

「’82 マイコン・イン 鹿教湯温泉」&坂本龍一さん
鹿教湯温泉に行き、古いポスターを見つけて驚いた。 1982年、鹿教湯温泉で開催された「’82 マイコン・イン 鹿教湯温泉」。 そこに写っていたのは、若き日の坂本龍一だった(かっこいい!)。 温泉と坂本龍一。湯治場とマイコン。 一見すると、まったく結びつかない。 でも少し調べてみると、このポスターの中には、1980年代という時代そのものが凝縮されていた。 鹿教湯温泉は、古くから湯治と療養の土地として知られてきた場所だ。身体を休、病を癒す。しばらく日常を離れ、自分の身体を土地に預ける。 温泉とは、単にお湯に入る場所ではなく、もともと「滞在しながら身体と生活を組み替える場所」だった。 そんな鹿教湯が1982年、未来の象徴であった「マイコン」を温泉地へ持ち込んだ。 「マイコン・イン」は、子どもたちにコンピュータに触れてもらう、いわば滞在型の学びの試みだったという。そして、その広告の顔として登場したのが坂本龍一だった。 当時の坂本龍一はYMOの活動を通じて、シンセサイザーやコンピュータ、電子音を駆使し、誰よりも鮮やかに「未来の音」を鳴らしていた。...


身体性から、自分の「根」を見つめる。——10月17日、伊那へ
10月17日(土)、長野県伊那市の inadani sees で、半日の講座を開催します。 テーマは、「身体性から自分の根を見つめる」です。 私たちは日々、たくさんのことを「頭」で考えています。自分とは何者なのか。 けれども、自分という存在の「根」は、頭だけで探しても、なかなか見つからないものなのかもしれません。 植物が、目に見えない土の中へ根を伸ばしているように、人間にもまた、思考より深いところに自分を支えている場所があります。それが、身体です。 呼吸、鼓動、姿勢、歩くこと、触れること。疲れや心地よさ、言葉になる前の小さな違和感。 身体は、私たちが「分かる」よりもずっと前から、世界を感じています。 今回は、「身体について知る」というよりも、身体を通して、自分自身へ帰っていく時間にしたいと思っています。 そして、このテーマを考える場所として、伊那はとてもふさわしい場所です。 会場となる inadani sees は、森を中心に、人と自然、地域、文化、仕事、学びをつなぎ直す活動を続けている素晴らしい方々がつくっている場所です。 彼らがつくる 『se


誰が、身体を動かしているのか?―島地保武さんと考えた「動きから立ち上がるいのち」
日本身体性学協会 第二回フォーラム@早稲田大学で、ダンサー・振付家の島地保武さんと、 「医療」×「身体表現」――動きから立ち上がるいのち―― というセッションを行った。 医師は身体を診察し、ダンサーは身体を動かす。 医療は身体の異常を見つけ、治療する。ダンスは身体によって何かを表現する。 しかし、実際に島地さんとご一緒してみると、両者は思っていた以上に深いところで、同じ問いに触れていることに気づいた。 それは、 「そもそも、身体は誰によって動かされているのか?」 という問いだった。 私たちは日常的に「身体を動かす」という言葉を使う。そこでは当然のように、「私」という主体が先にあって、その私が身体へ命令を出していると考えている。けれども、少し身体の内側へ入ってみると、その前提はすぐに揺らいでくる。 心臓は、誰に命令されて動いているのだろう。 私が意識するよりはるか以前から、身体は動いている。 身体には、私たちの意識よりも先に、「おのずずから動く力」がある。刺激に対して、身体は0.05-0.1秒で反応し、脳は遅れ0.2-0.5秒で反応している。つまり


