

10/13『「道」とウェルビーイング』前野隆司 × 稲葉俊郎 × 針谷和昌(Online)
「道」とウェルビーイング。 久しぶりに、対話の場をひらきます。 茶道、武道、芸道など、日本で受け継がれてきた「道」。一つの所作を繰り返しながら、呼吸を感じ、相手の動きに応え、少しずつ自分の身体の使い方が変わっていく。伝統芸能や「道」には、過去の技を守るだけでなく、未来の身体をひらく可能性が満ちていると思います。 これまでも私は、さまざまな分野の第一人者をお招きし、医学や芸術、身体、そして「生きること」をめぐる対話の場を主催してきました。一人の知識だけではたどり着けないところへ、異なる経験を持つ人たちの言葉が重なることで進んでいける。その面白さを、久しぶりに皆さんと味わいたくなりました。 2017-2019年頃に慶応大学で主催していました。 第1回 道の学校は、2017/2/28の藤平信一さん(心身統一合氣道会会長)+佐々木隆道氏さN(プロラグビー選手)でした。 いま、私たち家族全員で取り組めることを、ということで、藤平信一さんの心身統一合氣道会で、合氣道を学んでいるご縁の不思議があります。 今回は、まずオンラインから再開します。...


トルストイ『人は何で生きるか』 愛を訳し愛を生きる
トルストイの『人は何で生きるか』を、北御門二郎の訳で読んだ。 映画『ドライブ・マイ・カー』をきっかけに移動中はチェーホフを読み直すようになり、ロシア文学に興味が向かった。そうして、トルストイやドストエフスキーを、学生時代以来20年ぶりに再読している。2024年からライフスタイルを大きく変えたおかげで、時間も心にも余裕ができてきたのだろう、と思う。多忙な時は本を読む時間がとれなかった。心の余裕と本の時間とは相関関係にある。もちろん本を読まなくても死ぬことはない。ただ、体だけではなく心にも栄養を行き渡らせるためには、芸術や読書の体験が深い心の支えになるのだ。 cf.●September 25, 2026 声の残る車、降りられない劇場 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021) 靴職人のシモンは、寒さの中に取り残された見知らぬ男を家へ連れ帰る。自分たちの暮らしにも余裕はない。妻は初め、その男を迎えることに腹を立てる。それでも食べ物を分け、居場所をつくる。その小さな出来事から、物語は「人は何によって生きているのか」という大きな問いへ進んでいく。.


『フリーダ ~愛と痛みを生きた肖像~』フリーダは自分の人生を自分の手で描く。
カルラ・グティエレス監督のドキュメンタリー『フリーダ ~愛と痛みを生きた肖像~』を観た。 フリーダ・カーロの絵が好きだ。 武蔵野大学ウェルビーイング学部の「ウェルビーイングアート特論」の講義を担当した。健康と芸術、医療と芸術との関りを語るアーティストの一人でフリーダ・カーロを扱った。 彼女のオリジナル映画がAmazonPrimeで観れたのは驚きだった。 写真、絵、日記、手紙が重なり、すでに知っているつもりだった画家が、初めて自分の声で語り始めるように感じられた。 フリーダ・カーロは幼い頃にポリオを患い、18歳のときにはバスと路面電車の衝突事故で重傷を負った。その後も何度も手術を受け、装具をつけ、長い時間を痛みとともに生きた。事故は一度の出来事として終わらず、身体の動き方や、これから生きる時間のすべてに影響し続けたのだと思う。 《壊れた円柱》では、裂けた身体の中に折れた柱が立ち、全身に釘が刺さる。 医学なら痛みの場所や強さを尋ねる。けれども、あの絵が見せるのは、痛みを抱えた身体で世界を生きるとはどういうことか、という経験そのものだ。...


葉先から届く秋 軽井沢
軽井沢では、木々の梢に少しずつ紅葉が見え始めた。緑のあいだに、赤や黄色がひと葉ずつ灯っている。 まだ秋の盛りには遠い。 けれども、朝の空気には澄んだ冷たさがあり、木漏れ日の色もどこかやわらかい。 季節は音を立てず、葉の先から静かに移っていく。 ひと足早い秋が、軽井沢に来ている。


『ブゴニア』(2026年、ヨルゴス・ランティモス監督)「誰の物語の中で、世界を見ているのか?」
ヨルゴス・ランティモス監督の『ブゴニア』(2026年)を観た。 (角田光代さんの『方舟を燃やす』(新潮社、2024)と通じるものがある映画だよと友人から言われたこと(陰謀論を入口としている点?かな。かなり遠い作品でしたが)+AmazonPrimeで観れたもので。ちなみに、この映画は暴力や残虐な描写があります。物語の展開にも触れます。) 観ている間、何度も足元が入れ替わるようだった。 誰の話を信じればよいのか。被害者と加害者は誰なのか。小さな物語だと思っていたものが、突然もっと大きな物語の一部になる。その転換が面白く、同時に恐ろしい。 「ブゴニア」とは、死んだ牛の身体から蜂が生まれるとされた、古代地中海世界の伝承に由来する言葉だ。 ローマの詩人ウェルギリウスは、これをギリシャ神話の人物アリスタイオスの物語に結びつけた。 蜂を失ったアリスタイオスは、その理由を探し求める。 やがて彼は、自分が追ったエウリュディケが逃げる途中で蛇に噛まれて死んだことを知らされる。 彼にとって最初は「蜂を失った自分の物語」だったものが、「自分には見えていなかった、他者の死


