劇団イキウメ「外の道」@シアタートラム

劇団イキウメの新作「外の道」を、シアタートラム(世田谷パブリックシアター)に観に行った。


2020年はコロナ禍に突入し、軽井沢に移動し、演劇や劇場はバタバタと閉鎖。その中で、本当に貴重な機会。

1年前に予定されていたものが、1年遅れでの上演。


作・演出の前川知大さんは、同世代の中では村上春樹に匹敵するクリエイターで、誇らしいと共に尊敬の念を常に抱いているし、緻密かつ超常的で重層的な世界を見事に演じる俳優のみなさんたちも、すごいのです。






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「外の道」は、ちょっとしたことをきっかけに、見慣れていた日常が崩壊していく過程をリアルに描いていた。そこでどう受け止め、立ち回るのか。

まさに今、社会全体・地球全体が、まるで巨大な演劇空間か巨大なフィクションの世界に滑り込んだかのように、地すべりと共に急激な変容のプロセスにいる。まさに今この瞬間を切り取っているかのようでもあった。


認知症を患う老婆(見た目は少女)が出てきた。

認知症は「記憶」を失うことで、まだらな「記憶」をつなぎあわせて人生の整合性を取らざるを得なくなる。

たとえば、自分の娘や息子から声をかけられても、「あなたはどなたですか?」と、なる。周囲は慌てる。互いは互いを受け入れることができなくなる。

わたしたちは、こうした認知症の当事者の気持ちも、なかなか追体験し想像することも難しい。


今回の「外の道」の舞台では、「無」と言われるような存在の底が抜けたような体験が出てくる。仏教でも東洋哲学でも語られる、人間存在を支える謎の場所だ。


想像してみてほしい。

突然、目の前に「わたしはあなたの子どもです。ほら、すべての公的な書類はそろっています。警察も裁判所もすべてが証明しています。」という人が現れたらどうなるだろう。

自分の記憶にはない。そんなわけはない。

ただ、公的な書類はすべてそのことを示している。

記憶が優先されるのか、書類が優先されるのか。


自分を見失い、よくわからなくなったとき、自分を支えるものは、記憶なのか、書類なのか。そのどちらでもないとしたら、何なのだろう。



いまは、色んなシステムが瓦解している時代だ。

小さなシステムに、小さなシステムがのっかり、さらに大きなシステムが包み込み、その上にまたシステムが、、、と。システム同士は階層をつくり、糸のように絡まっている。個人から町から都道府県から国家から、色んなレベルや枠の中で、わたしたちの生活を無数のシステムが静かに取り囲んでいる。

共同体を運営するためのルールとして生まれてくるシステムは、あまりその前提を疑うこともない。知らないうちに知らない専門家が精緻につくりあげているが、もし、そうした見えざるシステムが特定の個人の存在を否定するように動き出したら、わたしたちは何を尊重し、何を優先するべきなのだろう。こうしたことは、AI時代が潜在的に抱える恐怖でもあるだろう。



「外の道」はもちろん演劇空間だ。前川知大さんと俳優のひとたちが作り出すひとつの虚構空間だ。

ただ、わたしたちは虚構であると思っているからこそ、安全な場所が保証しているからこそ、こうして演出家が提示する根源的な問いに対して、自分の想像力を駆使して対峙することができる。

もし同じ事態に遭遇した時、あなたは、どうするのだ、と、のど元に突き付けて来る。



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前川さんの今回の作品は、存在の「無」の場所のようなものまで射程に入っている作品だからこそ、何かぞっとする根源的な恐怖をすら感じさせる作品でもあった。普段触れられない場所を、作品自体がそっと撫でて来る。


ただ、このわたしたちが生きる現実(リアリティ-)が、密やかに壊れ初め、同時に創造し始めているのだとしたら、抑圧的な現実を冷静に観察しながら、自分にとっての最適な現実を真摯に静かに深く追求していく必要があるのではなかろうか。



