

「はし」と「二河白道」
都会では川が地下にもぐっているが、古い歴史ある街に行くと、必ず川があって水の流れがあり、生活をつなぐために「橋」がある。 橋も箸も「はし」。 「はし」の語源には「物と物をつなぐ」という意味があるらしい。 橋(はし)は、川で離れた両端をつなぐ。梯(はし/はしご)は垂直方向をつなぐ。柱(はしら)も天と地をつなぐ。嘴(くちばし/はし)も、箸(はし)も、食べ物と自分をつなぐもの。いのちといのちをつなぐもの。 旅をしているとき「はし(橋)」を渡るたびに思い出す言葉が、 「二河白道(にがびゃくどう)」。 浄土教の教えで極楽浄土への道筋を説明する比喩でもある。 ちょっと足を踏み外すと「火の河」に落ちる。 ちょっと足を踏み外すと「水の河」に落ちる。 「火の河」と「水の河」に挟まれた「白い細い一筋の道」を見つけて生きていくのが人生だ、と。 心のまま、本能のまま、自由奔放に生きていれば「火の河」に落ちる。 冷静に、慎重に、考えすぎて生きていれば「水の河」に落ちる。 どちらの河にも落ちやすいものだが、どちらにも偏らず、一筋の道を見つけなさい、と。 「二河白道(にがびゃ


軽井沢も雪
軽井沢も雪。 雪の日は音を雪が吸収するので、空間の音質が変わっているのも神秘的な印象を与える。 吉田兼好が「徒然草」で 「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは」 と言ったことは、大学時代に読んだときにすごく心に残った部分。 満開の花や満月もいいけれど、不完全なもの、崩れゆくものを見るのも風流である、と。 雪も積もっている姿も美しいけど、溶けてゆく姿もまた美しい。 水の千変万化の変化を見ると、人も器に応じて変化していく必要があるなぁ、と。自然から学ぶことばかりだ。 雪を見ると、 中原中也の「雪の賦」 という詩が頭に浮かぶ。「賦(ふ)」は、中国文学の散文詩の一形式のこと。 雪を見ながら、頭の中に浮かんでは消えてゆくものを、中也なりの言語感覚で降ろしている。 芸術や詩は、世界を見るときの補助線となって、より解像度高くこの世界の真実を見ることを助けてくれる気がする。 =========== 中原中也「雪の賦」 雪が降るとこのわたくしには、人生が、 かなしくもうつくしいものに―― 憂愁にみちたものに、思へるのであつた。 その雪は、中世の、暗いお


【六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠】@森美術館
【 六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠 】@森美術館 を見に行った。 六本木クロッシングは、注目の現代作家が「現代」を深い無意識で映し出した作品をあぶりだしているので、毎年見ている展示。 もちろん、芸術表現であまりにも「意識的に現代を表現」すると興ざめするところもある。むしろ無意識でいつのまにかあぶりだされた作品(突然飛び出てきたような作品)を見ると、最初は不可解としか言えない体験でも、自分の中の深い無意識とムゴムゴと呼応して、楽しい。意識に寄りすぎると社会に迎合したものになってしまうし、無意識が深すぎると他者にわかり難いものになってしまう。 ただ、横尾忠則さんと話していたときも「世間の流行の動きを感じたら、逆の方向に動いたほうがちょうどいい」と言われたこともあり、社会の特定の方向に動き出したら、あえて逆の方向へと、密な場ではなく疎な場の方向へ向かうようにしている。医療界でも大きな方向性には昔から馴染むことができず、思わず逆の方向へ動く傾向にあるのは昔から(でも、その方が自分にとっては居心地もよいから、頭ではなく体がそ


