

生命は、きれいごとでは収まらない。 「寺山修司と日本のアヴァンギャルドポスター展」(渋谷ヒカリエ8階、Bunkamura Gallery 8)
渋谷ヒカリエ8階、Bunkamura Gallery 8/で開催されている「寺山修司と日本のアヴァンギャルドポスター展」へ。 1960年代から1980年代半ばにかけて、日本の演劇界に吹き荒れたアングラ演劇の熱狂。当時の貴重な公演ポスターが集結している。 状況劇場、天井棧敷、黒テント、自由劇場、大駱駝艦。 その表現を支えたのは、横尾忠則、宇野亞喜良、粟津潔、田名網敬一、金子國義など、時代を切り拓いた芸術家やデザイナーたち。 演劇と美術が交差し、ポスターそのものが一つの事件であり、挑発であり、独立した芸術作品になっていた。 この圧倒的な表現の背景には、戦争と敗戦、そして戦後の混沌があるのだろう。 戦争が奪ったもの。戦後の復興が置き去りにしたもの。高度経済成長の明るさの陰で、行き場を失った感情や、社会から押し込められた声。 そこには、悲しみも、怒りも、絶望も、欲望も、祈りもあった。 それらをきれいに整理するのではなく、矛盾したまま、丸ごと舞台に引きずり出そうとした。 当時のアングラ演劇は、単なる舞台芸術ではなかった。 既成の価値観や社会制度、身体


分かりきれない人と、生きていく。―湯河原「山田太一の仕事部屋」を訪ねて
湯河原町役場に用事があり、湯河原町立図書館に新しく開かれた常設展「山田太一の仕事部屋」を訪ねた。 机と椅子、書棚、直筆の原稿。少年時代を過ごした湯河原の記憶を描いた地図。作品から何かを受け取った人たちの言葉。書斎を眺めていると、山田さんが長い時間をかけて見つめていた「人間」が、こちらへ静かに近づいてくるようだった。 山田太一さんは、人間をよく理解した作家だった。しかし、その理解の深さは、人を分かったつもりにならないところにあったのではないか。 学歴、職業、年齢、家族関係。医療であれば、病名や検査値。どれも大切な手がかりだ。しかし、それらを集めても、一人の人間を言い尽くすことはできない。その人が何を恥じ、何を守り、どんな記憶に支えられて生きてきたのか。説明の先に、まだ広い世界がある。 『ふぞろいの林檎たち』は1983年。 学歴への引け目を抱えた若者たちを、山田さんは単純に「実は優秀だった人たち」に変えて救わない。 社会に高く評価されなくても、その人生には、すでに描かれるに値する重さがある。 「ふぞろい」を、整えるべき欠点にしなかった。ここに山田さん


『急に具合が悪くなる』を医療の現場から読む―不運は点、不幸は線。病いと偶然と魂のあいだで。
宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)を読んだ。 きっかけは映画を観たことだった。映画を通して、病いと死、ケアと人間の尊厳について考えさせられ、その原作の一つである本書を手に取った。 ●August 29, 2026:生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える 本書は、がんを患う哲学者・宮野真生子と、医療人類学者・磯野真穂による往復書簡である。 二人が交わす言葉は、単に病気の治療法を論じるものではない。 病いによって人生の見通しが崩れたとき、人は何を信じ、何を頼りにどう生きていくのか。その根源的な問いを、互いの言葉を通して掘り下げていく。 私は長年、救急医療や集中治療、循環器医療の現場で、突然病に倒れる人、昨日までの日常を失う人、治療の選択に苦しむ人たちと向き合ってきた。 医学は、病気の原因を探り、予後を予測し、適切な治療を選択する。 しかし、医学的に正しい判断が、その人にとって生きる意味を与えるとは限らない。 医学は病気を説明できても、病いを生きる人間の人生を説明し尽く


