

「違うままで、一つである」―横尾忠則と霊性の芸術
横尾忠則の作品を前にすると、いつも不思議な感覚に襲われる。 なぜなら、そこにはあまりにも多くのものがあるからだ。 聖なるものと俗なるもの。生と死。エロスと宗教。夢と現実。幼年期の記憶と大衆文化。神話と広告。宇宙と身体。日本とアメリカ・・・・ 普通なら、同じ場所には置かれないはずのものが、横尾の画面では何の断りもなく並んでいる。 しかも不思議なのは、それらが単なる混乱には見えないことである。むしろ、ばらばらであるはずのものが、一枚の画面の中で奇妙な必然を持って共存している。互いに溶け合っているわけではない。違いは残っている。それでも、すべてが同じ世界の中にいる。 この横尾忠則独特の感覚を、私は長いあいだ「異質なものの調和」と考えていた。しかし、本当に「調和」という言葉が適切なのだろうか、とも思っていた。 横尾が巧みに異質なものを結びつけているのではなく、私たちの側が、もともと一つの世界に存在していたものを、後から「異質」と呼び分けているだけなのではないか。横尾の作品を見つめていると、そんな疑いが生まれてくる。 そして、そのことを考えるうえで、どうし


『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ: 横尾忠則自伝』
横尾忠則さんの自伝『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ』を読んだ。 すごい本だ。言葉にしようとすると、一つには絞れない。 三島由紀夫、ジョンとヨーコ、アンディ・ウォーホール、サルバドール・ダリ・・。20世紀という時代そのものをつくった伝説的な人たちが、次々と登場する。 けれども不思議なのは、彼らが「偉人」として登場しないことだ。 横尾さんの人生の中に、ごく自然に現れる。会って、話して、食事をして、仕事をして、ときには喧嘩をし、笑い、別れる。歴史上の人物たちが、歴史前の生身の人間としてそこにいる。その距離感がすごい。 それは、横尾さん自身が彼らを必要以上に神格化しないからなのだと思う。相手がジョン・レノンでもアンディ・ウォーホールでもサルバドール・ダリでも、一人の人間として見ている。 そして同時に、自分自身のことも神格化しない。格好悪いこと、怖かったこと、嫉妬も、迷いも、病気も、死への恐怖も、ありのままを書く。 不思議な出来事に遭遇すれば、「こんなことが起きた」と、そのまま書く。 その徹底した正直さが、この本の大きな魅力だと思った。...


将棋とは「あらゆる可能性に敬意を払うこと」
将棋とは、「あらゆる可能性に敬意を払うこと」である。 わたしは小学生~高校生の頃、将棋狂だった。 将棋の相手を求めて、色々な将棋会館をわたり歩いたのも懐かしき思ひ出。 江戸時代、将棋は単なる遊戯ではなかった。 大橋宗桂を祖とする家元制度が整えられ、将棋は一つの文化として磨かれていった。 初代 大橋宗桂は最初の将棋名人(一世名人)で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人に将棋の実力で仕えた。現在の「名人」という言葉のルーツは大橋宗桂にある。囲碁の家元・本因坊算砂と指した将棋の記録(棋譜)が現存する世界最古の将棋の棋譜で、後陽成天皇へ献上した公式な詰将棋集も最古。 その歴史をたどる漫画(『宗桂 〜飛翔の譜〜』(作画:星野泰視 / 監修:渡辺明))を読むと、盤上の勝負の背後に、 日本人が「考えること」そのもの を文化として育ててきた時間が見えてくる。 私も、中学生時代の将棋大会で、江戸時代の棋譜を指して将棋記者から驚かれたことがある(当時の熊本日日新聞にも載った)。当時の大スター羽生さんの棋譜だけではなく、江戸時代の大橋宗桂の棋譜からも学んでいた


