

将棋とは「あらゆる可能性に敬意を払うこと」
将棋とは、「あらゆる可能性に敬意を払うこと」である。 わたしは小学生~高校生の頃、将棋狂だった。 将棋の相手を求めて、色々な将棋会館をわたり歩いたのも懐かしき思ひ出。 江戸時代、将棋は単なる遊戯ではなかった。 大橋宗桂を祖とする家元制度が整えられ、将棋は一つの文化として磨かれていった。 初代 大橋宗桂は最初の将棋名人(一世名人)で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人に将棋の実力で仕えた。現在の「名人」という言葉のルーツは大橋宗桂にある。囲碁の家元・本因坊算砂と指した将棋の記録(棋譜)が現存する世界最古の将棋の棋譜で、後陽成天皇へ献上した公式な詰将棋集も最古。 その歴史をたどる漫画(『宗桂 〜飛翔の譜〜』(作画:星野泰視 / 監修:渡辺明))を読むと、盤上の勝負の背後に、 日本人が「考えること」そのもの を文化として育ててきた時間が見えてくる。 私も、中学生時代の将棋大会で、江戸時代の棋譜を指して将棋記者から驚かれたことがある(当時の熊本日日新聞にも載った)。当時の大スター羽生さんの棋譜だけではなく、江戸時代の大橋宗桂の棋譜からも学んでいた


生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える
映画『急に具合が悪くなる』は素晴らしい映画だった。私が医療者として格闘し、もがいてきたテーマが重層的に織り込まれていて、とても身に染みた。 映画『急に具合が悪くなる』を観ながら、私はずっと、医療とは何だろうと考えていた。もう少し正確に言えば、人が人をケアするとは、いったい何をしていることなのだろう、と考えていた。 医療の現場では多くの限界を感じることの方が多い。 それでも、人は誰かの傍らにいる。話を聞く。身体に触れる。一緒に黙る。 そのとき、何が起きているのだろう。 考えてみれば、ケアは医学より古い。医学が誕生するずっと前から、人は病み、老い、傷つき、その傍らには別の誰かがいた。歌うこと、踊ること、物語を語ること、死者の傍らに座ること。ケアと芸術は、人類史のかなり深いところで根を共有しているのかもしれない。 この映画を見ながら、私は無数の「ひらく」という言葉が浮かんできた。 バザーリアは、制度をひらいた。ユマニチュードは、身体をひらいた。 異なる言語は、意味をひらく。演劇は、関係をひらく。そしてケアは、生命をひらく。 この五つは別々の話ではない。


辰口温泉「田んぼの湯」@石川県能美市
せっかく石川県にまで行ったので、石川県能美市にある辰口温泉へ。 今回訪れたのは、旅館「たがわ龍泉閣」の名物露天風呂、「田んぼの湯」。 「田んぼの湯」とは、比喩ではなく、本当に田んぼの中から湧き出した源泉を使った温泉でした。 南には白山。周囲には里山と田園。その中に六つの露天風呂が広がり、しかも男女混浴。入浴用の浴衣を着て入るので、家族や夫婦、仲間と一緒に温泉を楽しむことができます。 この日は広大な露天風呂に私ひとりでした。 温泉好きとして各地を巡っていますが、これはかなり稀有な体験でした。 そもそも日本の温泉は、山の中、渓谷、海辺など、「地球の裂け目」から湯が現れる場所が多い。 ところが、ここでは田んぼから温泉が湧いています。 米を育てる土地から、人を温める湯まで出てくる。 辰口温泉には約1400年の歴史があるとされ、養老年間には、傷ついた馬が湯で脚を癒やしたという伝承も残っています。その後、手取川の氾濫などで源泉が埋まり、江戸時代末期の1836年、灰屋源助が再び温泉を掘り当てたことが、現在の辰口温泉につながったとされています。...


