

読むことは、生きること 米原万里『打ちのめされるようなすごい本』
ロシア文学への興味が深まり、その言葉や文化に通じた米原万里(1950-2006)の書評を読んでみたくなった。 ゴルバチョフやエリツィンからも厚い信頼を寄せられたロシア語通訳者である。言葉を通して人と人、文化と文化をつないできた彼女は、どのように本を読むのだろう。その関心から手に取った一冊だった。 まず、題名がいい。『打ちのめされるようなすごい本』。整えられた批評の言葉になる前の、思わず口からこぼれたような、生の言葉だ。本に出会い、心身を揺さぶられた驚きがそのまま伝わってくる。「すごい」という日常の言葉が、これほど強く響く題名も珍しい。 本書には、多彩な書評とともにがんとの格闘を綴った読書日記が収められている。読み進めて驚いたのは、読むことと生きることが、分かちがたく一体となっていることだった。 文学や歴史、言語をめぐる文章のなかに、時折、がんの治療法や医療情報が差し込まれる。そのたびに、読書の世界を自在に行き来していた言葉が、著者自身の身体へと引き戻される。いま何を信じ、どの治療を選ぶのか。情報を読むという行為に、自分の命がかかっている。その切迫


トルストイ『人は何で生きるか』 愛を訳し愛を生きる
トルストイの『人は何で生きるか』を、北御門二郎の訳で読んだ。 映画『ドライブ・マイ・カー』をきっかけに移動中はチェーホフを読み直すようになり、ロシア文学に興味が向かった。そうして、トルストイやドストエフスキーを、学生時代以来20年ぶりに再読している。2024年からライフスタイルを大きく変えたおかげで、時間も心にも余裕ができてきたのだろう、と思う。多忙な時は本を読む時間がとれなかった。心の余裕と本の時間とは相関関係にある。もちろん本を読まなくても死ぬことはない。ただ、体だけではなく心にも栄養を行き渡らせるためには、芸術や読書の体験が深い心の支えになるのだ。 cf.●September 25, 2026 声の残る車、降りられない劇場 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021) 靴職人のシモンは、寒さの中に取り残された見知らぬ男を家へ連れ帰る。自分たちの暮らしにも余裕はない。妻は初め、その男を迎えることに腹を立てる。それでも食べ物を分け、居場所をつくる。その小さな出来事から、物語は「人は何によって生きているのか」という大きな問いへ進んでいく。.


『フリーダ ~愛と痛みを生きた肖像~』フリーダは自分の人生を自分の手で描く。
カルラ・グティエレス監督のドキュメンタリー『フリーダ ~愛と痛みを生きた肖像~』を観た。 フリーダ・カーロの絵が好きだ。 武蔵野大学ウェルビーイング学部の「ウェルビーイングアート特論」の講義を担当した。健康と芸術、医療と芸術との関りを語るアーティストの一人でフリーダ・カーロを扱った。 彼女のオリジナル映画がAmazonPrimeで観れたのは驚きだった。 写真、絵、日記、手紙が重なり、すでに知っているつもりだった画家が、初めて自分の声で語り始めるように感じられた。 フリーダ・カーロは幼い頃にポリオを患い、18歳のときにはバスと路面電車の衝突事故で重傷を負った。その後も何度も手術を受け、装具をつけ、長い時間を痛みとともに生きた。事故は一度の出来事として終わらず、身体の動き方や、これから生きる時間のすべてに影響し続けたのだと思う。 《壊れた円柱》では、裂けた身体の中に折れた柱が立ち、全身に釘が刺さる。 医学なら痛みの場所や強さを尋ねる。けれども、あの絵が見せるのは、痛みを抱えた身体で世界を生きるとはどういうことか、という経験そのものだ。...


葉先から届く秋 軽井沢
軽井沢では、木々の梢に少しずつ紅葉が見え始めた。緑のあいだに、赤や黄色がひと葉ずつ灯っている。 まだ秋の盛りには遠い。 けれども、朝の空気には澄んだ冷たさがあり、木漏れ日の色もどこかやわらかい。 季節は音を立てず、葉の先から静かに移っていく。 ひと足早い秋が、軽井沢に来ている。


『ブゴニア』(2026年、ヨルゴス・ランティモス監督)「誰の物語の中で、世界を見ているのか?」
ヨルゴス・ランティモス監督の『ブゴニア』(2026年)を観た。 (角田光代さんの『方舟を燃やす』(新潮社、2024)と通じるものがある映画だよと友人から言われたこと(陰謀論を入口としている点?かな。かなり遠い作品でしたが)+AmazonPrimeで観れたもので。ちなみに、この映画は暴力や残虐な描写があります。物語の展開にも触れます。) 観ている間、何度も足元が入れ替わるようだった。 誰の話を信じればよいのか。被害者と加害者は誰なのか。小さな物語だと思っていたものが、突然もっと大きな物語の一部になる。その転換が面白く、同時に恐ろしい。 「ブゴニア」とは、死んだ牛の身体から蜂が生まれるとされた、古代地中海世界の伝承に由来する言葉だ。 ローマの詩人ウェルギリウスは、これをギリシャ神話の人物アリスタイオスの物語に結びつけた。 蜂を失ったアリスタイオスは、その理由を探し求める。 やがて彼は、自分が追ったエウリュディケが逃げる途中で蛇に噛まれて死んだことを知らされる。 彼にとって最初は「蜂を失った自分の物語」だったものが、「自分には見えていなかった、他者の死