人生に巻き戻しはない。生命はただ未来へ流れていく。「没後20年 ナムジュン・パイク|じゅげむ展」@ワタリウム美術館
外苑前のワタリウム美術館で「没後20年 ナムジュン・パイク|じゅげむ展」を観た。 ナムジュン・パイク(1932–2006)は、テレビやビデオを芸術の素材に変えた、メディアアートの先駆者。しかし今回の展示で強く感じたのは、彼が単なるテクノロジーの革新者ではなく、時間、生命、自然、輪廻、人間存在を問い続けた哲学者でもあったということだ。 パイクの作品には、仏教や禅、東洋思想と、西洋の前衛芸術や電子技術が、不思議なほど自然に共存している。 ビデオテープには、再生(PLAY)、停止(STOP)、巻き戻し(REWIND)、早送り(FAST FORWARD)がある。 しかし、私たちの人生には、巻き戻しがない。 過去の映像を何度繰り返し再生しても、その瞬間の自分に戻ることはできない。人生には、ただ前へ進む「GO」しかない。 この非対称性こそ、生命の本質なのではないか。 映像は同じ場面を反復できる。しかし、同じ映像を見る私たちは、すでに昨日の私たちではない。記憶も、感情も、身体も、絶えず変化している。 生命とは、同じ状態を保存することではなく、変化し続けることそ


あなたが安心していられる場所をともに。東田直樹『自閉症の僕の子ども時代 だから毎日、幼稚園に通えた』
東田直樹『自閉症の僕の子ども時代 だから毎日、幼稚園に通えた』(2025、世界文化社)を読んだ。 話すことや集団行動が難しかった東田さんが、幼稚園時代を自分の内側から振り返る。先生、友だち、両親との時間。花や虫、水や砂、季節の移ろい。短いエッセイと挿絵のなかに、一人の子どもが生きていた世界がよみがえる。 モンシロチョウの羽ばたき。指の間からこぼれる砂。水しぶきに現れる小さな虹。ブランコで近づく夏の空。 落ち着きなく動く姿だけでは、その子が何に心を奪われているのかわからない。 東田さんの文章を読むと、そこには驚きや喜び、身体いっぱいに世界を受け取る時間があったことに気づく。 先生たちは、その世界に近づこうとしていた。 蝶に夢中になっているとき、同じものを見てくれる。砂の感触を一緒に楽しむ。描いた絵を理解し、友だちにも伝えてくれる。子どもの関心を手がかりに、人とのつながりをつくっていた。 表題の「だから毎日、幼稚園に通えた」も、そんな関わりの積み重ねから生まれている。 登園し、靴を替え、先生に挨拶する。毎日の流れがわかりやすいことは、安心につながった


まだ知らないあなたに出会い続ける。東田直樹『自閉症の僕が、今も跳びはねる理由』(2025年)
東田直樹『自閉症の僕が、今も跳びはねる理由』(2025年)を読んだ。 13歳のときに書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』(2007年)の問いに、30代になった東田さんがあらためて向き合う。言葉、感覚、身体、人との関係。その文章から、外に現れる姿と、内側で生きている世界との間にある距離が見えてくる。 私は、自著『いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ—』のなかでも、東田さんの言葉を引用しているし、ケアに関する講義でも東田さんの事例を紹介している。東田さんの文章には、人を理解する際の思い込みを揺さぶり、目の前の人へ向き直らせてくれる力がある。 返事がない。目が合わない。突然声を出す。じっとしていられない。・・・私たちは、目に見える行動から、その人の気持ちを推測する。しかし、その推測がどれほど限られているかをこの本は静かに教えてくれる。 東田さんには伝えたい思いがある。それでも、その場に合う言葉を口にすることが難しい。目を見ようとすると、視覚に注意を取られ話の内容が頭に残りにくくなることもある。 言葉が返ってこない時間にも、その人の経験は続いて


松本・浅間温泉「湯々庵 枇杷(びわ)の湯」
松本・浅間温泉の「湯々庵 枇杷の湯」。 時間の漏斗、その奥へ。湯に沈めば、殿様の身体。 軽井沢から松本へ。 この道のりが好きだ。 軽井沢を出て、浅間山の気配を背中に感じながら西へ向かう。佐久の広い空を抜け、山あいへ入り、峠を越えていく。高原の光、遠く重なる山の稜線、収穫を待つ田畑、小さな集落。車窓の風景が少しずつ変わるたびに、自分の中の時間の速度まで変わっていくように感じる。 そして途中、鹿教湯温泉を通る。ここは、素通りするのがなかなか難しい。 鹿に導かれて湯を発見したという伝説を持ち、古くから湯治場として人々の身体を受け止めてきた場所。山あいへ入り、鹿教湯の文字が見えてくるだけで、「ちょっとだけ入っていこうか」という誘惑が生まれる。 ●September 10, 2026: 味噌ジェラート@鹿教湯温泉(イズミヤ ジェラート) ●September 9, 2026:「’82 マイコン・イン 鹿教湯温泉」&坂本龍一さん ●July 8, 2026:大塩温泉@丸子(まるこ)温泉郷 ●July 7, 2026:高梨共同浴場@鹿教湯温泉


