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「坂本龍一設置音楽展 Ryuichi Sakamoto async」ワタリウム美術館

ワタリウム美術館に行き、「坂本龍一設置音楽展 Ryuichi Sakamoto async」を体感してきた。 そこは音楽でもあり、空間芸術でもあり、美術でもあった。 そうしたカテゴライズが意味をなさないほどの、生命や芸術の母型をも感じさせる素晴らしい時間と空間の体験だった!!

 

今回の「async」は、実に8年ぶりとなるアルバム。

このアルバムが生まれるまでに、坂本さんが病で生命や身体性と向き合うことを余儀なくされたこと、2011年の3.11という事態を経ていることは、この作品と分かちがたく大きな意味を持っていたのではないかと思った。

ワタリウム美術館全体が、体内(胎内)のような空間になっていた。 そこにいたすべての人が、自分の原初の記憶に立ちかえるように、外の音を聴いているようで自分の内側の音を聴いているように見えた。自分も、その一人だった。

空間全体を母体(母胎)のように感じたのも、音が命の根源に触れていたからだと思う。

人には誰しも最初の音の記憶がある。 胎児の時に母の体の中で聴いていたときの音がその代表だ。

原初の音は母親の内臓の音や血流の音でもあり、母親が生きたこの自然と人工とが織りなす世界そのもの音でもある。 思い出せないだけで、全身にその音は刻まれている。

自分の「初めての音の記憶」をそっとなでられような気がした。 ワタリウムを訪れた人は、多かれ少なかれ、そうした先祖返りを体験していただろうと思う。意識しようもしまいとも。

「async」の楽曲は、まるで坂本さんの体内に入り込んで、その体の内部の音を聴いているかのような気分だった。

基本的には非周期的な音が多かったのだが、だからこそ周期的なリズムが際立ち、周期性を持って響いた音は、坂本さんの心臓の拍動かのように感じた。

人間の体の中には、内臓も含めて自然そのものの存在物しかなく、それが生命を維持している。 ただ、現代は人工的でメカニカルな空間の中でも生きているから、体内の自然音と体外の人工音の響きとが、海の波が干渉するように静かにぶつかりあい、重なり合い、調和しあい、せめぎあう。音の空間から何かそういうことが浮かんできた。

自分の感覚としては、坂本さん自身の「体内の音」(それは坂本さんが生まれてから今まで毎日聴いているはずの音でもある)として音楽が始まっていたような気もしたが、それはいづれ聴いている自分自身の「体内の音」とも重なりあい、部屋の中にいる全員の「体内の音」へとも拡張していく感覚になった。

全身で「async」の楽曲を聴いていたため、全身の皮膚が音に満たされ、皮膚はその役割を離れ、部屋の空間全体が自分の皮膚のような感覚がしてきたのだ。皮膚の感覚が淡くなると、空間全体が自分の体内のような気がした。

皮膚が自分の内と外とを規定するために大きな役割を果たしているということが、皮膚が音そのものになったことで意図せず感じられたのだった。

こうした感覚は、「async」の楽曲が坂本さんの生理や肉体の音に根ざして作られていることと関係があるのかもしれない。 坂本さんが病を経て、震災を経て、体や命や生や死のことと新たな関係性を結ぶ必要に迫られたからこそ、おのずからできあがった音の世界なのかと思ったのは、そのためでもある。

 

2Fの<async -drowning->では全楽曲を全身で聴いた。

耳でも聴いたし、肌でも聴いたし、坂本さんの体内に入りこむようにしても聴いたし、その場にいた全員の体内に入りこむようにしても聴いた。それは結局自分の体内の音を聴くことにもつながっていて、自分の心臓の鼓動の音、呼吸の音、意識がきしむ音、そうした音までもが聴こえた。

高谷史郎さんの揺らいだような映像も、坂本さんの楽曲を補完するものとした働く素晴らしいイメージ群だった。

目をつぶると自分の内側が見えて、目をあけると高谷さんの原初的なイメージが視覚を優しく包む。

映像の中にあるイメージを明確につかもうとすると、その形は溶けてなくなる。

物質は波動となり、波動は物質となる。

それは音の世界も同様だ。

この世界の基礎を形づくっている量子力学でも、すべては粒子と波動の重なり合いであると表現する。

波としての音、粒子としての音。

波としてのイメージ、粒子としてのイメージ。

音とイメージとは、波と粒子の間を揺らぎながら、この世界を結び、ほどく。

自分の原初の音の記憶までも蘇るような体験だった。

いのちの根源にある光に触れたような。

そこにあるいのちの光は、蜃気楼のように近づけば遠ざかるようで、手を伸ばせばすぐに届きそうで、でも永遠に触れることが出来ないような、そうしたこの世ならない距離感でもあった。

