

『急に具合が悪くなる』を医療の現場から読む―不運は点、不幸は線。病いと偶然と魂のあいだで。
宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)を読んだ。 きっかけは映画を観たことだった。映画を通して、病いと死、ケアと人間の尊厳について考えさせられ、その原作の一つである本書を手に取った。 ●August 29, 2026:生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える 本書は、がんを患う哲学者・宮野真生子と、医療人類学者・磯野真穂による往復書簡である。 二人が交わす言葉は、単に病気の治療法を論じるものではない。 病いによって人生の見通しが崩れたとき、人は何を信じ、何を頼りにどう生きていくのか。その根源的な問いを、互いの言葉を通して掘り下げていく。 私は長年、救急医療や集中治療、循環器医療の現場で、突然病に倒れる人、昨日までの日常を失う人、治療の選択に苦しむ人たちと向き合ってきた。 医学は、病気の原因を探り、予後を予測し、適切な治療を選択する。 しかし、医学的に正しい判断が、その人にとって生きる意味を与えるとは限らない。 医学は病気を説明できても、病いを生きる人間の人生を説明し尽く


あなたが安心していられる場所をともに。東田直樹『自閉症の僕の子ども時代 だから毎日、幼稚園に通えた』
東田直樹『自閉症の僕の子ども時代 だから毎日、幼稚園に通えた』(2025、世界文化社)を読んだ。 話すことや集団行動が難しかった東田さんが、幼稚園時代を自分の内側から振り返る。先生、友だち、両親との時間。花や虫、水や砂、季節の移ろい。短いエッセイと挿絵のなかに、一人の子どもが生きていた世界がよみがえる。 モンシロチョウの羽ばたき。指の間からこぼれる砂。水しぶきに現れる小さな虹。ブランコで近づく夏の空。 落ち着きなく動く姿だけでは、その子が何に心を奪われているのかわからない。 東田さんの文章を読むと、そこには驚きや喜び、身体いっぱいに世界を受け取る時間があったことに気づく。 先生たちは、その世界に近づこうとしていた。 蝶に夢中になっているとき、同じものを見てくれる。砂の感触を一緒に楽しむ。描いた絵を理解し、友だちにも伝えてくれる。子どもの関心を手がかりに、人とのつながりをつくっていた。 表題の「だから毎日、幼稚園に通えた」も、そんな関わりの積み重ねから生まれている。 登園し、靴を替え、先生に挨拶する。毎日の流れがわかりやすいことは、安心につながった


まだ知らないあなたに出会い続ける。東田直樹『自閉症の僕が、今も跳びはねる理由』(2025年)
東田直樹『自閉症の僕が、今も跳びはねる理由』(2025年)を読んだ。 13歳のときに書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』(2007年)の問いに、30代になった東田さんがあらためて向き合う。言葉、感覚、身体、人との関係。その文章から、外に現れる姿と、内側で生きている世界との間にある距離が見えてくる。 私は、自著『いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ—』のなかでも、東田さんの言葉を引用しているし、ケアに関する講義でも東田さんの事例を紹介している。東田さんの文章には、人を理解する際の思い込みを揺さぶり、目の前の人へ向き直らせてくれる力がある。 返事がない。目が合わない。突然声を出す。じっとしていられない。・・・私たちは、目に見える行動から、その人の気持ちを推測する。しかし、その推測がどれほど限られているかをこの本は静かに教えてくれる。 東田さんには伝えたい思いがある。それでも、その場に合う言葉を口にすることが難しい。目を見ようとすると、視覚に注意を取られ話の内容が頭に残りにくくなることもある。 言葉が返ってこない時間にも、その人の経験は続いて


