

青木湖から考える〈環境医学としてのサウナ〉@Lakeside villa SUI HAKUBA
白馬にほど近い青木湖。その湖畔に佇む「Lakeside villa SUI HAKUBA」(扉グループ)に宿泊した。 私は、基本的にサウナがそれほど得意ではない。 それは熱さだけではなく、多くのサウナは小さな閉鎖空間で、視線の先には壁がある。身体には強い熱刺激が加わり、心拍数も上がる。そのうえ視線まで閉じ込められると、どこか重苦しさを感じていた。 ところが、SUIのサウナはまったく違った。 大きなガラス窓の向こうに、美しい青木湖が広がっている。 湖面が揺れ、光が反射し、その向こうに森と山がある。 身体は小さなサウナ室の中にいるのに、視線はずっと遠くまで自然の中へ抜けていく。 身体は熱の中にありながら、意識は風景の中へ出ていく。 この開放感が、驚くほど心地よかった。 医師として考えてみると、サウナを「熱」だけで考えすぎてきたのかもしれない。何℃なのか。何分入るのか。湿度はどれくらいか。心拍数や血圧はどう変化するのか。 もちろん、どれも大切だ。 けれども人間の身体は、温度センサーだけでできているわけではない。 光、音、匂い、風、空間の広がり。そして、


牛に引かれて、湯へ――布引観音温泉
長野県小諸、布引観音の麓にある「布引観音温泉」へ。 ここは私が大好きな温泉。いい感じに鄙びた湯治場の風情が残っていて、古い湯治場の時間が流れている。温泉ビギナーにはお薦めできないが、ディープな温泉を知りたい人にはとっておきの場所だ。 建物に入る前から、まず驚く。 外には温泉がこんこんと湧き、飲泉することができる(温泉水だけではなく、深層水までも!)。 温泉は「入る」ものだと思っていると、ここではその前提が少し崩れるだろう。 湯に浸かるだけではなく、湯を飲むことも、湯治の本質だ。それは、ミネラルを体内に取り込むこと。人体でのミネラルの必要性に関しては、また都度都度アナウンスしていきたい。 温泉という地球の体液を、身体の外側からだけではなく、内側からも受け取る。 昔の「湯治」とは、本来こういうものだった。 湯治は、単に温泉に入って病気を治すことではなく、しばらく土地に滞在し、その土地の水を飲み、その土地のものを食べ、眠り、歩き、何度も湯に入る。 つまり、身体を土地の時間に預け直すことだった。 布引観音温泉には、そうした昔ながらの湯治場の気配が、まだ濃


YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERY
YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERYへ。 改めて驚いた。 横尾忠則さんのポスターは、どの年代の作品を見ても、まったく古く見えない。そして、誰にも似ていない。 これは考えてみれば、ものすごいことだ。 ポスターとは、本来とても「時代」に近いメディアだと思う。その時代の演劇や映画や音楽があり、社会があり、流行の色彩や書体やデザインがある。 だから普通なら、数十年前のポスターを見れば、「これは60年代だ」「これは80年代だ」と、どこかに時代の刻印が見える。 ところが横尾忠則のポスターは違う。 もちろん制作された時代はある。しかし、その時代に閉じ込められていない。 1960年代の作品が、2020年代の作品より新しく見えることさえある。これは「時代を先取りしていた」ということとも少し違う。 先取りしているだけなら、いつか時代が追いついてしまう。横尾忠則は、そもそも時代と競争していないのではないか。時代の前でも後ろでもない。 時間軸そのものから、少し外れたところにいる。 そこに横尾作品の不思議な「無時間性」