信じる心と、問い直す自由。角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)
角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)を読んだ。 ちょうどコロナ禍があけたころの作品で購入していたが、ふと本棚で見かけて読んだ。新幹線や電車の移動で少しずつ。 予言、宗教、自然食、ワクチン、陰謀論……。 時代ごとに現れる「信じるもの」を通して、この小説は、人が不確かな世界をどう生きていくのかを描いている。 私がとりわけ痛々しく、共感したのは望月不三子だった。 不三子は家族の健康を願い、自然食を学び、毎日の食事をつくる。私自身も医学部生の頃から食と健康について考え続け、可能な限り体にやさしいものを食べたいと思ってきた。 だから彼女を、単に「極端な考えにとらわれた人」として読むことはできなかった。 食べることは、生きることに直結している。 大切な人の体を思えば、何を食べさせるかに真剣になるのは自然なことだ。 ただ、よいものを食べてほしいという願いと、家族が食べたいもの、その食卓でどう感じるかは、必ずしも一致しない。十分な対話が欠けていたのかもしれない。食卓は愛情が形になる場所であり、同時に、それぞれの自由や気持ちがぶつかる場所でもある。...


11/6-11/8「あたらしい湯治のカタチ―芯から、ゆるめる三日間」@湯河原「上野屋」
11月、湯河原で「あたらしい湯治」を一緒に楽しみませんか? 11月6日(金)から8日(日)まで、湯河原で開かれる「あたらしい湯治のカタチ」に参加します。今回、私がとても楽しみにしているのが、国登録有形文化財の宿「上野屋」に泊まり、2泊3日を過ごせることです。 上野屋さんは、湯河原の温泉場に長く息づいてきた湯宿。大正時代の別館、昭和初期の木造4階建ての本館や玄関棟が大切に使われています。廊下を歩き、階段を上り、窓の外に湯河原の景色を眺める。建物の中で過ごす時間そのものが、日常とは違う速度へと私たちを誘ってくれるように感じます。 そして、何よりお湯が素晴らしい。私にとって上野屋さんは、湯河原の中でも特に好きな温泉の一つです。 敷地内の自家源泉から湧く湯は、ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉。塩化物と硫酸塩の両方に特徴を持つ、弱アルカリ性の温泉です。 泉質を学び、その日の自分の身体で湯の温かさや肌ざわりを確かめる。 この宿に泊まり、朝も夜も湯と建物をゆっくり味わえること自体が、貴重な体験だと思います。 1日目|日常を離れ、心身をほどく...


「第21回 森のようちえん全国交流フォーラム in 長野」10月11日(日)ラボ(分科会)「いのちを呼びさます場とは―森と子どもの可能性を考える―」
森のようちえんは、未来の教育を考えるための、大切な出発点だと思っています。 森のようちえんとは、森や川、野原などの自然の中で主体的な体験活動を行う保育・幼児教育です。 自然が園舎・おもちゃです。決まった園舎や作られた遊具を持たず、木の枝や落ち葉など自然にあるものを使って自由に遊びます。 子どもが主体です。大人が過度に指示をせず、子ども自身の「やりたい」という気持ちや発見する力を大切にし、見守ります。 天候を問わない野外活動が特徴です。雨の日や雪の日も含めて、四季折々の自然や気候の変化を肌で体感します。 森のようちえんの一つの源流は、1950年代のデンマークにあります。 エラ・フラタウという母親が、自分の子どもや近所の子どもたちと森を歩き、遊んだことから、その輪が広がっていったと伝えられています。立派な教室や特別な教材からではなく、「子どもたちと外へ出てみよう」という暮らしの中の行動から始まったところに、私は惹かれます。 森には、あらかじめ決められた正解がありません。 同じ道を歩いても、ある子は虫を見つけ、ある子は木の実を拾い、ある子は風の音を聴


『いのちノオト』「第2部 第3回 未来は、まだ生まれていない」(集英社学芸の森)
集英社での『いのちノオト』という連載。 9回目となる「第2部 第3回 未来は、まだ生まれていない」 がUpされていますので、ご興味あればどうぞLink先からお読みください。 https://gakugei.shueisha.co.jp/mori/serial/inochinooto/009.html ここまで色々と文体と内容の変遷があるのですが、そうなってしまった深い理由がありまして、今後の連載で明らかにしながら連載を回収していこうと思っています。 =========== (抜粋) 近ごろ、AIについて語られることが多くなった。便利になるし、仕事は変わり、暮らしも変わる。それはきっと、その通りなのだろう。人類はこれまでも、道具をつくり、そのたびに生き方を少しずつ変えてきた。火を手に入れ、文字を発明した。印刷も、電気も、インターネットも、新しい技術はいつも人間の生活を時間を大きく書き換えてきた。AIも、その長い歴史の延長にあるのだと思う。 けれど、技術が進むほど、不思議なことがある。人は、技術では満たされないものを、かえって強く求めるようになる。


声の残る車、降りられない劇場 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021)
『急に具合が悪くなる』(2026)が素晴らしかったので、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021)を観た。村上春樹やチェーホフの作品世界が響き合い、言葉と声が深く余韻を残し続ける映画だった。 →cf.「生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える」 印象的だったのは、死者の声が、生きている人の日常を動かし続けていることだ。 家福の赤い車には、妻・音が録音した『ワーニャ伯父さん』の台詞が流れる。家福はその声を聞き自分の台詞を返す。死者との対話は終わることのない稽古となる。 生きている相手の言葉は変わるが、録音された声は変わらない。 車は前へ進むのに、二人の会話だけが閉じられた輪の中で止まっている。 チェーホフが生きた19世紀後半のロシアは、農奴解放を経て古い身分秩序が揺らぎ、都市化が進む時代だった。社会は変わり始めているのに、人々の日々は変わらない。『ワーニャ伯父さん』に漂う「このまま人生が過ぎてしまう」という痛みは、個人の後悔だけでなく時代の転換期を生きる不安も重なっている。 チェーホフは医師でもあ