本が本を呼び人と人をつないでいく。10月8日(木)朝日新聞朝刊
本日、10月8日(木)の朝日新聞朝刊に、私の著書『いのちを呼びさますもの ―ひとのこころとからだ―』(アノニマ・スタジオ)をご紹介いただきました。 今回の掲載は、文化通信社が昨年刊行した『読書のススメ』という企画が、朝日新聞に転載されたものです。 本を選んでくださったのは、ウェルカムグループ代表の横川正紀さん。 横川さんは、DEAN & DELUCAをはじめ、食、暮らし、デザイン、街づくりなど、さまざまな領域を横断しながら、日本に新しいライフスタイルや文化を根付かせてこられた方です。 単に商品やサービスを提供するのではなく、その背景にある思想や美意識、日々の暮らしを豊かにする文化そのものを育ててこられた。その姿勢には、以前から深く共感し、敬意を抱いていました。 そんな横川さんが、数ある本の中から私の本を選んでくださったことは、何よりもうれしく、感動的な出来事でした。 新聞には、こんな言葉が添えられています。 「人の体は約60兆個という途方もない細胞の集合体だそうだ。この本は生まれてから当たり前のように思ってきた自分の体に向き合うきっかけを与えてく


読むことは、生きること 米原万里『打ちのめされるようなすごい本』
ロシア文学への興味が深まり、その言葉や文化に通じた米原万里(1950-2006)の書評を読んでみたくなった。 ゴルバチョフやエリツィンからも厚い信頼を寄せられたロシア語通訳者である。言葉を通して人と人、文化と文化をつないできた彼女は、どのように本を読むのだろう。その関心から手に取った一冊だった。 まず、題名がいい。『打ちのめされるようなすごい本』。整えられた批評の言葉になる前の、思わず口からこぼれたような、生の言葉だ。本に出会い、心身を揺さぶられた驚きがそのまま伝わってくる。「すごい」という日常の言葉が、これほど強く響く題名も珍しい。 本書には、多彩な書評とともにがんとの格闘を綴った読書日記が収められている。読み進めて驚いたのは、読むことと生きることが、分かちがたく一体となっていることだった。 文学や歴史、言語をめぐる文章のなかに、時折、がんの治療法や医療情報が差し込まれる。そのたびに、読書の世界を自在に行き来していた言葉が、著者自身の身体へと引き戻される。いま何を信じ、どの治療を選ぶのか。情報を読むという行為に、自分の命がかかっている。その切迫


トルストイ『人は何で生きるか』 愛を訳し愛を生きる
トルストイの『人は何で生きるか』を、北御門二郎の訳で読んだ。 映画『ドライブ・マイ・カー』をきっかけに移動中はチェーホフを読み直すようになり、ロシア文学に興味が向かった。そうして、トルストイやドストエフスキーを、学生時代以来20年ぶりに再読している。2024年からライフスタイルを大きく変えたおかげで、時間も心にも余裕ができてきたのだろう、と思う。多忙な時は本を読む時間がとれなかった。心の余裕と本の時間とは相関関係にある。もちろん本を読まなくても死ぬことはない。ただ、体だけではなく心にも栄養を行き渡らせるためには、芸術や読書の体験が深い心の支えになるのだ。 cf.●September 25, 2026 声の残る車、降りられない劇場 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021) 靴職人のシモンは、寒さの中に取り残された見知らぬ男を家へ連れ帰る。自分たちの暮らしにも余裕はない。妻は初め、その男を迎えることに腹を立てる。それでも食べ物を分け、居場所をつくる。その小さな出来事から、物語は「人は何によって生きているのか」という大きな問いへ進んでいく。.


信じる心と、問い直す自由。角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)
角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)を読んだ。 ちょうどコロナ禍があけたころの作品で購入していたが、ふと本棚で見かけて読んだ。新幹線や電車の移動で少しずつ。 予言、宗教、自然食、ワクチン、陰謀論……。 時代ごとに現れる「信じるもの」を通して、この小説は、人が不確かな世界をどう生きていくのかを描いている。 私がとりわけ痛々しく、共感したのは望月不三子だった。 不三子は家族の健康を願い、自然食を学び、毎日の食事をつくる。私自身も医学部生の頃から食と健康について考え続け、可能な限り体にやさしいものを食べたいと思ってきた。 だから彼女を、単に「極端な考えにとらわれた人」として読むことはできなかった。 食べることは、生きることに直結している。 大切な人の体を思えば、何を食べさせるかに真剣になるのは自然なことだ。 ただ、よいものを食べてほしいという願いと、家族が食べたいもの、その食卓でどう感じるかは、必ずしも一致しない。十分な対話が欠けていたのかもしれない。食卓は愛情が形になる場所であり、同時に、それぞれの自由や気持ちがぶつかる場所でもある。...


