

絵の展示 「7脚の椅子と7枚の絵画」@ Lagom
長野県・御代田のMMOPにある Lagom内、coffee stand gallery göm にて、絵画作品を展示しています。 「göm_7chairs+7arts」 7脚の椅子と7枚の絵画。 私の作品も展示・販売していただいています。椅子と7枚の絵画」 10月21日(水)から11月3日まで。 今回、10点の絵画作品を制作しました。 それぞれの作品には、こんなタイトルをつけています。 1. 夜が音楽を思い出すとき 2. 人は風の途中にいる 3. 星々はときどき人間のふりをする 4. 踊りが人を夢に見る 5. 神々の生まれる前の午後 6. 一人の群衆 7. まだ人間に慣れていない 8. 月の裏側で拍手が聞こえる 9. 風景がひとり歩きはじめる 10. あなたが私だったころ こうして並べてみると、どの作品も、人間という存在の不思議さをめぐるものになりました。 人間はどこから来たのだろう。人間になる前、私たちは何だったのだろう。 星だったのか、風だったのか、音楽だったのか。 私たちは自分の意志で踊っているのか。それとももっと大きな何かに踊らされている


「CWAJ現代版画展」@代官山ヒルサイドテラス
代官山のヒルサイドテラスで開催されている「CWAJ現代版画展」を訪れた。 横尾さんの版画があると聞いたもので。 会場には、さまざまな技法や表現による版画作品が並び、まさに目の保養。版画という一つのジャンルの中にも、多彩な世界が広がっていて驚かされる。 横尾忠則さんの版画作品は、独特の色彩と構図、現実と夢の境界を軽やかに飛び越えていくような世界観。やはり素晴らしい。 CWAJ(College Women's Association of Japan)は、長年にわたり版画芸術の振興や女性アーティストの活躍を支えてきた団体。芸術を通じて人と人、文化と文化をつなぎ、次の世代へと可能性をひらいていく活動にも、深く共感する。 会場の代官山ヒルサイドテラスも、建築と街並みが美しく調和した素敵な場所。 展覧会の余韻を抱えながら少し歩けば、すぐ近くには代官山 蔦屋書店。美しい本に囲まれ、なんだか自分まで少しおしゃれになったような気分になる。 芸術に触れ、本に出会い、街を歩く。 こうした何気ない時間も、心を豊かにしてくれる小さな養生。


生命は、きれいごとでは収まらない。 「寺山修司と日本のアヴァンギャルドポスター展」(渋谷ヒカリエ8階、Bunkamura Gallery 8)
渋谷ヒカリエ8階、Bunkamura Gallery 8/で開催されている「寺山修司と日本のアヴァンギャルドポスター展」へ。 1960年代から1980年代半ばにかけて、日本の演劇界に吹き荒れたアングラ演劇の熱狂。当時の貴重な公演ポスターが集結している。 状況劇場、天井棧敷、黒テント、自由劇場、大駱駝艦。 その表現を支えたのは、横尾忠則、宇野亞喜良、粟津潔、田名網敬一、金子國義など、時代を切り拓いた芸術家やデザイナーたち。 演劇と美術が交差し、ポスターそのものが一つの事件であり、挑発であり、独立した芸術作品になっていた。 この圧倒的な表現の背景には、戦争と敗戦、そして戦後の混沌があるのだろう。 戦争が奪ったもの。戦後の復興が置き去りにしたもの。高度経済成長の明るさの陰で、行き場を失った感情や、社会から押し込められた声。 そこには、悲しみも、怒りも、絶望も、欲望も、祈りもあった。 それらをきれいに整理するのではなく、矛盾したまま、丸ごと舞台に引きずり出そうとした。 当時のアングラ演劇は、単なる舞台芸術ではなかった。 既成の価値観や社会制度、身体


