混浴。入浴用の浴衣を着て入るので、家族や夫婦、仲間と一緒に温泉を楽しむことができます。 この日は広大な露天風呂に私ひとりでした。 温泉好きとして各地を巡っていますが、これはかなり稀有な体験でした。 そもそも日本の温泉は、山の中、渓谷、海辺など、「地球の裂け目」から湯が現れる場所が多い。 ところが、ここでは田んぼから温泉が湧いています。 米を育てる土地から、人を温める湯まで出てくる。 辰口温泉には約1400年の歴史があるとされ、養老年間には、傷ついた馬が湯で脚を癒やしたという伝承も残っています。その後、手取川の氾濫などで源泉が埋まり、江戸時代末期の1836年、灰屋源助が再び温泉を掘り当てたことが、現在の辰口温泉につながったとされています。...


CACL(カクル)@石川県能美市(代表:奥山純一)
石川県能美市のCACL(カクル)(代表:奥山 純一)を訪ねました。 CACLとの出会いのきっかけは、金沢21世紀美術館で展示したプロジェクト(令和6年能登半島地震 復興支援プロジェクト「Rediscover project」) https://cacl.jp/topics/1205/ ●【Web Media】2024/12/3:1900-2100:金沢21世紀美術館「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」展を巡ろう(ニコニコ美術館):出演者〇長谷川祐子(館長)、〇本橋仁(本展キュレーター)。〇池田あゆみ(本展キュレーター)、〇稲葉俊郎(医師、医学博士、作家)(Web)(cf.「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」:2024年11月2日(土) - 2025年3月16日(日)@金沢21世紀美術館) 2024年の能登半島地震のあと、能登には数え切れないほどの「かけら」が生まれました。 九谷焼、輪島塗、珠洲焼、能登瓦……。 けれど、それらは単なる「壊れたもの」ではありません。 一片のかけらの中には、土を掘った人、木を育てた人、漆を採