声の残る車、降りられない劇場 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021)
『急に具合が悪くなる』(2026)が素晴らしかったので、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021)を観た。村上春樹やチェーホフの作品世界が響き合い、言葉と声が深く余韻を残し続ける映画だった。 →cf.「生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える」 印象的だったのは、死者の声が、生きている人の日常を動かし続けていることだ。 家福の赤い車には、妻・音が録音した『ワーニャ伯父さん』の台詞が流れる。家福はその声を聞き自分の台詞を返す。死者との対話は終わることのない稽古となる。 生きている相手の言葉は変わるが、録音された声は変わらない。 車は前へ進むのに、二人の会話だけが閉じられた輪の中で止まっている。 チェーホフが生きた19世紀後半のロシアは、農奴解放を経て古い身分秩序が揺らぎ、都市化が進む時代だった。社会は変わり始めているのに、人々の日々は変わらない。『ワーニャ伯父さん』に漂う「このまま人生が過ぎてしまう」という痛みは、個人の後悔だけでなく時代の転換期を生きる不安も重なっている。 チェーホフは医師でもあ


身体はまだ私たちの知らない可能性を持っている(『古武術で体を整える』(宝島社))
甲野善紀先生から『古武術で体を整える』(宝島社)という本を贈呈いただき、「年齢は身体能力を奪わない」という原稿を読んだ。この本は実際の身体の動きの写真が多く学びになる本だった。身体教育家・林久仁則さん、ひもトレの小関勲さんの記事も学びがある。 甲野先生は、77歳となった今も、新しい技が生まれ続けているという。 心に残ったのは、 「今でも、ではなく、今だからできることがあります。」 という一節だった。 甲野先生が見つめているのは過去の身体との比較ではない。「今の身体だからこそ、何が可能なのか」という問いだ。 もちろん加齢で筋力や反応速度、持久力は変化するだろう。しかし、身体能力は筋力や速さだけではない。重心の移動、力を抜くこと、全身の連動、相手との距離、気配を察すること。 経験で深まる感覚や、若い頃には気づけなかった身体の使い方がある。 年齢はある能力を低下させる一方で、別の能力を育てる可能性を持っている。 甲野先生は、武術を「対抗の原理」ではなく、「対応の技術」と語る。 相手に勝とうとして力をぶつければ、こちらの動きは相手に伝わり、互いの身体は衝


「私もまた、チッソだった」――緒方正人さんが問い続けている〈いのち〉のこと
今日、2026年9月12日の朝日新聞を開いて、緒方正人さんのインタビューに目が止まった。 大きく書かれていた。「死んだ父の仇討ち 行政と闘ったが 水俣病の本質とは」 そして、もう一つ。「逃れ難い経済の檻 悪の因子 自分にも 考え続ける責任」 緒方正人さんの思想に触れるたび、私は思う。 この人のすごさは、「水俣病について深く考えた」というだけではない。 考えるという行為そのものを、途中で反転させてしまったことにある。 父を水俣病で亡くし、自らも患者となった緒方さんにとって、チッソは文字通り「父の仇」だった。だから闘った。チッソを問い、行政を問い、国家を問うた。 ところが問い続けているうちに、奇妙なことが起こる。 「責任者は誰なのか」と追いかけても、その最後に、責任を引き受ける一人の人間がいない。あるのは会社であり、行政であり、国家であり、制度であり、システムだった。 緒方さんは、その経験について『チッソは私であった』で、責任主体としての人間がどこにも見つからなかったこと、そしてその問いがついには「私という存在」そのものの根拠を揺さぶったと記している