「違うままで、一つである」―横尾忠則と霊性の芸術
横尾忠則の作品を前にすると、いつも不思議な感覚に襲われる。 なぜなら、そこにはあまりにも多くのものがあるからだ。 聖なるものと俗なるもの。生と死。エロスと宗教。夢と現実。幼年期の記憶と大衆文化。神話と広告。宇宙と身体。日本とアメリカ・・・・ 普通なら、同じ場所には置かれないはずのものが、横尾の画面では何の断りもなく並んでいる。 しかも不思議なのは、それらが単なる混乱には見えないことである。むしろ、ばらばらであるはずのものが、一枚の画面の中で奇妙な必然を持って共存している。互いに溶け合っているわけではない。違いは残っている。それでも、すべてが同じ世界の中にいる。 この横尾忠則独特の感覚を、私は長いあいだ「異質なものの調和」と考えていた。しかし、本当に「調和」という言葉が適切なのだろうか、とも思っていた。 横尾が巧みに異質なものを結びつけているのではなく、私たちの側が、もともと一つの世界に存在していたものを、後から「異質」と呼び分けているだけなのではないか。横尾の作品を見つめていると、そんな疑いが生まれてくる。 そして、そのことを考えるうえで、どうし


将棋とは「あらゆる可能性に敬意を払うこと」
将棋とは、「あらゆる可能性に敬意を払うこと」である。 わたしは小学生~高校生の頃、将棋狂だった。 将棋の相手を求めて、色々な将棋会館をわたり歩いたのも懐かしき思ひ出。 江戸時代、将棋は単なる遊戯ではなかった。 大橋宗桂を祖とする家元制度が整えられ、将棋は一つの文化として磨かれていった。 初代 大橋宗桂は最初の将棋名人(一世名人)で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人に将棋の実力で仕えた。現在の「名人」という言葉のルーツは大橋宗桂にある。囲碁の家元・本因坊算砂と指した将棋の記録(棋譜)が現存する世界最古の将棋の棋譜で、後陽成天皇へ献上した公式な詰将棋集も最古。 その歴史をたどる漫画(『宗桂 〜飛翔の譜〜』(作画:星野泰視 / 監修:渡辺明))を読むと、盤上の勝負の背後に、 日本人が「考えること」そのもの を文化として育ててきた時間が見えてくる。 私も、中学生時代の将棋大会で、江戸時代の棋譜を指して将棋記者から驚かれたことがある(当時の熊本日日新聞にも載った)。当時の大スター羽生さんの棋譜だけではなく、江戸時代の大橋宗桂の棋譜からも学んでいた


生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える
映画『急に具合が悪くなる』は素晴らしい映画だった。私が医療者として格闘し、もがいてきたテーマが重層的に織り込まれていて、とても身に染みた。 映画『急に具合が悪くなる』を観ながら、私はずっと、医療とは何だろうと考えていた。もう少し正確に言えば、人が人をケアするとは、いったい何をしていることなのだろう、と考えていた。 医療の現場では多くの限界を感じることの方が多い。 それでも、人は誰かの傍らにいる。話を聞く。身体に触れる。一緒に黙る。 そのとき、何が起きているのだろう。 考えてみれば、ケアは医学より古い。医学が誕生するずっと前から、人は病み、老い、傷つき、その傍らには別の誰かがいた。歌うこと、踊ること、物語を語ること、死者の傍らに座ること。ケアと芸術は、人類史のかなり深いところで根を共有しているのかもしれない。 この映画を見ながら、私は無数の「ひらく」という言葉が浮かんできた。 バザーリアは、制度をひらいた。ユマニチュードは、身体をひらいた。 異なる言語は、意味をひらく。演劇は、関係をひらく。そしてケアは、生命をひらく。 この五つは別々の話ではない。


「RakuRaku DinoKun(ラクラクダイノくん)」
ジャンク品の中から発掘した「RakuRaku DinoKun(ラクラクダイノくん)」。 1990年代、「たまごっち」が社会現象になるほどのブームを起こし、なかなか手に入らなかった時代、その周辺には無数のデジタルペットが生まれた。「ラクラクダイノくん」も、そんな時代の空気をまとった恐竜育成ゲームの一つ。 本家たまごっちに比べて一風変わったお世話機能としては、快適な温度(25度など)に保つ「エアコン機能」。体が汚れたらシャワーを浴びせてキレイにする「シャワー機能」など。 いままた、「たまごっち」も再ブームらしい。 なのに、なぜだが我が家には当時でも亜流の「RakuRaku DinoKun(ラクラクダイノくん)」がいる。 いま遊んでみると、その簡素さに驚く。 小さな液晶画面。粗いドット。限られた動き。食事を与え、世話をして、恐竜が育っていく。現在のゲームと比べれば、そこにある情報量は圧倒的に少ない。 しかし、だからこそ面白い。 ラクラクダイノくんは、ほとんど何もしてくれない。 数個のドットが動くだけなのに、こちらは「お腹が空いたのかな」「元気がないな」