人生に巻き戻しはない。生命はただ未来へ流れていく。「没後20年 ナムジュン・パイク|じゅげむ展」@ワタリウム美術館
外苑前のワタリウム美術館で「没後20年 ナムジュン・パイク|じゅげむ展」を観た。 ナムジュン・パイク(1932–2006)は、テレビやビデオを芸術の素材に変えた、メディアアートの先駆者。しかし今回の展示で強く感じたのは、彼が単なるテクノロジーの革新者ではなく、時間、生命、自然、輪廻、人間存在を問い続けた哲学者でもあったということだ。 パイクの作品には、仏教や禅、東洋思想と、西洋の前衛芸術や電子技術が、不思議なほど自然に共存している。 ビデオテープには、再生(PLAY)、停止(STOP)、巻き戻し(REWIND)、早送り(FAST FORWARD)がある。 しかし、私たちの人生には、巻き戻しがない。 過去の映像を何度繰り返し再生しても、その瞬間の自分に戻ることはできない。人生には、ただ前へ進む「GO」しかない。 この非対称性こそ、生命の本質なのではないか。 映像は同じ場面を反復できる。しかし、同じ映像を見る私たちは、すでに昨日の私たちではない。記憶も、感情も、身体も、絶えず変化している。 生命とは、同じ状態を保存することではなく、変化し続けることそ


『フリーダ ~愛と痛みを生きた肖像~』フリーダは自分の人生を自分の手で描く。
カルラ・グティエレス監督のドキュメンタリー『フリーダ ~愛と痛みを生きた肖像~』を観た。 フリーダ・カーロの絵が好きだ。 武蔵野大学ウェルビーイング学部の「ウェルビーイングアート特論」の講義を担当した。健康と芸術、医療と芸術との関りを語るアーティストの一人でフリーダ・カーロを扱った。 彼女のオリジナル映画がAmazonPrimeで観れたのは驚きだった。 写真、絵、日記、手紙が重なり、すでに知っているつもりだった画家が、初めて自分の声で語り始めるように感じられた。 フリーダ・カーロは幼い頃にポリオを患い、18歳のときにはバスと路面電車の衝突事故で重傷を負った。その後も何度も手術を受け、装具をつけ、長い時間を痛みとともに生きた。事故は一度の出来事として終わらず、身体の動き方や、これから生きる時間のすべてに影響し続けたのだと思う。 《壊れた円柱》では、裂けた身体の中に折れた柱が立ち、全身に釘が刺さる。 医学なら痛みの場所や強さを尋ねる。けれども、あの絵が見せるのは、痛みを抱えた身体で世界を生きるとはどういうことか、という経験そのものだ。...


町の未来は湯のように地下から湧いてくる 竹田市・長湯温泉にて
首藤勝次さんに案内してもらいながら竹田市・長湯温泉を歩いた。勝次さんが長年育ててきたものは、単なる観光地ではないと感じた。 「この土地をどんな場所として未来へ手渡すのか」という明確なVisionがあった。 長湯の炭酸泉をただ珍しい泉質として売り出すのではない。 温泉を中心に、建築、医療、芸術、食、農業、歴史、景観、そして人々の暮らしを結び直す。 温泉を「入浴場」から、健康と文化と共同体を支える社会の仕組みへ育てていく。足元の小さな源泉を見つめながら、その視野ははるか遠い未来に届いている。 優れたまちづくりには、人と人、場所と記憶、古いものと新しいものを、自由自在に「つなぐ」人が必要なのだと思う。勝次さんはまさにそのような存在なのだろう。 地域の内と外をつなぎ、行政と住民をつなぎ、温泉と医学をつなぎ、日本とドイツをつなぎ、さらに一見関係のなさそうな建築や美術、書物までを温泉の周囲へと集めていく。つなぐとは、単に仲介することではない。異なるものの間に、「まだ誰にも見えていなかった関係を発見すること」なのだ。 空き家対策にも少し心が動くような洒落た名前


