

山下完和『咲ける場所に置いてくれ』
『咲かせるのではなく、「咲ける場所」をつくる』 山下完和『咲ける場所に置いてくれ』を読んだ。 私の著書『山のメディスン』と同じ、ライフサイエンス出版(叢書クロニック)の待望の新刊。 「やまなみ工房」の山下完和さんは、福祉の世界の「革命児」なのだと思う。 ただし、革命という言葉から想像するような、何かを声高に破壊する革命ではない。 もっと静かで、もっと根源的な革命だ。 福祉・障害者施設のいつの間にか出来上がってしまった枠組みに対して、「本当にそうなんだろうか?」と問い続けてきた人なのだと思う。 滋賀県甲賀市にある「やまなみ工房」には、知的障害や精神疾患のある人たちが通い、それぞれが表現活動を続けている。その作品は国内だけでなく海外でも高く評価され、展覧会、美術市場、ファッション、音楽など、既存の福祉という枠を軽々と越えて広がってきた。 けれども、『咲ける場所に置いてくれ』を読んで感じるのは、これは決して「障害者アートを成功させた人」のサクセスストーリーではない、ということだ。 むしろこれは、 人間は、どんな場所に置かれれば、その人自身として生きるこ


9月5日(土)、日本身体性学協会 第2回フォーラム@早稲田大学『医療 × 身体表現 「動きから立ち上がるいのち」』
【身体は、頭より先に知っている?】 9月5日(土)、早稲田大学で開催される日本身体性学協会 第2回フォーラムに登壇します。 私のセッションは、 医療 × 身体表現 「動きから立ち上がるいのち」 ご一緒するのはダンサー・振付家の島地保武さん。 いのちは「動き」です。 心臓、肺、腸、血液、感情・・・。 人が元気になるときも、不思議と動きが変わります。 だから「治る」とは、いのちが再び動き出すことなのかもしれません。 医療は身体をどう見ているのか。 ダンスは身体から何を感じ取るのか。 「診る身体」と「踊る身体」が出会ったら、何が立ち上がるのか。 15:10〜16:10、早稲田大学戸山キャンパスです。 フォーラム全体も、 漫画×ドラマ、車×馬、ヴォイス×禅、タッチ×ダンス、メイク×神経系、太鼓×法螺貝、鮭×種、能×禅…… と、かなり自由です。 終了後は無料での懇親会もあります。 頭で理解するだけではなく、身体で何かを持ち帰る一日へ。 ぜひ、身体ごと遊びに来てください。 ●【Academic Event】2026/9/5(Sat)9:30~17:30:日本


9/11(Fri):14:00-15:30【学んで応援!熊本チャリティー講座】ことばのくすり(NHKカルチャー名古屋教室)
9月11日、NHKカルチャー名古屋教室で、オンラインのチャリティー講座を行います。 題して、「ことばのくすり」です。 今回の講座は、いつもの講座とは少し違います。 受講料の一部が、令和8年熊本地震の被災地支援のための義援金として寄付されます。 (NHK講座から私に払われる謝礼も全額寄付します) 熊本は18歳までの青春時代を過ごした地でもあり、私にとっても大切な場所です。 震災のあと、遠くに暮らしている私たちに、いったい何ができるのだろう、と考えることがあります。現地へ行くこと。物資を届けること。寄付をすること。いろいろな支援のかたちがあります。 そしてもう一つ、 「学ぶことが、誰かを支えることにつながる」 という支援のかたちがあってもいいのではないかと思います。 今回の講座に参加してくださることが、ほんの少しずつでも集まって、熊本の復興を支える力になります。 一人の力は小さく見えても、小さな力が集まることで、大きな流れが生まれることがあります。 今回お話ししたい「ことば」も、どこかそれに似ています。大きな出来事に出会うと、人の心は、自分でも気づか