CACL(カクル)@石川県能美市(代表:奥山純一)
石川県能美市のCACL(カクル)(代表:奥山 純一)を訪ねました。 CACLとの出会いのきっかけは、金沢21世紀美術館で展示したプロジェクト(令和6年能登半島地震 復興支援プロジェクト「Rediscover project」) https://cacl.jp/topics/1205/ ●【Web Media】2024/12/3:1900-2100:金沢21世紀美術館「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」展を巡ろう(ニコニコ美術館):出演者〇長谷川祐子(館長)、〇本橋仁(本展キュレーター)。〇池田あゆみ(本展キュレーター)、〇稲葉俊郎(医師、医学博士、作家)(Web)(cf.「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」:2024年11月2日(土) - 2025年3月16日(日)@金沢21世紀美術館) 2024年の能登半島地震のあと、能登には数え切れないほどの「かけら」が生まれました。 九谷焼、輪島塗、珠洲焼、能登瓦……。 けれど、それらは単なる「壊れたもの」ではありません。 一片のかけらの中には、土を掘った人、木を育てた人、漆を採


山下完和『咲ける場所に置いてくれ』
『咲かせるのではなく、「咲ける場所」をつくる』 山下完和『咲ける場所に置いてくれ』を読んだ。 私の著書『山のメディスン』と同じ、ライフサイエンス出版(叢書クロニック)の待望の新刊。 「やまなみ工房」の山下完和さんは、福祉の世界の「革命児」なのだと思う。 ただし、革命という言葉から想像するような、何かを声高に破壊する革命ではない。 もっと静かで、もっと根源的な革命だ。 福祉・障害者施設のいつの間にか出来上がってしまった枠組みに対して、「本当にそうなんだろうか?」と問い続けてきた人なのだと思う。 滋賀県甲賀市にある「やまなみ工房」には、知的障害や精神疾患のある人たちが通い、それぞれが表現活動を続けている。その作品は国内だけでなく海外でも高く評価され、展覧会、美術市場、ファッション、音楽など、既存の福祉という枠を軽々と越えて広がってきた。 けれども、『咲ける場所に置いてくれ』を読んで感じるのは、これは決して「障害者アートを成功させた人」のサクセスストーリーではない、ということだ。 むしろこれは、 人間は、どんな場所に置かれれば、その人自身として生きるこ


『映画を撮りたいゾンビの演劇』@東京芸術劇場(作・演出:岡田利規)
東京芸術劇場シアターイーストで、岡田利規さん作・演出の『映画を撮りたいゾンビの演劇』を観た。 とても面白かった。 舞台に現れるのは、映画を撮りたい5人のゾンビたち。 しかも彼らがつくりたいのは、人間がゾンビを描いた映画ではない。 「ゾンビの、ゾンビによる、ゾンビのための映画」である。 この設定だけで、すでに世界が反転している。 私たちは普段、ほとんど疑うことなく「人間」の側から世界を見ている。 ゾンビは異常な死者でもあり恐ろしい存在で、人間はあくまでもその対岸にいる。 この舞台では、その境界線を少しずつ壊していく。 岡田利規さんは、チェルフィッチュを率いて、言葉と身体の関係、俳優と役柄の関係、舞台と現実の関係を組み替えながら、「そもそも演劇とは何なのか」を問い続けてきた演劇家だ。 2026年4月には東京芸術劇場の舞台芸術部門芸術監督に就任し(音楽部門は、なんと山田和樹さん!)、この作品が就任第1作となった。ドイツ・ハノーファー州立劇場で初演された『Sliding Away』を、日本版の俳優・スタッフによって新たに立ち上げた作品でもある。...


「奇才の画家 サルバドール・ダリ版画展―奇想の迷宮―」@南アルプス市立美術館
南アルプス市立美術館で、「奇才の画家 サルバドール・ダリ版画展―奇想の迷宮―」を見た。 私は昔からダリが好きだった。だから、山梨でも当然、足を運ぶ。 大学生の頃、バックパッカーとしてスペインを旅したことがある。バルセロナから列車に乗り、フィゲラスへ向かった。目的は、ダリ劇場美術館だった。 建物そのものが巨大な作品のような、あの奇妙な場所に足を踏み入れたときの感覚を、今でも覚えている。美術館というより、ダリという一人の人間の頭蓋骨の中へ入っていくようだった。 今回、久しぶりにまとまったダリの作品を見ながら、そのとき感じた奇妙な感覚が蘇ってきた。 ダリは「奇才」「シュルレアリスムの巨匠」と呼ばれる。 もちろん、それは間違いではない。 けれども、ダリを単なる奇抜な人として理解すると、その本質を見失うように思う。 むしろ彼は「現実とは何か」を異常なほど真剣に考え続けた人だったのではないだろうか。 興味深いのは、ダリが科学に強く惹かれていたことである。 精神分析、数学、物理学、原子物理学、DNA。時代の最先端にあった科学的知見を貪欲に吸収し、それを自らの芸


