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養老孟司「養老孟司特別講義 手入れという思想」

September 23, 2017

養老先生の『養老孟司特別講義 手入れという思想』新潮社 (2013/10/28)、再読。

 

子供が小さいので本を読む時間がとれず、音楽を聴く時間が相対的に増えた。

とはいうものの、移動中にちょこちょこ本を読む。

 


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<内容紹介 Amazon>
人間が手入れした自然にこそ豊かな生命が宿る。
お化粧も子育ても同じで毎日毎日手入れをする。
どういうつもりでどこにもっていくのかはわからなくても、そうやってきたのが私たち日本人の生き方の特徴だ――。
我が国独自の思想をはじめ、子育てや教育、都市化の未来、死ぬということ、心とからだについてなど、現代日本社会を説いた八つの名講演を収録。
『手入れ文化と日本』改題。
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目次 : 
・子どもと現代社会
・子育ての自転車操業
・心とからだ
・現代の学生を解剖する
・脳と表現
・手入れ文化と日本
・現代と共同体―田舎と都会
・日常生活の中の死の意味    

 

 

この8つのテーマに関する講演会を本にしたもの。
養老先生の視点と切り口はいつも面白いので、出た本は全部読んでいる。

 



<心とからだ>の章から。

17世紀に出た日本語とポルトガル語の辞書では、「からだ」という言葉をひくと、「死体」という意味だった。

からだの語源は、「身」が「から」となった、死体を意味していて、「から」ではない詰まったものを「身」と呼んでいた。

 

つまり、「からだ」とは、中身が抜けた「殻(から)」を指す。そこから、「なきがら(亡骸)」という言葉も生まれている。

 

 


西洋では、お墓の陶器に写真を転写させて貼ったりする。西洋人にとってのお墓は「この世」のもの。
それに対して、日本人にとってのお墓は「あの世」のもの。

 

日本では、あの世から死者が帰ってくるから「からだ」がない幽霊になるが、西洋ではこの世から帰ってくるから「からだ」が残っている。ゾンビなどがそうだ。
おそらく、キリスト教は最後の審判があるため、もう一度裁きを受けるために「からだ」が必要という事情もあるのかもしれない。

 

そういうところからも、人間が死ぬ、ということについて、文化や宗教で様々な考え方があって、特別な決まりはない。
だから、「死ぬこと」は誰にとっても同じではなく、違うものである、という前提が大事なのでしょう。

「死」は、論理的に定義できない。

だからこそ、約束で決めている。

 

 

 

現場の西洋医学では、<死の三兆候(=瞳孔反応停止、呼吸停止、心停止)>で決めていて、そのことを確認して死亡診断書を書く。
「死」は、論理的に定義できず、約束で決めたものだからこそ<脳死>の議論が起きる。


身内の死体は抱きかかえることができるが、赤の他人の死体は気持が悪いと逃げてしまう。
それは、死んだ人は一種類ではない、ということを意味している。

 

 

 

一人称(自分)の死は体験できないし、
親しい二人称(身内、知り合い・・)の死は、その人の記憶で生きているので、身内は死なない。
だからこそ、自分に関係ないと思える三人称だけが客観的な死として存在している。

 

実際、親しい人の死体を「死体」とは言わないし、「親の死体」とは言わない。
それは、相手にとっては死んでいない、ということを意味している。

やはり、「死」とはあくまでも関係性なんだろう。

 

 


養老先生は解剖学の先生なので、「唯脳論」ちくま学芸文庫(1998)での脳に関する学術的な話も含め、脳の話が出てくるので面白い。(脳ブームの火付け役?)

 

 

 

養老先生によると、
・脳=つくり=構造。空間が必要なので目の機能につながる。
・心=はたらき=機能。時間が必要なので耳の機能につながる。
人間が、それら(脳と心、空間と時間、目と耳・・・)を勝手に分けているだけではないか、と。


目は物を止める(時間を止める)働きがある。
それに対して、耳は時間が必要。

 

 

<言葉>は目と耳が重なっているところ。
<目>で余る部分が<絵画>になり、<耳>で余るところが<音楽>になっている。

 

養老先生の昔の著作の『唯脳論』では、人間はそういう全く違う働きを持つ目と耳が偶然同じ高さにあるので、脳の中でつなげざるをえなくなり、そのことで<言葉>が生まれたのではないかと書かれていたと思う。

 

 

右脳は<絵画脳(空間認知)>で<音楽脳>。
それに対して、左脳は<言語脳>。

 