時間を忘れるほど長くいた気もする。一瞬だった気もする。

楽曲はいつのまにか一回りしていた。

 

朦朧とした意識の中で3階に足を運んだ。 3Fの<async - volume ->では、坂本さんの「暮らし」を感じる空間になっていて、自分がこの楽曲の作り手自身であるかのような奇妙な感覚になった。 「暮らし」は生活でありLifeであり「いのち」である。坂本さんの生活こそが、この楽曲の母体となった空間そのものでもあった。

暗闇の中にモニターが光っていて、体の中から外を見ているような光景で、体の中にいる視点そのものになった気がした。

 

4Fの<async - First light ->にうつった。 そこには「first light」と書かれていた。

最初の光。

2Fの<async -drowning->で楽曲を全身で聴いた時、自分もいのちの光に触れたような体験をしていた。

「first light(最初の光)」とは、自分が生まれた時に浴びた光かもしれない。 もしくは、母の胎内から、皮膚を介して漏れ感じていた光かもしれない。

4Fの<async - First light ->でのアピチャッポンの映像は、原初の光や原初の記憶を思い出させるイメージの断片だった。 「眠り」の映像は、まさに僕らが毎日毎日繰りかえして向き合わされる「内側への意識」そのものでもあった。

・・・・・・ 人間は、生きている限り、覚醒と睡眠のリズムから逃れることが出来ない。 それは、外側への意識活動だけではなく、内側への意識活動とのバランスでしか、生命が成立しえないということでもある。二つの意識状態を変動するのは、生命が成立する前提でもあるのだ。

人は眠りへと落ちる時、「外への意識」が「内への意識」へと切り替わる。 人は眠りから目覚める時、「内への意識」が「外への意識」と切り替わる。 人は、生まれた時から死ぬときまで、必ずこのリズムから逃れることはできない。

その二つの世界はデジタルに切れているようで、あわいの領域でゆるやかに重なっている。

この「async」は、そうした「自分の内部への意識」と「自分の外側への意識」とが重なり合った世界で作られたのかもしれない。だからこそ、聴いている人もそうした領域に誘われるのだろう。

喧噪に溢れた東京を歩いてワタリウム美術館に訪れた人は、「async」の楽曲が溢れた聖域の中で、やっと豊かで原初的な夢を見ることができるのだ。

・・・・・・・・・

坂本さんが、命の根源の場所に触れた時間を経たからこそ、楽曲の中にはそうした手触りが自然に溢れていた。

村上春樹さんの新作を読んだ時も思ったが、坂本龍一さんの楽曲も、危険を冒して僕らの少し先を先導して進んでくれていて、押し付けがましくない形で僕らの意識をさりげなく引っ張ってくれている。

坂本龍一さんを見るのではなく、坂本龍一さんがさした指の先を見る必要がある。

今回の楽曲は極めてプライベートな作品でありながら、生理や肉体や生命が感じられる静謐な音の空間でもあり、時代のはじまりの光を感じさせるものだった。

ワタリウム美術館に入り、ワタリウム美術館を出ると、きっと体の組成が変化している。 もう過去の自分には戻ることが出来ない。 なぜなら、坂本龍一さんが指し示した少し先の未来へと足を踏み込んでしまっているから。この空間を体験していない人との違いは、そういうことだ。

自分が受け取ったこと。 未来は、それぞれの人びとが、それぞれの生命のルーツとつながったものが中心となって動いていく世界になるのだろう。お金を中心にして動く世界ではなく、いのちを中心にして動く世界に。生命そのものが世界の軸となり、世界は新たないのちを得る。そうした時代に、自分も関与して行きたい。

音楽は祈りの形式でもあり、「async」には祈りそのものが最初から最後まで流れていた。

自分も、医療という日常の仕事の中に祈りの形式を込めていきたいと、つよく思った。

 

色々なイメージやシンボル、イデアやメタファーまでもが自分の頭の中を通過していく、素晴らしい時間でした。

「坂本龍一設置音楽展 Ryuichi Sakamoto async」は、ワタリウム美術館にて4月4日から5月28日まで。 5月28日を過ぎてしまうと、もう永遠にこの時間と空間を体験することはできません。一回性と永遠性は、美術や音楽や芸術の本質でもあると思います。

是非足を運んで、すべてを忘却して全身を委ねる豊かな時間を過ごしに行ってください。

(ワタリウムにて、思わず「async」のレコードを予約注文してしまいました・・・・。5月17日の発売が待ち遠しい。レコードでゆっくり聴き直して、再度音に浸ります。)

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