子安温泉 褐色の湯と裸で風に触れる時間。
山田温泉、七味温泉、松川渓谷、雷滝。 高山村で水と湯をたどる旅の中で、子安温泉を訪れた。 温泉は源泉かけ流し。療養泉として開湯以来多くの人々に愛され続ける名湯。レアなのは「含よう素泉」で、⾧野県でも子安温泉と長野市の川中島温泉テルメDOMEの2か所しかない。) 高山村の温泉郷を巡ると、近い場所にありながら湯の個性が驚くほど違う。 山田の透明な湯 七味の白濁した湯 そして子安の褐色 子安温泉は、含よう素-ナトリウム・カルシウム-塩化物温泉。 七味で見た硫酸塩を主体とする湯とは、化学的な骨格も異なる。 今回見つけた2014年の分析書には、源泉温度35.9℃、pH6.8。そして、源泉の外観は「ほとんど無色透明」と記されていた。それなのに、浴槽では褐色になる。 この違いが面白い。 分析書には、鉄〈Ⅱ〉が8.2 mg/kg含まれている。地下では水に溶けていた鉄が、地上で空気に触れ、酸化して微細な沈殿になる。その変化が、湯の黄褐色や茶褐色を生んでいる可能性が高い。 透明な水が、地上で色を持つ。 松川で見た赤褐色の河床も思い出した。川と浴槽では条件が違うけれど


雷滝で水の風景の内側へ。
山田温泉、七味温泉と、松川の流域にある湯を訪ねる中で、雷滝にも立ち寄った。 長野県高山村、松川渓谷にある「裏見の滝」。 名前の通り、滝の裏側から流れ落ちる水を見ることができる。 滝の裏に入れることに、まず驚く。 滝が目の前を覆う水の幕になる。その向こうに岩や木々が見える。風景を見ていたはずなのに、いつの間にか、その風景の内側に立っていた。 圧倒的な水量だった。 絶え間なく落ちる水と、身体にまで響いてくる轟音。「雷滝」という名が、耳だけでなく、全身で分かる。 さらに印象に残ったのは、空気中を飛び交う水粒子だった。細かな水滴が光を受け、流れ、舞い、こちらへ届く。水は川や滝の中だけにあるのではなく、空気の中にも広がっている。周囲の空間そのものが、水のエネルギーで満ちているように感じた。 それは、落下する水が持つ力が、音や風や飛沫へと姿を変え、身体に届いてくる体験だった。 水には、いろいろなものを洗い流す圧倒的な力がある。 岩を削り、砂を運び、長い時間をかけて谷をつくる。その水の前に立つと、頭の中で繰り返していた考えも、日常の細かな気がかりも、しばらく遠


七味温泉「紅葉館」―山を下りても、温泉は身体に残っていた
軽井沢から菅平高原を抜け、車で約2時間。 長野県北東部、須坂市や小布施町の東側に位置する高山村の七味温泉へ向かった。(高山村役場に用事があったもので) 高山村は、里の集落から群馬県との県境をなす山々へと広がる村。その山あいを流れる松川に沿って、個性の異なる温泉が点在している。先日訪れた山田温泉も、この同じ流域にある。 山田温泉よりさらに上流へ、松川渓谷の奥へと入っていくと、七味温泉にたどり着く。 県境の山々の向こうには、万座や草津の温泉地がある。 信州の谷を奥へ奥へと進みながら、群馬の火山と温泉の世界にも近づいていたのだと思うと土地のつながりが面白い。 軽井沢から約2時間という距離なのに、ずいぶん遠くへ来た気がした。 谷が深くなり、日常の気配が少しずつ遠ざかる。温泉に入る前から身体の時間が変わっていくようだった。 七味温泉には、かつて「日本秘湯を守る会」の会員宿(七味温泉の渓山亭)もあったという。ここで感じる秘湯らしさは、道のりの先で、山と湯がつくる時間に身を置くことにあるのかもしれない。 七味温泉「紅葉館」の日帰り温泉を訪問(日帰り入浴は午前1