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「奇才の画家 サルバドール・ダリ版画展―奇想の迷宮―」@南アルプス市立美術館

  • 6 日前
  • 読了時間: 4分

南アルプス市立美術館で、「奇才の画家 サルバドール・ダリ版画展―奇想の迷宮―」を見た。

私は昔からダリが好きだった。だから、山梨でも当然、足を運ぶ。



大学生の頃、バックパッカーとしてスペインを旅したことがある。バルセロナから列車に乗り、フィゲラスへ向かった。目的は、ダリ劇場美術館だった。


建物そのものが巨大な作品のような、あの奇妙な場所に足を踏み入れたときの感覚を、今でも覚えている。美術館というより、ダリという一人の人間の頭蓋骨の中へ入っていくようだった。



今回、久しぶりにまとまったダリの作品を見ながら、そのとき感じた奇妙な感覚が蘇ってきた。





ダリは「奇才」「シュルレアリスムの巨匠」と呼ばれる。

もちろん、それは間違いではない。

けれども、ダリを単なる奇抜な人として理解すると、その本質を見失うように思う。


むしろ彼は「現実とは何か」を異常なほど真剣に考え続けた人だったのではないだろうか。


興味深いのは、ダリが科学に強く惹かれていたことである。

精神分析、数学、物理学、原子物理学、DNA。時代の最先端にあった科学的知見を貪欲に吸収し、それを自らの芸術へ取り込んでいった。

科学と芸術は、正反対の営みのように見える。科学は世界を客観的に記述しようとし、芸術は主観的に世界を表現する。

しかし、その根には同じ問いがある。

「この世界は、いったい何でできているのか。」



科学が数式や実験によってその問いへ近づくなら、芸術はイメージによって近づく。

ダリにとって、その二つは決して別々のものではなかったのだろう。



さらにその探究は、生命や死、不死の問題へ向かっていく。

ダリが錬金術に惹かれたことも、その延長にあるように思う。


錬金術とは、単に卑金属を黄金へ変える技術ではない。それは古くから、物質の変容を通して人間自身の変容を探究する思想でもあった。


有限なものから永遠なるものへ。腐敗するものから不滅なるものへ。肉体から精神へ。

ダリの芸術には、そうした「変容」への執着がある。



今回とりわけ心を引かれたのが、ダンテの『神曲』を題材とした作品群だった。



地獄、煉獄、天国。


ダンテが言葉によって旅した霊的世界を、ダリはイメージによって再び旅している。

そこに描かれる身体は、現実の身体でありながら、すでに現実の身体ではない。

人間が溶け、分裂し、浮遊し、別の存在へ変わっていく。


それは死後の世界を「想像して描いた」というより、人間の意識が通常の現実を越えていく瞬間を捉えようとしているように感じられた。



ダリのすごさは、その途方もない幻想を、驚異的な描写力によって成立させてしまうところにある。


緻密で、細密で、技術的には古典絵画のように正確である。

だからこそ怖い。


ぼんやり描かれた夢なら、私たちは夢として眺めることができる。

しかしダリの絵では、あり得ないものが、あり得るもの以上の精度で描かれている。


時計が溶ける。身体が分解する。空間がねじれる。物質が別の物質へ変わる。

それなのに、そこには奇妙な「リアル」がある。次元の違う絵なのだと思う。



三次元の世界を二次元の画面に描いているのではない。

夢、無意識、科学、宗教、死、宇宙、時間といった、通常は同じ場所に存在しないものを、一枚の画面の中に同時に存在させる。



その意味でダリは、目に見える世界を描いた画家ではなかった。

「見える世界の背後にある構造」を描こうとした画家だった。


大学生だった私は、フィゲラスでダリの世界に圧倒されながら、ただ「すごい」と思っていた。

それから長い時間が経った。あらためて作品を見ると、当時とは少し違って見える。

奇抜さの奥に、途方もなく真面目な問いが見える。


人間とは何か。

生命とは何か。

死とは何か。

この宇宙は何なのか。



科学も、宗教も、錬金術も、芸術も、ダリの中では、その一つの問いへ向かうための異なる道だったのかもしれない。


私たちが現実だと思っているものは、本当に現実なのだろうか。



世界には、まだ私たちが見ることのできない次元が重なっているのではないか。

芸術とは、その見えない次元に、ほんの一瞬だけ穴を開ける行為なのかもしれない。


ダリはその穴から、生涯、向こう側を覗き続けていた稀有な人物だ。



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