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学ぶ楽しさは永遠に続く

本日2/6火曜は、第7回 道の学校。

ゲストは藤田一照さん!(曹洞宗僧侶)、甲野善紀さん!(古武術研究家)という夢のコラボ。

今回は自然に一照さんが聞き役となり、甲野先生の体への気づきや技の話が泉のように溢れてくる時間に。シャワーのように叡智を浴び続ける最高の時間だ。

甲野善紀さんには、 「表の体育 裏の体育―日本の近代化と古の伝承の間に生まれた身体観・鍛練法」(PHP文庫)(2004/03) という名著がある。 (2013年に書いた書評があります) →●甲野善紀「表の体育 裏の体育」(2013-07-09)

自分は、表の医学としての西洋医学だけではなく、その他の膨大な言語化できない心身の叡智、ある意味では「裏の医学」とされてしまっているものとを結合させたい。(本当は「裏の医学」とされているもののほうが本流ではないかとも思うのだが) 

その思いがむくむくと沸き起こったのは、この「表の体育 裏の体育」という本の喚起力や豊かさによる。だから、甲野先生と話しているだけで、勝手に思い出深い。

甲野先生の話は面白い。 まず身体の動かし方の質が高く、次元が高い。

容易にまねできない。

でも、実際にしてみせてくれて、唖然とする。

それでいて、説明の仕方が巧みだ。比喩が絶妙だ。まるでブッダの譬え話のように。

甲野先生の溢れんばかりの心身への探求を聞いていると、「生きることの切実さ」から来ているのだと、ヒシヒシと伝わってくる。この人は、ずーーーっと切実に生き続けている人なのだ、と。

生きるためには、自分の「体」が前提になる。体がないと幽霊になるからだ。 ただ、その前提となる体のことを、わたしたちはまるで何も知らない。 自分も医療の専門家として、頑張って医師国家試験にも通った身ではあるが、いまだに体のことは分からないことだらけだ。学べば学ぶほど、知れば知るほど、それ以上に知らないことも増え続けるばかりだ。

甲野先生は、そうした自分の命を支える「体」を、独自に研究し、探求し、知り続け、知ったことも出し惜しみせず開示し続けている。 そのおこぼれをほんの少し分けてもらい、体の知らない面を知ってあっと驚き、そしてまた体の知らないことが増え続け、自分の体を前に呆然とする。 こんなに楽しい時間はない。

ちょっとした身体の些細な動きと、身体の全体の動きとは、不思議な形で連動しあっている。 体そのものの見方を、過去の知識をすべて捨てて、赤ん坊と同じ視点で見直していくと、まったく新たな発見がある。赤ん坊も、きっとこうして日々を発見と驚きで過ごしているだろう。

学ぶことは楽しい。 学ぶ楽しさを知るだけでも、僕らはどんな時代でも楽しくやっていけるし、どんな過酷な状況が待ち受けていても、乗り越えていける。

そうした未来への態度が、未知のことを知る、未知のことを学ぶ、というあり方の効用でもある。 東洋の身体観の歴史は底なしのように深い。

身心一如と言われるように、東洋の伝統は、哲学する身体観でもある。 体で体感しながら、それを頭で問い直しながら、頭と体全体が仲間として協調し手をとりあいながら生きていく。そうした身体観は面白い。

西洋の身体観を受け継ぎ、東洋の身体観を受け継ぎ、さらにその先の新しい身体観を育んでいく夢のような時代に生まれていることは光栄なことだ。

甲野先生とは帰りの電車でも色々と話した。 とても話があう。 自分の頭で考えている人は、もうそれだけで大いに尊敬すべき人なのだが、甲野先生の探求心の深さには脱帽だし、とても刺激を受ける。

今後も、子供のような探求心を忘れず、心身のことを学び続け、すこしでもそのことをプロとしても社会に還元していけるようであればいいな、と改めて思う。

自分の身体の可能性を引き出すこと。いのちを呼びさますこと。 現代では緊急の課題だと、自分は切実に切実に思っている。

せっかく自分の頭が与えられ、自分の体が与えられているのだから、自分の頭で考え、自分の体で体感したい。 それは当たり前なようだが、今という時代は、かなり意識的に生きていかないと、自分の頭で考え、体で体感することを忘れてしまうのだ。

それは自分自身への侮辱や冒涜につながる背信的な行為だ。 だから、自分の頭で考える。自分の体で行動する。

その原点に再度舞い戻ってくるのだ。

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