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『大学』・『中庸』(岩波文庫)

古典である『大学』・『中庸』を再読。

『大学』と『中庸』は、儒学の経典『礼記』に収録されていた2篇。 朱子学を創始した朱熹は『礼記』から『大学』と『中庸』をピックアップし、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。これが四書五経のはじまりとされる。

『大学』は、教育について論じている。 いかに天下国家をよく統治し、人びとの間に平和をもたらすことができるか。これが大学で探求される問題だった。

その根本原理は修身。 自分の身を修めること。 自分のことは自分自身が整えること。 自分を中心として、その波紋が遥か遠くまで伝播していくことを教えてくれる。からだ、家、国、世界へと、共に響きあう。

原点である原典の趣旨からずれていくと、元々伝えたかった本質から少しずつずれていく。 古典や言葉を自分の都合で利用するのではなく、故人の思いを尊重しながら。

『大学』 「国家の統治を目指す者は、単に学問を修めるだけでは足りない。 それに加えて、自己をよく修養し、徳を身につける必要がある。」

『大学』 「ものごとの善悪が確かめられてこそ、はじめて知能(道徳的判断)がおしきわめられて明晰になる。 明晰になってこそ、はじめて意念が誠実になる。

意念が誠実になってこそ、はじめて心が正しくなる。

心が正しくなってこそ、はじめて一身がよく修まる。

一身がよく修まってこそ、はじめて家が和合する。

家が和合してこそ、はじめて国がよく治まる。

国がよく治まってこそ、はじめて世界中が平安になる。」

 

『中庸』では中庸の徳を説いている。 感情が動く前の静かな状態である「中」を、いかなる場合でも守ることのできる徳のこと。

その後、感情が動き出した時でも、その感情が調和的に存在しうる「和」のことを述べる。 中であるニュートラルな心の状態であることは、儒教や朱子学だけではなく仏教でも大事にされている。 マインドフルネスなどでも、感覚にとどまる練習をする。 それは中である。 常に自分のホームポジションに戻る。 それは初心とも言えるし、赤ちゃんのときのようなニュートラルで自由自在な状態でもある。中が乱れても、それが和になればよい。

『中庸』 「喜・怒・哀・楽などの感情が動き出す前の平静な状態、それを中という。 感情は動き出したが、それらがみな然るべき節度にぴたりとかなっている状態、それを和という。 こうした中こそは世界中の偉大な根本であり、こうした和こそは世界じゅういつでもどこでも通用する道である。 中と和とを実行しておしきわめれば、天地宇宙のあり方も正しい状態に落ちつき、あらゆるものが健全な生育をとげることになる。」

それぞれの個人が中庸の徳に従い、中と和とを極めれば、世界全体は正しい状態に落ち着くのであろう。中であり和である状態へ。

『中庸』には「誠」という大事な言葉も出てくる。 新渡戸稲造も著作の中で大切にした概念だが、かなり違う形で伝わっているような気がする。

「誠」とは、人間が天から与えられた命令(使命、役割)のこと。 この天命のような「誠」を地上に実現しようと努力することが、人として生まれた存在がするべき道である、と。 自分の本性(=誠)を発揮することで、他人の本性も、さらには物の本性も発揮させることができるとする。 すべての存在物の天からの使命に気づき、共鳴することができる、と。

内側から沸き起こってくる感動や情熱は、きっとそうした本性そのものからのコダマが響いた残響音のようなものだ。

『中庸』 「誠が身についた人は、自分で自分を完成してゆくのである。 そしてその踏み行なう道は、本性に従う道であるから、その道自体が誠の実現へと導いてくれるものである。 誠が身についた人は物事の始まりと終りを定める。 誠によって行なうのでなければ、物事は成り立たず存在しないことになるのだ。」

 

古典に、大事なことはほとんど書かれ尽くされている気がする・・・。

食わず嫌いはよくない。わからなくても食らいつく姿勢が大切で、10年後くらいに突然腑に落ちる瞬間がくる。それくらいの時間間隔で味わうのが、古典の世界だ。そもそも、まったく違う時代の中の息吹として書かれたものなのだから。

あとは、何重にも付着した意味の「手垢」をはがして、純粋な体験として古の人の声を自分の内側に響かせることが必要なんだろう。 人類の歴史はほとんどが死者の歴史としてアーカイブされているので、死者に支えてもらう必要がある。 紀元前3世紀ころから2000年以上も脈々と受け継がれているのは、大勢の無名の人たちが、伝えようと本気で受け渡してきた結果だろうから。

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