山下完和『咲ける場所に置いてくれ』
- 11 分前
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『咲かせるのではなく、「咲ける場所」をつくる』
山下完和『咲ける場所に置いてくれ』を読んだ。
私の著書『山のメディスン』と同じ、ライフサイエンス出版(叢書クロニック)の待望の新刊。

「やまなみ工房」の山下完和さんは、福祉の世界の「革命児」なのだと思う。
ただし、革命という言葉から想像するような、何かを声高に破壊する革命ではない。
もっと静かで、もっと根源的な革命だ。
福祉・障害者施設のいつの間にか出来上がってしまった枠組みに対して、「本当にそうなんだろうか?」と問い続けてきた人なのだと思う。
滋賀県甲賀市にある「やまなみ工房」には、知的障害や精神疾患のある人たちが通い、それぞれが表現活動を続けている。その作品は国内だけでなく海外でも高く評価され、展覧会、美術市場、ファッション、音楽など、既存の福祉という枠を軽々と越えて広がってきた。


けれども、『咲ける場所に置いてくれ』を読んで感じるのは、これは決して「障害者アートを成功させた人」のサクセスストーリーではない、ということだ。
むしろこれは、
人間は、どんな場所に置かれれば、その人自身として生きることができるのか。
その問いをめぐる、一人の人間と仲間たちの長い格闘の記録なのだと思う。
福祉や医療には、どうしても「できないことを、できるようにする」という発想が入り込む。もちろん、それが必要な場面はたくさんある。
けれども、人間の幸福は、「できること」の数だけで測れるものではなく、社会の側が決めた「できる/できない」という物差しそのものを、一度疑ってみる必要がある。
やまなみ工房が面白いのは、その物差しをひっくり返してしまったことだ。
かつては一個つくって一円というような内職をしていた人たちが、絵を描き、粘土をこね、糸を紡ぎ、自分の内側から湧き上がってくる何かを形にしていく。
何に心を動かされているのか。何をしているとき、その人の生命が生き生きとしているのか。支援者は、それを注意深く見ている。
静かに待ち、見守る。
何かをさせるのではなく、何かがその人の中から生まれてくるための環境を整える。


本のタイトルになった、
「咲ける場所に置いてくれ」
という言葉は、その思想を見事に表していると思う。
できることがあるとすれば、その生命に合った光や水や土のある場所へ置くことだけだ。
そして、待つ。
これは福祉だけの話ではない。
教育も、医療も、子育ても、会社も、地域も、もしかすると同じなのではないだろうか。
山下さんは「福祉界の異端児」と呼ばれてきたという。
けれども、本書を読み進めていくと、その「異端」は奇抜なアイデアのことではないと分かってくる。その中心にあるのは案外シンプルなことだ。
「この人は、どうしたら幸せなのだろう。」
山下さんは、そこから離れない。
制度から人を見るのではなく、人から制度を見る。
ルールから生命を見るのではなく、生命からルールを見る。
だから、人間のほうが制度に合わないなら、人間を変えるのではなく、制度や環境のほうを変えてしまう。
私はそこに、やまなみ工房の本当の革命性があるように思う。
福祉をアート化したのではない。
人間を中心に置き直した結果、福祉がアートのように自由になったのだ。
そして、この本が素晴らしいのは、その成功だけを書いていないところだ。組織をつくるということは、そんなに美しいことばかりではない。
無認可から社会福祉法人へ移行する過程。父親との関係。仲間との衝突。
施設の存続さえ危ぶまれるトラブル。自分自身の未熟さや独善性。
良かれと思ってやったことが、誰かを傷つけてしまうこと。
本書には、そうした「光」の裏側にある影も、驚くほど率直に書かれている。