生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える
映画『急に具合が悪くなる』は素晴らしい映画だった。私が医療者として格闘し、もがいてきたテーマが重層的に織り込まれていて、とても身に染みた。 映画『急に具合が悪くなる』を観ながら、私はずっと、医療とは何だろうと考えていた。もう少し正確に言えば、人が人をケアするとは、いったい何をしていることなのだろう、と考えていた。 医療の現場では多くの限界を感じることの方が多い。 それでも、人は誰かの傍らにいる。話を聞く。身体に触れる。一緒に黙る。 そのとき、何が起きているのだろう。 考えてみれば、ケアは医学より古い。医学が誕生するずっと前から、人は病み、老い、傷つき、その傍らには別の誰かがいた。歌うこと、踊ること、物語を語ること、死者の傍らに座ること。ケアと芸術は、人類史のかなり深いところで根を共有しているのかもしれない。 この映画を見ながら、私は無数の「ひらく」という言葉が浮かんできた。 バザーリアは、制度をひらいた。ユマニチュードは、身体をひらいた。 異なる言語は、意味をひらく。演劇は、関係をひらく。そしてケアは、生命をひらく。 この五つは別々の話ではない。


辰口温泉「田んぼの湯」@石川県能美市
せっかく石川県にまで行ったので、石川県能美市にある辰口温泉へ。 今回訪れたのは、旅館「たがわ龍泉閣」の名物露天風呂、「田んぼの湯」。 「田んぼの湯」とは、比喩ではなく、本当に田んぼの中から湧き出した源泉を使った温泉でした。 南には白山。周囲には里山と田園。その中に六つの露天風呂が広がり、しかも男女混浴。入浴用の浴衣を着て入るので、家族や夫婦、仲間と一緒に温泉を楽しむことができます。 この日は広大な露天風呂に私ひとりでした。 温泉好きとして各地を巡っていますが、これはかなり稀有な体験でした。 そもそも日本の温泉は、山の中、渓谷、海辺など、「地球の裂け目」から湯が現れる場所が多い。 ところが、ここでは田んぼから温泉が湧いています。 米を育てる土地から、人を温める湯まで出てくる。 辰口温泉には約1400年の歴史があるとされ、養老年間には、傷ついた馬が湯で脚を癒やしたという伝承も残っています。その後、手取川の氾濫などで源泉が埋まり、江戸時代末期の1836年、灰屋源助が再び温泉を掘り当てたことが、現在の辰口温泉につながったとされています。...


CACL(カクル)@石川県能美市(代表:奥山純一)
石川県能美市のCACL(カクル)(代表:奥山 純一)を訪ねました。 CACLとの出会いのきっかけは、金沢21世紀美術館で展示したプロジェクト(令和6年能登半島地震 復興支援プロジェクト「Rediscover project」) https://cacl.jp/topics/1205/ ●【Web Media】2024/12/3:1900-2100:金沢21世紀美術館「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」展を巡ろう(ニコニコ美術館):出演者〇長谷川祐子(館長)、〇本橋仁(本展キュレーター)。〇池田あゆみ(本展キュレーター)、〇稲葉俊郎(医師、医学博士、作家)(Web)(cf.「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」:2024年11月2日(土) - 2025年3月16日(日)@金沢21世紀美術館) 2024年の能登半島地震のあと、能登には数え切れないほどの「かけら」が生まれました。 九谷焼、輪島塗、珠洲焼、能登瓦……。 けれど、それらは単なる「壊れたもの」ではありません。 一片のかけらの中には、土を掘った人、木を育てた人、漆を採


山下完和『咲ける場所に置いてくれ』
『咲かせるのではなく、「咲ける場所」をつくる』 山下完和『咲ける場所に置いてくれ』を読んだ。 私の著書『山のメディスン』と同じ、ライフサイエンス出版(叢書クロニック)の待望の新刊。 「やまなみ工房」の山下完和さんは、福祉の世界の「革命児」なのだと思う。 ただし、革命という言葉から想像するような、何かを声高に破壊する革命ではない。 もっと静かで、もっと根源的な革命だ。 福祉・障害者施設のいつの間にか出来上がってしまった枠組みに対して、「本当にそうなんだろうか?」と問い続けてきた人なのだと思う。 滋賀県甲賀市にある「やまなみ工房」には、知的障害や精神疾患のある人たちが通い、それぞれが表現活動を続けている。その作品は国内だけでなく海外でも高く評価され、展覧会、美術市場、ファッション、音楽など、既存の福祉という枠を軽々と越えて広がってきた。 けれども、『咲ける場所に置いてくれ』を読んで感じるのは、これは決して「障害者アートを成功させた人」のサクセスストーリーではない、ということだ。 むしろこれは、 人間は、どんな場所に置かれれば、その人自身として生きるこ