イメージは、どこへ行くのだろう――浅間国際フォトフェスティバル「After the Image」を歩いて
浅間国際フォトフェスティバル2026 PHOTO MIYOTAへ行った。毎年足を運んでいる。御代田は軽井沢のすぐお隣。 今年のテーマは、「After the Image――イメージのその後」。 写真は、シャッターを切った瞬間に完成するのだろうか。展示を歩きながら、そんなことが頭に浮かんだ。 写真は、ある瞬間を切り取るものだと思われている。しかし実際には、その瞬間から写真の長い旅が始まる。誰かに見られ、記憶され、忘れられ、別の時代に発見される。複製され、加工され、ときには本来とは違う意味を与えられる。 そう考えると、写真とは「過去を保存するもの」というより、過去から未来へ送り出された、小さな舟のようなものなのかもしれない。 今回、とりわけ印象に残ったのが石橋英之の《Trails》だった。 https://asamaphotofes.jp/exhibitions/02-%E7%9F%B3%E6%A9%8B-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/ 石橋は、古典写真技法と現代のテクノロジーを行き来しながら、アーカイブやファウンドフォト、物質そのものへの実


「束芋画 国宝」後期展示@ポーラ ミュージアム アネックス
銀座のポーラ ミュージアム アネックスで、束芋「束芋画 国宝」展の後期展示を見た。 →●前期展示の感想 束芋さんの作品を見ていると、いつも「私たちは何をもって人間を見ているのだろう」と思う。 今回、ことさら印象に残ったのは、顔がないことだった。 人間を描くとき、私たちはどうしても顔を見ようとする。 顔からその人の感情を読み、性格を想像し、喜びや悲しみを理解しようとする。肖像画の歴史もまた、顔を通して人間の内面へ近づこうとしてきた歴史だったのかもしれない。 ところが束芋さんの世界では、顔が消えている。 それなのに、不思議なほど「人間」がいる。 むしろ顔がないことで、その人が何者なのかという社会的な情報が剥がれ落ち、もっと深いところにある人間そのものが現れてくる。 肉体を描いているようで、肉体を描いていない。 そこにあるのは、皮膚の下に隠されていた記憶や感情、欲望、不安、孤独、あるいは死者の気配のようなものだ。 人間の身体を借りながら、束芋さんが描いているのは、霊魂の側から見た人間の真実なのではないか、とさえ思った。 そして、その世界を支えているのが


湯治文化 温泉の楽園 松本@松本市立博物館
松本の街を歩いていると、ときどき不思議な感覚になる。 目の前には城下町の整然とした道があり、少し顔を上げれば、その向こうに北アルプスの山々が連なっている。人間がつくった街と、人間よりはるか以前からそこにある山。その二つが、同じ風景の中に静かに収まっている。 けれども、松本という土地を本当に理解するためには、目に見える風景だけでは足りない。その地下には、もう一つの松本がある。 火山があり、断層があり、複雑な地質がある。何万年、何十万年という時間をかけて、大地の内部を水がめぐり、熱を受け、岩石の成分を溶かし込み、再び地上へと戻ってくる。 それが、温泉である。 温泉とは、単なる「温かい水」ではない。地下深くに隠されていた土地の記憶が、液体となって地上へ現れたものだ。 松本市立博物館の常設展示も素晴らしかった。 松本市立博物館の展示を見ながら、松本はまさに「温泉の楽園」だったのだと知った。 明治時代につくられた温泉番付には、全国409か所もの温泉が並んでいる。その中には、浅間温泉、白糸の湯と呼ばれた現在の美ヶ原温泉、そして白骨温泉など、松本周辺の名湯が名