田口ランディ「いのちのエール - 初女おかあさんから娘たちへ」中央公論新社 (2015)
2015年(10年前)の本を2018年(7年前)にレビューして書いた。 ●田口ランディ「いのちのエール - 初女おかあさんから娘たちへ」中央公論新社 (2015) 田口ランディさんと佐藤初女さんの本を読み、その7年後である2025年にはランディさんと湯河原での湯治場作りをしていて、初女さんのおむすびの祈りを込めた湯治宿に結実していくとは。 未来のシナリオは、【今ここ】にすべて畳み込まれているんだなあ、と改めて。 その兆しに気付けるかどうか。 医学部の学生時代から、添加物とか発酵食に敏感だった。 ただ、当時は周囲の医学部生から、【??】の顔ばかりされていた。 あれ、医学部って食や健康のことに興味ある人の集まりなんじゃないの?とも違和感があった。 わたしの食関係の師は、根津にある【根津の谷】と言う、自然食品屋さんの店主さんで、医学部教授よりはるかに生きた知識を教えていただきました。1978年ころ創業と聞いて、私とほぼ同じ年のお店であることにも驚いた。初女さんもランディさんも、わたしの師です。師は弟子を選べませんが、弟子は師を自由に選べます。 ●田口ラ


『シッダールタ』@世田谷パブリックシアター
『シッダールタ』@世田谷パブリックシアター を見た。 草彅剛さん主演。脚本は長田育恵さんで、演出が白井晃さんという豪華な舞台。ヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』(+『デミアン』)をベースにしている。 主人公は仏教の開祖であるシッダールタと偶然にも同じ名前を持つ一人の男性。同時代に生きる仏教の開祖であるブッダの教えに感化はされるものの、同じ集団(サンガ)には入らず、自分自身の力で悟りを得ようとすべてを捨てて旅に出る。 探求の途上で、彼は愛欲におぼれることもあるし、商売で富を築き自分を見失うこともある。 ただ、彼はあるとき、川のほとりで水の流れを見ながら、自然の営みから大きな気づきを得る。 「川は流れていると同時に、常にそこにある」 このことは仏教での無常を、概念的な知識ではなく、体験として理解した瞬間の言葉でもあった。 ヘッセの作品の中でも、悟りそのものより、探求こそが重要であると語られる。 知識は伝えることができるが、知恵は伝えることができない。知恵は、体験され、身をもって生きることでしか得られない、と。 仏陀の集団(サンガ)に属したものは、


地球の身体の動きに美を感じる 黄金の銀杏
慶応日吉キャンパス。 黄金色の銀杏が美しく、大勢の人が記念撮影に。 やはり人は美しいものを求めるのだなぁ、と。 人が持つ美意識については、新刊本でも記載しています。 人の美意識はまず動きのなかで表現されていく。 だからこそ、見る側も、身体の動きの中に美を発見する目をもっていなければいけない。 特に、自由な時間と空間の中で、人は内在する美を最大限に発揮できる。 そう考えると、自然に美を感じているときは、地球が持つ身体の動きとして、自然の美を発見しているときでもある。 ================= 「人間の中にあるいのちや魂は目に見えない。 だからこそ、人は体の動きを通じて、自分のうちにあるものを表現していく。 そうした体の表現には「美」が関係してくる。 動いている本人が、動きによって美的感覚を育てている。だからこそ、成長を待つ側も体の動きに美を感じ発見する目を育てていく必要がある。 自由な空間と時間が保証されると、人間の体も心も何らかの表現を生み出そうとする。そこで生まれてくるものは、本人の意識を大きく超えたものであることもある。それは創造


「オスジェメオス + バリー・マッギー One More 展」@ワタリウム美術館
ワタリウム美術館に「オスジェメオス + バリー・マッギー One More 展」を見に行った。 すごく刺激的で自由で面白い展示だった。 偶然、館長の和多利恵津子さんがおられたので、たくさん話をさせていただいた。 神宮前や原宿にも、商業ビルが増え、大手デベロッパーの大規模開発が増え、唐突に場の雰囲気が変わってしまう。そのことで、文化的な場、創造の場、自由な表現の場が減っていること自体を嘆かれていた。 ワタリウム美術館としてはどんなに規模が小さくとも、ここには自由な場があるよ、ということを伝えていきたい、と。小さい力は誰の中にもある。 目的は儲けではないためいつも経営はカツカツだけれど、あえて収入と支出もトントンになるようにしている。もし展覧会の売り上げが多い場合でも、その余剰分はアーティストの制作費にあてて、ちょうどいいバランスになるようにしている、と。 余剰な富を蓄積させず、自分が儲けをとるのではなく、天から分け与えられた余剰物は創造行為に投資してお返しする、という考えが本当に素晴らしいと思いました。まさに芸術の神髄だとも。 私自身も、「誰かが考