特に印象的なのは、
「変わるべきは僕のほうだった」
という気づきだ。
これは、支援に携わる人間にとって、とても重い言葉だと思う。
本当の支援とは、ときに、「この人が変わらなくても生きられるように、こちら側が変わること」でもある。
その意味で、やまなみ工房の歴史は、利用者を変えてきた歴史ではない。
支援する側が、何度も自分たち自身を変えてきた歴史なのだ。
そして、私がこの本を読んで最も大切だと感じたのは、やまなみ工房の成功を、山下完和という一人のカリスマの物語にしてはいけない、ということだった。
この場所を本当につくってきたのは、そこで日々を共にしてきた支援者たちでもある。
彼らは、必ずしも福祉の専門家として集まった人たちばかりではない。
資格も経験もない「素人」もいた。それでも、一人の人間の隣に居続けた。
何を描かせればいいのかではなく、その人が何をしたがっているのかを見る。
「何もしていない」ように見える時間にも付き合う。
奇妙に見える行為をすぐに止めるのではなく、その人にとってどんな意味があるのかを考える。
そして、本人が何かを始めるまで待つ。
これは簡単なことではない。
むしろ、何かを「してあげる」ことより、ずっと難しい。
そこに必要なのは技術だけではない。
愛なのだと思う。
ここでいう愛とは、優しくすることだけではない。
相手を自分の思い通りにせず、その人の中に自分にはまだ見えていない可能性があると信じて、待つこと。
やまなみ工房の作品に宿っている圧倒的な生命力は、アーティスト一人だけから生まれたものではないく、「あなたは、あなたのままでここにいていい」と伝え続けてきた人たちとの関係の中から生まれた表現でもあるのだと思う。
だから私は、やまなみ工房という場所そのものが、一つの巨大な共同作品のようにも感じる。
作者は、そこにいる全員だ。
本当に起きた逆転は、作品の価値が変わったのではなく、それを見る社会の眼が変わったことだろう。
社会の側が「この人には価値がない」と判断していたのではない。正確には、社会の側に、その価値を見る眼がなかったのだ
その意味で、アートはとても不思議な力を持っている。
変わったのは、こちら側の眼差しなのだ。
だから、やまなみ工房が変えたものは、障害のある人たちではない。私たちのほうなのだ。
最終章の「障害は人と人の間にある」という言葉は、本書全体を貫く思想だと思う。
ある特徴が「障害」になるかどうかは、その人だけによって決まるのではない。
ならば、福祉とは「障害のある人を社会に適応させること」ではなく、その人が生きられるように、社会の側を柔らかくする仕事なのだろう。
そう考えると、やまなみ工房で起きていることは、福祉の改革だけではない。
教育への問いでもあり、医療への問いでもあり、組織への問いでもあり、私たちがつくってきた社会そのものへの問いでもある。
本書には「素人上等」「素人の覚悟」という言葉が出てくる。私は、この言葉がとても好きだ。
専門性はもちろん大切だ。しかし専門性は、ときに「これはこういうものだ」という固定観念も生む。専門家が答えを知っている組織より、みんなで問い続けられる組織のほうが強い。
山下さん自身も、完成されたリーダーとして描かれてはいない。迷い、失敗し、衝突し、調子に乗り、鼻を折られ、それでもまた立ち上がる。だからこそ、人がついてくるのだろう。
完璧だからではない。「分からないけれど、何とかする」と言って前へ進む人だからだ。
『咲ける場所に置いてくれ』は、福祉の本であるが、優れた組織論でもあると思う。
組織を強くするのは、優れたルールだけではない。
「この人が笑っている場所を守りたい」
そんな、一見すると非合理的な感情が、最後の最後で組織を支える。
やまなみ工房が何度も危機を越えてきたのは、山下さんの突破力だけではないだろう。
そこには、利用者を愛し、仲間を信じ、場所を守ろうとした支援者たちの無数の時間があった。
名もなき時間の堆積の上に、世界が驚く作品が咲いている。一人の人間を大切にする。そのことを、昨日も今日も明日も続ける。すると、その小さな場所の常識が変わる。やがて福祉の常識が変わる。そして、社会の常識まで少しずつ動き始める。
・・・・・
この本を読み終えて、タイトルの意味をもう一度考えた。
「咲ける場所に置いてくれ」。
そこには、「私を咲かせてくれ」とは書かれていない。
生命は、自分で咲く。
私たちにできるのは、その生命が咲くことのできる場所を一緒につくることだけ。
もしかすると、この社会には「咲けない人」がいるのではない。
咲ける場所に、まだ出会えていない人がいるだけなのかもしれない。
そう考えると、福祉の風景はまったく違って見えてくる。
「できない人」を助ける場所ではなく、まだ誰も知らないその人の生命のかたちが現れるのを、みんなで待つ場所。
やまなみ工房は、そんな場所を本当に作ってしまった。だから山下完和さんは、福祉の異端児であり、革命児なのだと思う。
しかし、この革命を成し遂げたのは一人ではない。毎日その人たちのそばに立ち続けた支援者たちがいた。
その中心にあったものを一つだけ挙げるなら、私はやはり「愛」と呼びたい。
その人がその人であることを守る愛。
その生命が自分から咲き始めるまで、急がずに待つ愛だ。
誰かの生命を信じて待つことが、ついには社会の価値観さえ変えてしまったこと。
『咲ける場所に置いてくれ』は、その奇跡が決して偶然ではなかったことを教えてくれる。
あなたのそばにいる人は、いま、咲ける場所にいるだろうか。
そして自分自身は、咲ける場所にいるだろうか。
『咲ける場所に置いてくれ』は、そのことを教えてくれる一冊だった。
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