『映画を撮りたいゾンビの演劇』@東京芸術劇場(作・演出:岡田利規)
- 3 日前
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東京芸術劇場シアターイーストで、岡田利規さん作・演出の『映画を撮りたいゾンビの演劇』を観た。
とても面白かった。
舞台に現れるのは、映画を撮りたい5人のゾンビたち。
しかも彼らがつくりたいのは、人間がゾンビを描いた映画ではない。
「ゾンビの、ゾンビによる、ゾンビのための映画」である。
この設定だけで、すでに世界が反転している。
私たちは普段、ほとんど疑うことなく「人間」の側から世界を見ている。
ゾンビは異常な死者でもあり恐ろしい存在で、人間はあくまでもその対岸にいる。
この舞台では、その境界線を少しずつ壊していく。
岡田利規さんは、チェルフィッチュを率いて、言葉と身体の関係、俳優と役柄の関係、舞台と現実の関係を組み替えながら、「そもそも演劇とは何なのか」を問い続けてきた演劇家だ。
2026年4月には東京芸術劇場の舞台芸術部門芸術監督に就任し(音楽部門は、なんと山田和樹さん!)、この作品が就任第1作となった。ドイツ・ハノーファー州立劇場で初演された『Sliding Away』を、日本版の俳優・スタッフによって新たに立ち上げた作品でもある。
今回、改めて驚いたのは、岡田さんの戯曲の構成の巧みさだった。
最初は少し可笑しい。ところが、その可笑しさの中へ身を置いているうちに、「ゾンビ」という言葉が少しずつ別の意味を帯び始める。
ゾンビとは誰なのか。
社会の多数派から「あなたは私たちとは違う」と線を引かれたマイノリティかもしれない。声を上げることのできない死者かもしれない。社会の中には存在しているのに「存在していないこと」にされている人たちかもしれない。
そう考え始めると、この作品の風景は一変する。
「ゾンビの映画を、人間がつくる」のではなく、ゾンビ自身が自分たちの映画を撮ろうとする。
ここには、誰が誰を表象する権利を持つのかという、現代芸術にとって極めて重要な問題がある。
語られる側だった者が、自ら語り始める。
見られる側だった者が、カメラを持つ。
すると問題は「ゾンビとは何か」ではなくなる。
むしろ、「人間」とは誰なのか。「正常」とは誰が決めたのか。という問いが、客席に返ってくる。
東京芸術劇場自身も、この作品について「ゾンビと人間の間の非対称性」「何が正常で人間的かを決めるのは誰なのか?」という問いを掲げている。
その意味で、ゾンビという存在を選んだことは実に巧妙だ。
ゾンビは生者でも死者でもなく、こちら側でも、あちら側でもない境界にいる。
だからこそ、社会が無意識につくっているあらゆる境界――正常/異常、健常/障害、多数/少数、生/死、主体/客体――を映し出すことができる。
そして、今回とりわけ心を動かされたのが、百瀬葉さんの演技だった。
演技をしているのに、「演技している」という感じから絶妙にこぼれ落ちていく。言葉と身体の間にわずかなずれがあり、そのずれの中から、説明できない感情や存在感が立ち上がってくる。
ゾンビという「人間ではない存在」を演じることによって、逆説的に、人間の身体とは何か、人間の声とは何かが鮮明になる。
百瀬さんをはじめ、東宮綾音さん、島田桃依さん、石川朝日さん、福原冠さんという5人の俳優によって、この奇妙な世界が成立していて、そのシンプルさもよかった。
演劇とは不思議な芸術だと思う。
映画のように映像として固定されることもない。
絵画のように作品が残るわけでもない。
同じ場所に、生身の俳優と観客が集まり、数時間だけ別の現実をつくる。
そして終演すれば、その世界は消えてしまう。
だからこそ演劇には、現実そのものを一時的に組み替える力がある。
岡田利規さんは、
「いま存在している演劇が実現していること以上の潜在能力が、演劇にはまだある」
という趣旨の言葉を寄せていた。
演劇は、社会について「説明」するだけではない。
私たちが当然だと思っている世界の前提を、一度だけ外してみせることができる。
ゾンビや死者の側からこの世界を見ることで、世界はまったく違って見えてくる。
芸術とは、新しい答えを与えるものではなく、自分が立っている場所そのものを疑わせる装置なのだろう。
街には、たくさんの「生きている人」が歩いている。私たちは、誰かを知らないうちに「ゾンビの側」へ追いやってはいないだろうか。
ゾンビについての演劇を観たはずなのに、最後に問われていたのは、ずっと人間のほうだったのだと思う。
AIの登場で人間の存在を問い直している時期だからこそ、あえてゾンビの側から人間を見せたかったのかもしれない。
東京芸術劇場の作品は、いつ行ってもハズレがない。


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