草間彌生さんへ 一つの水玉は、宇宙へひらかれている
草間彌生さんが亡くなった。 けれども、不思議なことに、草間さんの死を「いなくなった」と感じることが、私にはどうしても難しい。 草間さんの作品を思い浮かべるからだろう。 一つの水玉がある。百、千、万・・・。点は増殖し、壁を越え、身体を越え、部屋を越え、やがてこちら側へまでやってくる。 鏡の中では、一つの像が二つになり、十になり、百になり、その向こうへ、さらに向こうへと続いていく。 草間彌生という人は、生涯をかけて「一人の人間は、どこまで一人なのか」という問いを描き続けた芸術家だったのではないか。 私はいま書いている『生命を見るための芸術』(特に出版社のあてはありません)という本で、草間彌生について一章を書いた。 その章につけた問いは、 「『私』は、どこまでが私なのか」 というものだった。 草間さんの作品には、水玉があり網目があり鏡がある。そこには無限がある。 そこでは「私」の輪郭が、増殖し、揺らぎ、溶けていく。 面白いことに、自己を消そうとすればするほど、そこには誰にも似ていない、圧倒的な「草間彌生」が立ち上がってくる。水玉を見れば、草間彌生だと分


地球の深部から届く水素に浸かる―白馬八方温泉「八方の湯」
美しい青木湖を訪れたあと、白馬八方温泉 八方の湯へ。 湯に身体を沈めて最初に感じるのは、驚くほど滑らかな肌触りである。いわゆる「美肌の湯」と呼ばれるアルカリ性温泉(PH11もある)のつるりとした感覚。 しかし、この湯の本当の面白さは、肌触りのさらに奥、地下深くで起きている地球化学反応にある。 掲示されている2019年の温泉分析書を見ると、源泉は「白馬八方温泉第1号、3号の混合泉」。泉温48.1℃、分析時pH 11.4。泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)である。 成分総計はわずか128.3 mg/kg。ナトリウム40.3 mg/kg、カルシウム16.6 mg/kg、水酸化物イオンOH⁻が39.0 mg/kgなどで、いわゆる「成分が濃厚な温泉」とはまったく違う。 むしろ、薄く、透明で、強くアルカリ性である。 そして、この湯には分析表の数字だけでは十分に表現できない、もう一つの主役がいる。 水素(H₂)である。 なぜ、白馬の地下から水素が生まれるのか? 白馬八方温泉が世界的にも興味深いのは、この水素の由来が地質学的に研究されていることだ


青木湖から考える〈環境医学としてのサウナ〉@Lakeside villa SUI HAKUBA
白馬にほど近い青木湖。その湖畔に佇む「Lakeside villa SUI HAKUBA」(扉グループ)に宿泊した。 私は、基本的にサウナがそれほど得意ではない。 それは熱さだけではなく、多くのサウナは小さな閉鎖空間で、視線の先には壁がある。身体には強い熱刺激が加わり、心拍数も上がる。そのうえ視線まで閉じ込められると、どこか重苦しさを感じていた。 ところが、SUIのサウナはまったく違った。 大きなガラス窓の向こうに、美しい青木湖が広がっている。 湖面が揺れ、光が反射し、その向こうに森と山がある。 身体は小さなサウナ室の中にいるのに、視線はずっと遠くまで自然の中へ抜けていく。 身体は熱の中にありながら、意識は風景の中へ出ていく。 この開放感が、驚くほど心地よかった。 医師として考えてみると、サウナを「熱」だけで考えすぎてきたのかもしれない。何℃なのか。何分入るのか。湿度はどれくらいか。心拍数や血圧はどう変化するのか。 もちろん、どれも大切だ。 けれども人間の身体は、温度センサーだけでできているわけではない。 光、音、匂い、風、空間の広がり。そして、


牛に引かれて、湯へ――布引観音温泉
長野県小諸、布引観音の麓にある「布引観音温泉」へ。 ここは私が大好きな温泉。いい感じに鄙びた湯治場の風情が残っていて、古い湯治場の時間が流れている。温泉ビギナーにはお薦めできないが、ディープな温泉を知りたい人にはとっておきの場所だ。 建物に入る前から、まず驚く。 外には温泉がこんこんと湧き、飲泉することができる(温泉水だけではなく、深層水までも!)。 温泉は「入る」ものだと思っていると、ここではその前提が少し崩れるだろう。 湯に浸かるだけではなく、湯を飲むことも、湯治の本質だ。それは、ミネラルを体内に取り込むこと。人体でのミネラルの必要性に関しては、また都度都度アナウンスしていきたい。 温泉という地球の体液を、身体の外側からだけではなく、内側からも受け取る。 昔の「湯治」とは、本来こういうものだった。 湯治は、単に温泉に入って病気を治すことではなく、しばらく土地に滞在し、その土地の水を飲み、その土地のものを食べ、眠り、歩き、何度も湯に入る。 つまり、身体を土地の時間に預け直すことだった。 布引観音温泉には、そうした昔ながらの湯治場の気配が、まだ濃


YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERY
YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERYへ。 改めて驚いた。 横尾忠則さんのポスターは、どの年代の作品を見ても、まったく古く見えない。そして、誰にも似ていない。 これは考えてみれば、ものすごいことだ。 ポスターとは、本来とても「時代」に近いメディアだと思う。その時代の演劇や映画や音楽があり、社会があり、流行の色彩や書体やデザインがある。 だから普通なら、数十年前のポスターを見れば、「これは60年代だ」「これは80年代だ」と、どこかに時代の刻印が見える。 ところが横尾忠則のポスターは違う。 もちろん制作された時代はある。しかし、その時代に閉じ込められていない。 1960年代の作品が、2020年代の作品より新しく見えることさえある。これは「時代を先取りしていた」ということとも少し違う。 先取りしているだけなら、いつか時代が追いついてしまう。横尾忠則は、そもそも時代と競争していないのではないか。時代の前でも後ろでもない。 時間軸そのものから、少し外れたところにいる。 そこに横尾作品の不思議な「無時間性」


「違うままで、一つである」―横尾忠則と霊性の芸術
横尾忠則の作品を前にすると、いつも不思議な感覚に襲われる。 なぜなら、そこにはあまりにも多くのものがあるからだ。 聖なるものと俗なるもの。生と死。エロスと宗教。夢と現実。幼年期の記憶と大衆文化。神話と広告。宇宙と身体。日本とアメリカ・・・・ 普通なら、同じ場所には置かれないはずのものが、横尾の画面では何の断りもなく並んでいる。 しかも不思議なのは、それらが単なる混乱には見えないことである。むしろ、ばらばらであるはずのものが、一枚の画面の中で奇妙な必然を持って共存している。互いに溶け合っているわけではない。違いは残っている。それでも、すべてが同じ世界の中にいる。 この横尾忠則独特の感覚を、私は長いあいだ「異質なものの調和」と考えていた。しかし、本当に「調和」という言葉が適切なのだろうか、とも思っていた。 横尾が巧みに異質なものを結びつけているのではなく、私たちの側が、もともと一つの世界に存在していたものを、後から「異質」と呼び分けているだけなのではないか。横尾の作品を見つめていると、そんな疑いが生まれてくる。 そして、そのことを考えるうえで、どうし


『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ: 横尾忠則自伝』
横尾忠則さんの自伝『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ』を読んだ。 すごい本だ。言葉にしようとすると、一つには絞れない。 三島由紀夫、ジョンとヨーコ、アンディ・ウォーホール、サルバドール・ダリ・・。20世紀という時代そのものをつくった伝説的な人たちが、次々と登場する。 けれども不思議なのは、彼らが「偉人」として登場しないことだ。 横尾さんの人生の中に、ごく自然に現れる。会って、話して、食事をして、仕事をして、ときには喧嘩をし、笑い、別れる。歴史上の人物たちが、歴史前の生身の人間としてそこにいる。その距離感がすごい。 それは、横尾さん自身が彼らを必要以上に神格化しないからなのだと思う。相手がジョン・レノンでもアンディ・ウォーホールでもサルバドール・ダリでも、一人の人間として見ている。 そして同時に、自分自身のことも神格化しない。格好悪いこと、怖かったこと、嫉妬も、迷いも、病気も、死への恐怖も、ありのままを書く。 不思議な出来事に遭遇すれば、「こんなことが起きた」と、そのまま書く。 その徹底した正直さが、この本の大きな魅力だと思った。...