信じる心と、問い直す自由。角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)
角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)を読んだ。 ちょうどコロナ禍があけたころの作品で購入していたが、ふと本棚で見かけて読んだ。新幹線や電車の移動で少しずつ。 予言、宗教、自然食、ワクチン、陰謀論……。 時代ごとに現れる「信じるもの」を通して、この小説は、人が不確かな世界をどう生きていくのかを描いている。 私がとりわけ痛々しく、共感したのは望月不三子だった。 不三子は家族の健康を願い、自然食を学び、毎日の食事をつくる。私自身も医学部生の頃から食と健康について考え続け、可能な限り体にやさしいものを食べたいと思ってきた。 だから彼女を、単に「極端な考えにとらわれた人」として読むことはできなかった。 食べることは、生きることに直結している。 大切な人の体を思えば、何を食べさせるかに真剣になるのは自然なことだ。 ただ、よいものを食べてほしいという願いと、家族が食べたいもの、その食卓でどう感じるかは、必ずしも一致しない。十分な対話が欠けていたのかもしれない。食卓は愛情が形になる場所であり、同時に、それぞれの自由や気持ちがぶつかる場所でもある。...


『いのちノオト』「第2部 第3回 未来は、まだ生まれていない」(集英社学芸の森)
集英社での『いのちノオト』という連載。 9回目となる「第2部 第3回 未来は、まだ生まれていない」 がUpされていますので、ご興味あればどうぞLink先からお読みください。 https://gakugei.shueisha.co.jp/mori/serial/inochinooto/009.html ここまで色々と文体と内容の変遷があるのですが、そうなってしまった深い理由がありまして、今後の連載で明らかにしながら連載を回収していこうと思っています。 =========== (抜粋) 近ごろ、AIについて語られることが多くなった。便利になるし、仕事は変わり、暮らしも変わる。それはきっと、その通りなのだろう。人類はこれまでも、道具をつくり、そのたびに生き方を少しずつ変えてきた。火を手に入れ、文字を発明した。印刷も、電気も、インターネットも、新しい技術はいつも人間の生活を時間を大きく書き換えてきた。AIも、その長い歴史の延長にあるのだと思う。 けれど、技術が進むほど、不思議なことがある。人は、技術では満たされないものを、かえって強く求めるようになる。


声の残る車、降りられない劇場 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021)
『急に具合が悪くなる』(2026)が素晴らしかったので、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021)を観た。村上春樹やチェーホフの作品世界が響き合い、言葉と声が深く余韻を残し続ける映画だった。 →cf.「生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える」 印象的だったのは、死者の声が、生きている人の日常を動かし続けていることだ。 家福の赤い車には、妻・音が録音した『ワーニャ伯父さん』の台詞が流れる。家福はその声を聞き自分の台詞を返す。死者との対話は終わることのない稽古となる。 生きている相手の言葉は変わるが、録音された声は変わらない。 車は前へ進むのに、二人の会話だけが閉じられた輪の中で止まっている。 チェーホフが生きた19世紀後半のロシアは、農奴解放を経て古い身分秩序が揺らぎ、都市化が進む時代だった。社会は変わり始めているのに、人々の日々は変わらない。『ワーニャ伯父さん』に漂う「このまま人生が過ぎてしまう」という痛みは、個人の後悔だけでなく時代の転換期を生きる不安も重なっている。 チェーホフは医師でもあ


身体はまだ私たちの知らない可能性を持っている(『古武術で体を整える』(宝島社))
甲野善紀先生から『古武術で体を整える』(宝島社)という本を贈呈いただき、「年齢は身体能力を奪わない」という原稿を読んだ。この本は実際の身体の動きの写真が多く学びになる本だった。身体教育家・林久仁則さん、ひもトレの小関勲さんの記事も学びがある。 甲野先生は、77歳となった今も、新しい技が生まれ続けているという。 心に残ったのは、 「今でも、ではなく、今だからできることがあります。」 という一節だった。 甲野先生が見つめているのは過去の身体との比較ではない。「今の身体だからこそ、何が可能なのか」という問いだ。 もちろん加齢で筋力や反応速度、持久力は変化するだろう。しかし、身体能力は筋力や速さだけではない。重心の移動、力を抜くこと、全身の連動、相手との距離、気配を察すること。 経験で深まる感覚や、若い頃には気づけなかった身体の使い方がある。 年齢はある能力を低下させる一方で、別の能力を育てる可能性を持っている。 甲野先生は、武術を「対抗の原理」ではなく、「対応の技術」と語る。 相手に勝とうとして力をぶつければ、こちらの動きは相手に伝わり、互いの身体は衝


月は東洋と西洋のあいだに昇る 竹田で考えた瀧廉太郎と山田耕筰
瀧廉太郎は12歳から14歳までを長湯温泉の竹田で過ごした。 少年時代に岡城跡で遊んだ記憶がのちの『荒城の月』に結びついたと伝えられている。 「春高楼の花の宴」と歌われた場所にすでに人はいない。城は滅び、栄華も消え、ただ月だけが、昔と変わらず石垣を照らしている。 そこには、日本文化が長く見つめてきた「無常(Mujo)」の感覚がある。 『平家物語』の盛者必衰、西行の月、芭蕉の古池。日本の芸術は、永遠に残るものだけを美しいとしたのではなく、すべては移ろい、やがて失われるという事実の中に美を見いだしてきた。 吉田兼好は『徒然草』に、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と記した。美は満開という完成の中だけにあるのではない。咲く前の梢にも、散りしおれた庭にもある。桜が美しいのは、咲いた瞬間から散り始めているからだ。 『荒城の月』にもまた、失われゆくものの中に永遠を見る、日本の無常の美学が流れている。 しかし、その旋律を形づくる器は西洋音楽だった。 瀧廉太郎は、西洋の音階や拍節、和声の考え方を学びながら、そこへ日本語の呼吸、日本の風景、日本人が抱いて