「岡本太郎 生きることは遊ぶこと」@川崎市岡本太郎美術館
川崎市岡本太郎美術館の常設展「岡本太郎 生きることは遊ぶこと」(2025年10月28日 (火)-2026年03月29日 (日))。 生きることは遊ぶこと、という展示の名前が素晴らしい。 遊ぶ。 目的もなく打算もなく計画もない。 動きたいから動き、叫びたいから叫ぶ。 ただ動き、走り、飛び跳ねて、遊ぶ。 そうした純粋な行為を膨らませていくこと自体が、幸福への道だとさえ思う。 太郎さんの絵を見ていると、何かがハッとする。本物の絵が放つ霊力はすさまじい。美術館は霊感を受け取るパワースポット。 川崎市岡本太郎美術館は、来年春から3年!も長期休館にはいってしまうので、ぜひ2026年3月までに一度遊びに行ってほしいですー。 (*2026年3月30日~2029年3月31日の期間、改修工事に伴い展示室での展覧会を休止します。とのこと。) ----------------------- 「つねに死の予感に戦慄する。 だが死に対面した時にこそ。 生の歓喜が ぞくぞくっとわきあがるのだ。 血を流しながら、 にっこり笑おう。」 ----------------------


「タローマン大万博 川崎パビリオン」@川崎市岡本太郎美術館
川崎市岡本太郎美術館では、「タローマン大万博 川崎パビリオン」。もやっていた。 EXPO2025は終わった、と思いきや、ここでは川崎パビリオンとしてタローマン大万博が行われている、と。 しかも、タローマン自体はパロディでありながら、虚実が入り混じって、虚数と実数が融合した複素数平面にようになっていて、オイラーの定理のように、数学における指数関数(e)と虚数(i)と円周率(π)を混ぜ合わせて、実数に戻る(e^iπ=-1)、のような不思議な世界。 芸術をエンタメとパロディとフィクションで包み込みながら、それ自体が現代美術の様相を呈しつつ。能と狂言の関係性のようにシリアスなものをユーモアで相対化するような不思議な位相は、まさに陰と陽の太極図。 映画まで見に行ったファンとしては、太郎(&藤井亮さん)の「真剣に命がけで遊べ」というのがリアルに感じ取れる。 面白かったし、実物見れて感動。 しかも、この展示だけなら無料で見れる!という太っ腹。素晴らしい! 12/14まで。 ----------------------- 常設展「生きることは遊ぶこと」関連展示イ


俳優座「存在証明」@シアタートラム
俳優座の「存在証明」@シアタートラム、を観た。素晴らしい舞台! 絶対的な真理を追求する実在する数学者たちがモデル。 戦争という異常が日常に置き換わった時に、現実世界とどう折り合いをつけていくか。 数学的な真理を追求することを、わたしたちが真善美、理想、あるべきもの、に置き換えて考えてみると、誰にでも心当たりがある事柄だと思えた。 「ことば」というものも考えさせられた。 特殊なことばを扱う人は、状況次第ではあたまがおかしい、とされ、排除や隔離の対象になる。ただ、そのことばは、日常とは違う層では深い真実の響きを含んだもので、そのことばの深層の意味を発見できる人がいるかどうかで、ことばは違う意味を帯びる。 ことばは時に数学であり詩であり芸術であり、呪術でもあり。 ことば自体も出会うべき人を待っているのかもしれない、とも思った。 「存在証明」というタイトルが暗示するように、わたしはここにいる、という存在の地平は、より深い次元にある「いのち」のことばとの出会いを求めているようだ。それはルーツ、根、と言ってもよいかもしれない。 素晴らしい演劇体験。まさに魂の