『映画を撮りたいゾンビの演劇』@東京芸術劇場(作・演出:岡田利規)
東京芸術劇場シアターイーストで、岡田利規さん作・演出の『映画を撮りたいゾンビの演劇』を観た。 とても面白かった。 舞台に現れるのは、映画を撮りたい5人のゾンビたち。 しかも彼らがつくりたいのは、人間がゾンビを描いた映画ではない。 「ゾンビの、ゾンビによる、ゾンビのための映画」である。 この設定だけで、すでに世界が反転している。 私たちは普段、ほとんど疑うことなく「人間」の側から世界を見ている。 ゾンビは異常な死者でもあり恐ろしい存在で、人間はあくまでもその対岸にいる。 この舞台では、その境界線を少しずつ壊していく。 岡田利規さんは、チェルフィッチュを率いて、言葉と身体の関係、俳優と役柄の関係、舞台と現実の関係を組み替えながら、「そもそも演劇とは何なのか」を問い続けてきた演劇家だ。 2026年4月には東京芸術劇場の舞台芸術部門芸術監督に就任し(音楽部門は、なんと山田和樹さん!)、この作品が就任第1作となった。ドイツ・ハノーファー州立劇場で初演された『Sliding Away』を、日本版の俳優・スタッフによって新たに立ち上げた作品でもある。...


『ちびまる子ちゃんゲーム おこづかいちょーだいの巻』
リサイクルショップに行き、昭和レトロゲームを少しずつ買い集めている。 昭和レトロなボードゲーム『ちびまる子ちゃんゲーム おこづかいちょーだいの巻』。1990年前後のアニメ放映初期に、タカラから発売されたファミリー向けのボードゲーム。 もう30年以上前のものだが、格安で発掘。 たいしてどこにも行かない夏休みに、家族で遊んでいる。 さくらももこファンにはヨダレものだった。 当時、我が家にもあった記憶がある。 →【参考】:「さくらももこ展」@松本市立博物館 サイコロを振り、駒を進め、おこづかいをもらったり失ったりする。仕組みは驚くほど単純だ。しかし遊んでいるうちに、これは単なる娯楽ではなく、人間社会を小さくした装置なのではないかと思えてくる。 デジタルゲームでは、ルールの判定も計算も進行も、機械が見えないところで処理してくれる。 ボードゲームでは、自分たちでルールを理解し、順番を待ち、相手の手を読み、ときには曖昧な出来事を話し合って決める。勝って喜ぶ人の隣には負けて悔しがる人がいて、その表情まで含めてゲームなのである。 AIが「正しい答え」を高速に提示


青山ブックセンター(ABC)夏の選書フェア
そういえば。青山ブックセンター(ABC)夏の選書フェア。 私もこの夏の一冊を選定しています。 私が大大大大尊敬するあの方の本です。 夏の選書フェアは12年目を迎え、今年は360人が選んでいます。フェアで5,500円(税込)以上の購入で、コメント掲載の冊子をもらえるようですので、青山に行く機会に、ネットではなくリアル書店でぜひ。 9月30日までの開催予定です。 どうぞよろしくお願いいたします。 https://x.com/Aoyama_book/status/2085581875180122198 https://www.instagram.com/p/DbucE4ikgnc/?igsh=NDEyZWNsZTN0Z2Q0 青山ブックセンター 東京都渋谷区神宮前5丁目53−67 コスモス青山地下 2階 https://aoyamabc.jp/


「奇才の画家 サルバドール・ダリ版画展―奇想の迷宮―」@南アルプス市立美術館
南アルプス市立美術館で、「奇才の画家 サルバドール・ダリ版画展―奇想の迷宮―」を見た。 私は昔からダリが好きだった。だから、山梨でも当然、足を運ぶ。 大学生の頃、バックパッカーとしてスペインを旅したことがある。バルセロナから列車に乗り、フィゲラスへ向かった。目的は、ダリ劇場美術館だった。 建物そのものが巨大な作品のような、あの奇妙な場所に足を踏み入れたときの感覚を、今でも覚えている。美術館というより、ダリという一人の人間の頭蓋骨の中へ入っていくようだった。 今回、久しぶりにまとまったダリの作品を見ながら、そのとき感じた奇妙な感覚が蘇ってきた。 ダリは「奇才」「シュルレアリスムの巨匠」と呼ばれる。 もちろん、それは間違いではない。 けれども、ダリを単なる奇抜な人として理解すると、その本質を見失うように思う。 むしろ彼は「現実とは何か」を異常なほど真剣に考え続けた人だったのではないだろうか。 興味深いのは、ダリが科学に強く惹かれていたことである。 精神分析、数学、物理学、原子物理学、DNA。時代の最先端にあった科学的知見を貪欲に吸収し、それを自らの芸