記憶も情報もが頼りにならない時に、わたしたちは何を生きるよすがにしていくのか。

そうした根源的なことをしっかりを考える。自分の目が曇らず、意識も混濁しない場所で、魂の安全を確保しながら冷静に現実を観察していく時期に突入しているだろう。



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自分は久しぶりに東京に出た。東京には大勢の人がごった返ししていて驚いたが(軽井沢で見かけるのは木と虫と鳥ばかりだから)、一人一人の人間の中に、極めて抑圧的な現実を目にして驚いた。目つきから、意識が漏れ出しているかのように。


駅のホームでは駅員に恫喝している大人がいた。5人ほど見た。この現実は何だろう。殺伐とした社会。感情のはけ口が、公的な仕事に従事する人間になっている。感情の行き場がない。社会は、感情の排泄を行えなくなっている。


あらゆるところで混濁した感情が自分の脳の際を通過していく。

その感情に同期すると、ふっと闇に飲み込まれそうで、自分は一心不乱に劇場という安全な場へと滑り込んだ。


劇場も美術館も、そういう安全な場であってほしい。


感染症は、ウイルスと言う物理的な実体(とは言っても、地球にとっての人間くらい極小の存在だが)だけではなく、心を介してあらゆる感情がウイルスのように感染してくる。そのことを守るためには、やはり優れた作品を見て、深さにより共鳴し、自分を深堀りして、そこで得られた愛や滋養によって、それぞれが自分の聖域を保つしかないのではなかろうか。



『Walls and Bridges』とは、1974年に発表されたジョン・レノンのアルバム。邦訳は『心の壁、愛の橋』 となっていた。


この現実が無数の『壁(Walls)』で張り巡らされて行くならば、どこかに『橋( Bridges)』を架け続けなければ、わたしたちはどこにも行けない。


イキウメの演劇を観て、もし人と人との間に壁ではなく橋がかかるのなら、抑圧された現実の中でも、わたしたちは生きる喜びを見失わないようにして生きていけるだろうと思う。




演劇は、心の中の不思議な通路を介して体験と言う滋養を得るもの。人生のリアリティーを特殊な通路から体験する。

1日たった今でも、イキウメの舞台での体験は複雑な乱反射を起こしながら、心の深層を深堀りし続けている。どのように心の中へと着地していくのか。その時、古い自分はもういない。すでに新しい自分になっているから。


こうした体験は、やはり劇場でしか得られないなぁ。

東京まで観に行って、ほんとうによかったです。

東京公演は6/20まで、その後には大阪・豊橋、北九州公演があります。ぜひ見に行って、イキウメワールドを脳髄から骨髄まで浸透させてみてください。


→◆イキウメWeb



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イキウメ「外の道」


Introduction


同級生の寺泊満と山鳥芽衣は、偶然同じ町に住んでいることを知り、二十数年ぶりの再会を果たす。

しかし二人には盛り上がるような思い出もなかった。

語り合ううちに、お互いに奇妙な問題を抱えていることが分かってくる。

寺泊はある手品師との出会いによって、世界の見え方が変わり、妻が別人のように思えてくる。

新しい目を手に入れたと自負する寺泊は、仕事でも逸脱を繰り返すようになる。

芽衣は品名に「無」と書かれた荷物を受け取ったことで日常が一変する。

無は光の届かない闇として物理的に芽衣の生活を侵食し、芽衣の過去を改変していく。

二人にとって、この世界は秩序を失いつつあった…。


[作・演出] 前川知大

[出演] 浜田信也 安井順平 盛 隆二 森下 創 大窪人衛

/池谷のぶえ 薬丸 翔 豊田エリー 清水 緑


東京 2021/5/28(金)~6/20(日) シアタートラム

大阪 2021/6/26(土)・6/27(日) サンケイホールブリーゼ

愛知 2021/7/3(土) 穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホール

福岡 2021/7/11(日) 北九州芸術劇場 中劇場







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イキウメの、存在の根底を揺り動かすような芝居を見て、帰りの東京駅にて。

オリンピックのカウントダウン。

ひとつひとつ進んでいく数字が、何を表しているのか、暗闇の中で、ひどく恐ろしかった。

何が、起きるのだろうか。

喜劇なのだろうか、それとも、悲劇なのだろうか。