生きるための形―草間彌生が描き続けたもの(NHKスペシャル『水玉の女王 草間彌生の全力疾走』)
「命がけで描く」ということ。 NHKスペシャル『水玉の女王 草間彌生の全力疾走』を見た。初回放送日が2012年。当時も見たおぼろげな記憶はある。 改めて、圧倒された。 *NHK One 作品そのものにも、もちろん圧倒されるのだが、それ以上に心を動かされたのは、草間彌生という一人の人間が、本当に命がけで絵を描いている姿だった。 「命がけ」という言葉は、芸術家について時々使われる。しかし草間さんの場合、それは比喩ではないように感じた。描く。描く。また描く。キャンバスを埋め尽くしても、次のキャンバスへ向かう。 83歳の身体で、世界的な名声のただ中にいながら、制作の現場には驚くほど華やかさがない。そこにいるのは、ただ、描かなければ生きていけない一人の人間だった。 そして、私が最も胸を打たれたのは、草間さんが自分の孤独や不安をまったく格好よく見せようとしないことだった。不安になり、孤独になり、怖くなると、近くの病院の「自分の部屋」へ戻る。病院が自分の自宅になっていて、自分の自宅が病院になっている。病院の中に自分の居場所を求め、不安がおさまるまで、そこにいる


身体性から、自分の「根」を見つめる。——10月17日、伊那へ
10月17日(土)、長野県伊那市の inadani sees で、半日の講座を開催します。 テーマは、「身体性から自分の根を見つめる」です。 私たちは日々、たくさんのことを「頭」で考えています。自分とは何者なのか。 けれども、自分という存在の「根」は、頭だけで探しても、なかなか見つからないものなのかもしれません。 植物が、目に見えない土の中へ根を伸ばしているように、人間にもまた、思考より深いところに自分を支えている場所があります。それが、身体です。 呼吸、鼓動、姿勢、歩くこと、触れること。疲れや心地よさ、言葉になる前の小さな違和感。 身体は、私たちが「分かる」よりもずっと前から、世界を感じています。 今回は、「身体について知る」というよりも、身体を通して、自分自身へ帰っていく時間にしたいと思っています。 そして、このテーマを考える場所として、伊那はとてもふさわしい場所です。 会場となる inadani sees は、森を中心に、人と自然、地域、文化、仕事、学びをつなぎ直す活動を続けている素晴らしい方々がつくっている場所です。 彼らがつくる 『se


草間彌生さんへ 一つの水玉は、宇宙へひらかれている
草間彌生さんが亡くなった。 けれども、不思議なことに、草間さんの死を「いなくなった」と感じることが、私にはどうしても難しい。 草間さんの作品を思い浮かべるからだろう。 一つの水玉がある。百、千、万・・・。点は増殖し、壁を越え、身体を越え、部屋を越え、やがてこちら側へまでやってくる。 鏡の中では、一つの像が二つになり、十になり、百になり、その向こうへ、さらに向こうへと続いていく。 草間彌生という人は、生涯をかけて「一人の人間は、どこまで一人なのか」という問いを描き続けた芸術家だったのではないか。 私はいま書いている『生命を見るための芸術』(特に出版社のあてはありません)という本で、草間彌生について一章を書いた。 その章につけた問いは、 「『私』は、どこまでが私なのか」 というものだった。 草間さんの作品には、水玉があり網目があり鏡がある。そこには無限がある。 そこでは「私」の輪郭が、増殖し、揺らぎ、溶けていく。 面白いことに、自己を消そうとすればするほど、そこには誰にも似ていない、圧倒的な「草間彌生」が立ち上がってくる。水玉を見れば、草間彌生だと分


YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERY
YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERYへ。 改めて驚いた。 横尾忠則さんのポスターは、どの年代の作品を見ても、まったく古く見えない。そして、誰にも似ていない。 これは考えてみれば、ものすごいことだ。 ポスターとは、本来とても「時代」に近いメディアだと思う。その時代の演劇や映画や音楽があり、社会があり、流行の色彩や書体やデザインがある。 だから普通なら、数十年前のポスターを見れば、「これは60年代だ」「これは80年代だ」と、どこかに時代の刻印が見える。 ところが横尾忠則のポスターは違う。 もちろん制作された時代はある。しかし、その時代に閉じ込められていない。 1960年代の作品が、2020年代の作品より新しく見えることさえある。これは「時代を先取りしていた」ということとも少し違う。 先取りしているだけなら、いつか時代が追いついてしまう。横尾忠則は、そもそも時代と競争していないのではないか。時代の前でも後ろでもない。 時間軸そのものから、少し外れたところにいる。 そこに横尾作品の不思議な「無時間性」