「束芋画 国宝」後期展示@ポーラ ミュージアム アネックス
- 2 日前
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銀座のポーラ ミュージアム アネックスで、束芋「束芋画 国宝」展の後期展示を見た。
→●前期展示の感想
束芋さんの作品を見ていると、いつも「私たちは何をもって人間を見ているのだろう」と思う。
今回、ことさら印象に残ったのは、顔がないことだった。

人間を描くとき、私たちはどうしても顔を見ようとする。
顔からその人の感情を読み、性格を想像し、喜びや悲しみを理解しようとする。肖像画の歴史もまた、顔を通して人間の内面へ近づこうとしてきた歴史だったのかもしれない。
ところが束芋さんの世界では、顔が消えている。
それなのに、不思議なほど「人間」がいる。
むしろ顔がないことで、その人が何者なのかという社会的な情報が剥がれ落ち、もっと深いところにある人間そのものが現れてくる。
肉体を描いているようで、肉体を描いていない。
そこにあるのは、皮膚の下に隠されていた記憶や感情、欲望、不安、孤独、あるいは死者の気配のようなものだ。
人間の身体を借りながら、束芋さんが描いているのは、霊魂の側から見た人間の真実なのではないか、とさえ思った。


そして、その世界を支えているのが、驚くほど緻密で細密な描写である。
細部へ近づけば近づくほど、世界はリアルになるはずだ。
しかし束芋の作品では逆のことが起こる。
細部を見れば見るほど、現実が奇妙になっていく。
皮膚、髪、衣服、植物、室内、身体の断片。
一つひとつは執拗なほど具体的なのに、それらが組み合わさった瞬間、私たちが普段「現実」と呼んでいる世界から少しずれていく。
けれど、そのずれた世界のほうが、なぜか本当のように感じられる。
ここに束芋作品の怖さと魅力がある。
リアルとは、現実そっくりに描くことではない。
目に見えている表面を剥がし、その奥に潜んでいるものまで含めて描くことなのかもしれない。
夢が荒唐無稽でありながら、目覚めたあとに「自分の本当の気持ちは、むしろあの夢の中にあった」と気づくことがある。束芋さんの絵にも、それに近い感覚がある。
現実を歪めているのではない。
私たちが「現実」と呼んで安心している薄い膜を破り、その下にある別の現実を見せている。


今回の「束芋画 国宝」がまた面白いのは、新聞連載小説の挿絵として描かれた作品群であることだ。
本来、挿絵は文章に従属するものだと思われがちである。小説があり、それを補助するために絵がある。
しかし束芋さんの絵は、その関係を軽々と越えてしまう。
小説を読んでいなくても、一枚一枚を追っていくだけで、何か巨大な物語の中を歩いている感覚になる。
それは「挿絵」というより、絵日記に近いのかもしれない。
ただし、出来事を説明する日記ではない。
人間の無意識が毎日一枚ずつ描き残した、夢の日記である。
前後の絵の間に何が起きたのかはわからない。人物の名前も、細かな事情も知らない。
それでも、身体の距離、視線の不在、植物や物の配置、奇妙な余白から、見る側が勝手に物語を読み始めてしまう。
これは、とてもすごいことだと思う。
物語を説明していないのに、物語が生まれる。
言葉がなくても、人間はイメージを読むことができる。
むしろ言葉になる以前から、私たちは世界をイメージとして受け取っていたのではないだろうか。

束芋さんの作品を見ながら、芸術とは「見えるものを上手に描くこと」から、最も遠い場所にあるものなのだと思った。
見えないものを、見えるようにすること。
名前のない感情に、かたちを与えること。
言葉になる前の記憶を、こちら側へ連れてくること。
だから束芋さんの人間たちには、顔が必要ないのかもしれない。
顔を失った身体の奥から、もっと古く、もっと匿名で、もっと普遍的な「人間」が浮かび上がってくる。
緻密に描けば描くほど、現実から離れ、
現実から離れるほど、真実に近づいていく。
その奇妙な逆説の中に、作家の本質があるように思う。
展示室を出たあと、銀座を歩く人たちの顔が、少し違って見える。
私たちは顔を見て、人を見たつもりになっているけれど、その顔の奥には、誰にも見えない世界がある。
芸術とは、その見えない世界のほうこそが「ほんとう」なのだと、ときどき私たちに思い出させてくれるものなのかもしれない。
タイトル:「束芋画 国宝」
会期 :【前期】2026年7月17日(金)- 8月9日(日)
【後期】2026年8月11日(火・祝)- 8月30日(日) ※休館日8月10日(月)
時間 : 11:00 – 19:00 (入場は18:30まで)
入場料 : 無料
会場 : ポーラ ミュージアム アネックス
(〒104-0061 中央区銀座 1-7-7 ポーラ銀座ビル 3 階)
主催 : 株式会社ポーラ・オルビスホールディングス
協力 : ギャラリー小柳、家具屋利右衛門
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