辰口温泉「田んぼの湯」@石川県能美市
せっかく石川県にまで行ったので、石川県能美市にある辰口温泉へ。 今回訪れたのは、旅館「たがわ龍泉閣」の名物露天風呂、「田んぼの湯」。 「田んぼの湯」とは、比喩ではなく、本当に田んぼの中から湧き出した源泉を使った温泉でした。 南には白山。周囲には里山と田園。その中に六つの露天風呂が広がり、しかも男女混浴。入浴用の浴衣を着て入るので、家族や夫婦、仲間と一緒に温泉を楽しむことができます。 この日は広大な露天風呂に私ひとりでした。 温泉好きとして各地を巡っていますが、これはかなり稀有な体験でした。 そもそも日本の温泉は、山の中、渓谷、海辺など、「地球の裂け目」から湯が現れる場所が多い。 ところが、ここでは田んぼから温泉が湧いています。 米を育てる土地から、人を温める湯まで出てくる。 辰口温泉には約1400年の歴史があるとされ、養老年間には、傷ついた馬が湯で脚を癒やしたという伝承も残っています。その後、手取川の氾濫などで源泉が埋まり、江戸時代末期の1836年、灰屋源助が再び温泉を掘り当てたことが、現在の辰口温泉につながったとされています。...


CACL(カクル)@石川県能美市(代表:奥山純一)
石川県能美市のCACL(カクル)(代表:奥山 純一)を訪ねました。 CACLとの出会いのきっかけは、金沢21世紀美術館で展示したプロジェクト(令和6年能登半島地震 復興支援プロジェクト「Rediscover project」) https://cacl.jp/topics/1205/ ●【Web Media】2024/12/3:1900-2100:金沢21世紀美術館「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」展を巡ろう(ニコニコ美術館):出演者〇長谷川祐子(館長)、〇本橋仁(本展キュレーター)。〇池田あゆみ(本展キュレーター)、〇稲葉俊郎(医師、医学博士、作家)(Web)(cf.「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」:2024年11月2日(土) - 2025年3月16日(日)@金沢21世紀美術館) 2024年の能登半島地震のあと、能登には数え切れないほどの「かけら」が生まれました。 九谷焼、輪島塗、珠洲焼、能登瓦……。 けれど、それらは単なる「壊れたもの」ではありません。 一片のかけらの中には、土を掘った人、木を育てた人、漆を採


山下完和『咲ける場所に置いてくれ』
『咲かせるのではなく、「咲ける場所」をつくる』 山下完和『咲ける場所に置いてくれ』を読んだ。 私の著書『山のメディスン』と同じ、ライフサイエンス出版(叢書クロニック)の待望の新刊。 「やまなみ工房」の山下完和さんは、福祉の世界の「革命児」なのだと思う。 ただし、革命という言葉から想像するような、何かを声高に破壊する革命ではない。 もっと静かで、もっと根源的な革命だ。 福祉・障害者施設のいつの間にか出来上がってしまった枠組みに対して、「本当にそうなんだろうか?」と問い続けてきた人なのだと思う。 滋賀県甲賀市にある「やまなみ工房」には、知的障害や精神疾患のある人たちが通い、それぞれが表現活動を続けている。その作品は国内だけでなく海外でも高く評価され、展覧会、美術市場、ファッション、音楽など、既存の福祉という枠を軽々と越えて広がってきた。 けれども、『咲ける場所に置いてくれ』を読んで感じるのは、これは決して「障害者アートを成功させた人」のサクセスストーリーではない、ということだ。 むしろこれは、 人間は、どんな場所に置かれれば、その人自身として生きるこ