左脳は目(視覚)と耳(聴覚)という情報系が、共通に情報を処理して言葉になる。
右脳は、その二つを共通にしないで処理している。
<目>で処理すると<絵画>、<耳>で処理すると<音楽>になる。
そういう風に、目と耳の共通の情報処理規則が<言葉>となる。


言葉と<絵画>の間に<漫画>があり、言葉と<音楽>の間に<和歌・詩>がある。

 

 


脳にはそれぞれ役割分担や得意分野があるようです。
Jill Bolte Taylorの「奇跡の脳(My Stroke of Insight)」新潮文庫(2012) という本があります。

 

 

 

本書では、神経内科医でもある医師が、「左」の脳内出血で言語脳のみが障害されました。
その上で、人間が右脳だけになると、果たしてどういう風に世界が見えるか、という世界を実際の自分の症例を思い出しながら描いているのです。

彼女はTEDでも講演しているので有名ですね。

 

TED <ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作>(Mar 2008)
 

 

 

言葉と所作(体の言葉)に関して。


「道」と呼ばれる世界(茶道、華道、武道・・・)では体の言葉を習う。
そして、修行が完成すると「型」になる。

 

 

自分はいま伝統芸能の世界に関心がある。
それは、人間の心身の知恵を、医療というジャンルではなく、美や芸術の世界にまで高めていったのが日本文化だ、ということに気付いたから。

 

その「からだ言語」を真空パックで冷凍保存しているのが「型」で、そこには心身に関するいろんな知恵が込められていると思う。
そこに込められた深い叡智を冷凍保存にするままではなく、解凍させて現代に生かしたいと思い、伝統芸能を学んでいます。

そういう意味で、最後に「道」や「型」の話もすこし出てきて嬉しかった。

 

 


<現代の学生を解剖する>の章から。

知ることは、自分が変わること
自分が変わるとは、以前の自分が部分的に死んで生まれ変わるということ。


今は情報化社会だが、バーチャルとはリアリティーがないことを意味する。
なぜなら、情報とはそもそも停止したもの。
だからこそ、情報過多とは、死んで動かないものが増えて、生きている人間が薄くなっている状態でもある。

 

 

昔なら子どもが病気になった時、それは自然ですから仕方がないと言ったが、今では「この責任だれがとってくれるの」と言うようになった。
都会に住んでいる限り人のせいにできる。
自然では人のせいにも誰のせいにもできない。

このことは、現代が自然を失ってきたことと関係がありそう。

 

 

体も、人間の内なる自然だから、体をちゃんと見つめなおすことが、外なる自然のことを考えていくこととすごく関係があるのだと思う。

 

 

 

人間は自然との折り合いが必要で、その絶妙なバランスを<手入れ>と呼んいた。
それは田んぼや里山の風景という形で残っている。

 

<手入れ>では、余計なことはしてはいけないが、放置してもいけない。
そこに、自然と人間との絶妙な共存のバランスがある。そこに知恵の蓄積があり歴史がある。
<手入れ>という、自然との間にバランスをとる行為や言葉こそ、今まさに必要とされているのだと思う。
どうしても極に振れやすいものだからこそ、バランスや中庸が必要。

 


<日常生活の死の意味>の章から。

ここでは養老先生が子供の時に体験した父の死の記憶が語られる。

 

 

亡くなった父親に、さよならを言わなかった。
あいさつをした瞬間、父が死んだことを認めることになると思ったから。

父の死に挨拶できなかったことが、自分が挨拶ができない人間であることと関連していたと、突然気付いた。そして、その瞬間に私の中の父は死んだ、と思ったとのこと。

 

つまり、人が死ぬのには何十年もかかるものなのだ。

 

 


養老先生の個人的な体験。
父の早すぎる死、それを認めたくなかった少年。
その場で挨拶をすることは、死を認めることと思ったから、その後も挨拶という行為全般が苦手になったのではないか、と自己分析されていました。

 

そして、そう思った瞬間に初めて養老先生の中で父親が亡くなったと思った、ということは示唆的なことだと思いました。


色々とInspirationを受けて面白い本でした。
文庫本ですが中身は詰まっています。ぜひ手に取ってお読みください。
養老先生の本は、どれも切り口がオリジナルで面白い!!!
が読みやすく、養老先生の世界を網羅しているような気がするので、いつもお奨めしてます。(自分の周りの友人に配りまくった覚えがあります)

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