イメージは、どこへ行くのだろう――浅間国際フォトフェスティバル「After the Image」を歩いて
浅間国際フォトフェスティバル2026 PHOTO MIYOTAへ行った。毎年足を運んでいる。御代田は軽井沢のすぐお隣。 今年のテーマは、「After the Image――イメージのその後」。 写真は、シャッターを切った瞬間に完成するのだろうか。展示を歩きながら、そんなことが頭に浮かんだ。 写真は、ある瞬間を切り取るものだと思われている。しかし実際には、その瞬間から写真の長い旅が始まる。誰かに見られ、記憶され、忘れられ、別の時代に発見される。複製され、加工され、ときには本来とは違う意味を与えられる。 そう考えると、写真とは「過去を保存するもの」というより、過去から未来へ送り出された、小さな舟のようなものなのかもしれない。 今回、とりわけ印象に残ったのが石橋英之の《Trails》だった。 https://asamaphotofes.jp/exhibitions/02-%E7%9F%B3%E6%A9%8B-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/ 石橋は、古典写真技法と現代のテクノロジーを行き来しながら、アーカイブやファウンドフォト、物質そのものへの実


「束芋画 国宝」後期展示@ポーラ ミュージアム アネックス
銀座のポーラ ミュージアム アネックスで、束芋「束芋画 国宝」展の後期展示を見た。 →●前期展示の感想 束芋さんの作品を見ていると、いつも「私たちは何をもって人間を見ているのだろう」と思う。 今回、ことさら印象に残ったのは、顔がないことだった。 人間を描くとき、私たちはどうしても顔を見ようとする。 顔からその人の感情を読み、性格を想像し、喜びや悲しみを理解しようとする。肖像画の歴史もまた、顔を通して人間の内面へ近づこうとしてきた歴史だったのかもしれない。 ところが束芋さんの世界では、顔が消えている。 それなのに、不思議なほど「人間」がいる。 むしろ顔がないことで、その人が何者なのかという社会的な情報が剥がれ落ち、もっと深いところにある人間そのものが現れてくる。 肉体を描いているようで、肉体を描いていない。 そこにあるのは、皮膚の下に隠されていた記憶や感情、欲望、不安、孤独、あるいは死者の気配のようなものだ。 人間の身体を借りながら、束芋さんが描いているのは、霊魂の側から見た人間の真実なのではないか、とさえ思った。 そして、その世界を支えているのが


湯治文化 温泉の楽園 松本@松本市立博物館
松本の街を歩いていると、ときどき不思議な感覚になる。 目の前には城下町の整然とした道があり、少し顔を上げれば、その向こうに北アルプスの山々が連なっている。人間がつくった街と、人間よりはるか以前からそこにある山。その二つが、同じ風景の中に静かに収まっている。 けれども、松本という土地を本当に理解するためには、目に見える風景だけでは足りない。その地下には、もう一つの松本がある。 火山があり、断層があり、複雑な地質がある。何万年、何十万年という時間をかけて、大地の内部を水がめぐり、熱を受け、岩石の成分を溶かし込み、再び地上へと戻ってくる。 それが、温泉である。 温泉とは、単なる「温かい水」ではない。地下深くに隠されていた土地の記憶が、液体となって地上へ現れたものだ。 松本市立博物館の常設展示も素晴らしかった。 松本市立博物館の展示を見ながら、松本はまさに「温泉の楽園」だったのだと知った。 明治時代につくられた温泉番付には、全国409か所もの温泉が並んでいる。その中には、浅間温泉、白糸の湯と呼ばれた現在の美ヶ原温泉、そして白骨温泉など、松本周辺の名湯が名