9月5日(土)、日本身体性学協会 第2回フォーラム@早稲田大学『医療 × 身体表現 「動きから立ち上がるいのち」』
【身体は、頭より先に知っている?】 9月5日(土)、早稲田大学で開催される日本身体性学協会 第2回フォーラムに登壇します。 私のセッションは、 医療 × 身体表現 「動きから立ち上がるいのち」 ご一緒するのはダンサー・振付家の島地保武さん。 いのちは「動き」です。 心臓、肺、腸、血液、感情・・・。 人が元気になるときも、不思議と動きが変わります。 だから「治る」とは、いのちが再び動き出すことなのかもしれません。 医療は身体をどう見ているのか。 ダンスは身体から何を感じ取るのか。 「診る身体」と「踊る身体」が出会ったら、何が立ち上がるのか。 15:10〜16:10、早稲田大学戸山キャンパスです。 フォーラム全体も、 漫画×ドラマ、車×馬、ヴォイス×禅、タッチ×ダンス、メイク×神経系、太鼓×法螺貝、鮭×種、能×禅…… と、かなり自由です。 終了後は無料での懇親会もあります。 頭で理解するだけではなく、身体で何かを持ち帰る一日へ。 ぜひ、身体ごと遊びに来てください。 ●【Academic Event】2026/9/5(Sat)9:30~17:30:日本


9/11(Fri):14:00-15:30【学んで応援!熊本チャリティー講座】ことばのくすり(NHKカルチャー名古屋教室)
9月11日、NHKカルチャー名古屋教室で、オンラインのチャリティー講座を行います。 題して、「ことばのくすり」です。 今回の講座は、いつもの講座とは少し違います。 受講料の一部が、令和8年熊本地震の被災地支援のための義援金として寄付されます。 (NHK講座から私に払われる謝礼も全額寄付します) 熊本は18歳までの青春時代を過ごした地でもあり、私にとっても大切な場所です。 震災のあと、遠くに暮らしている私たちに、いったい何ができるのだろう、と考えることがあります。現地へ行くこと。物資を届けること。寄付をすること。いろいろな支援のかたちがあります。 そしてもう一つ、 「学ぶことが、誰かを支えることにつながる」 という支援のかたちがあってもいいのではないかと思います。 今回の講座に参加してくださることが、ほんの少しずつでも集まって、熊本の復興を支える力になります。 一人の力は小さく見えても、小さな力が集まることで、大きな流れが生まれることがあります。 今回お話ししたい「ことば」も、どこかそれに似ています。大きな出来事に出会うと、人の心は、自分でも気づか


『映画を撮りたいゾンビの演劇』@東京芸術劇場(作・演出:岡田利規)
東京芸術劇場シアターイーストで、岡田利規さん作・演出の『映画を撮りたいゾンビの演劇』を観た。 とても面白かった。 舞台に現れるのは、映画を撮りたい5人のゾンビたち。 しかも彼らがつくりたいのは、人間がゾンビを描いた映画ではない。 「ゾンビの、ゾンビによる、ゾンビのための映画」である。 この設定だけで、すでに世界が反転している。 私たちは普段、ほとんど疑うことなく「人間」の側から世界を見ている。 ゾンビは異常な死者でもあり恐ろしい存在で、人間はあくまでもその対岸にいる。 この舞台では、その境界線を少しずつ壊していく。 岡田利規さんは、チェルフィッチュを率いて、言葉と身体の関係、俳優と役柄の関係、舞台と現実の関係を組み替えながら、「そもそも演劇とは何なのか」を問い続けてきた演劇家だ。 2026年4月には東京芸術劇場の舞台芸術部門芸術監督に就任し(音楽部門は、なんと山田和樹さん!)、この作品が就任第1作となった。ドイツ・ハノーファー州立劇場で初演された『Sliding Away』を、日本版の俳優・スタッフによって新たに立ち上げた作品でもある。...