

誰が、身体を動かしているのか?―島地保武さんと考えた「動きから立ち上がるいのち」
日本身体性学協会 第二回フォーラム@早稲田大学で、ダンサー・振付家の島地保武さんと、 「医療」×「身体表現」――動きから立ち上がるいのち―― というセッションを行った。 医師は身体を診察し、ダンサーは身体を動かす。 医療は身体の異常を見つけ、治療する。ダンスは身体によって何かを表現する。 しかし、実際に島地さんとご一緒してみると、両者は思っていた以上に深いところで、同じ問いに触れていることに気づいた。 それは、 「そもそも、身体は誰によって動かされているのか?」 という問いだった。 私たちは日常的に「身体を動かす」という言葉を使う。そこでは当然のように、「私」という主体が先にあって、その私が身体へ命令を出していると考えている。けれども、少し身体の内側へ入ってみると、その前提はすぐに揺らいでくる。 心臓は、誰に命令されて動いているのだろう。 私が意識するよりはるか以前から、身体は動いている。 身体には、私たちの意識よりも先に、「おのずずから動く力」がある。刺激に対して、身体は0.05-0.1秒で反応し、脳は遅れ0.2-0.5秒で反応している。つまり


草間彌生さんへ 一つの水玉は、宇宙へひらかれている
草間彌生さんが亡くなった。 けれども、不思議なことに、草間さんの死を「いなくなった」と感じることが、私にはどうしても難しい。 草間さんの作品を思い浮かべるからだろう。 一つの水玉がある。百、千、万・・・。点は増殖し、壁を越え、身体を越え、部屋を越え、やがてこちら側へまでやってくる。 鏡の中では、一つの像が二つになり、十になり、百になり、その向こうへ、さらに向こうへと続いていく。 草間彌生という人は、生涯をかけて「一人の人間は、どこまで一人なのか」という問いを描き続けた芸術家だったのではないか。 私はいま書いている『生命を見るための芸術』(特に出版社のあてはありません)という本で、草間彌生について一章を書いた。 その章につけた問いは、 「『私』は、どこまでが私なのか」 というものだった。 草間さんの作品には、水玉があり網目があり鏡がある。そこには無限がある。 そこでは「私」の輪郭が、増殖し、揺らぎ、溶けていく。 面白いことに、自己を消そうとすればするほど、そこには誰にも似ていない、圧倒的な「草間彌生」が立ち上がってくる。水玉を見れば、草間彌生だと分


地球の深部から届く水素に浸かる―白馬八方温泉「八方の湯」
美しい青木湖を訪れたあと、白馬八方温泉 八方の湯へ。 湯に身体を沈めて最初に感じるのは、驚くほど滑らかな肌触りである。いわゆる「美肌の湯」と呼ばれるアルカリ性温泉(PH11もある)のつるりとした感覚。 しかし、この湯の本当の面白さは、肌触りのさらに奥、地下深くで起きている地球化学反応にある。 掲示されている2019年の温泉分析書を見ると、源泉は「白馬八方温泉第1号、3号の混合泉」。泉温48.1℃、分析時pH 11.4。泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)である。 成分総計はわずか128.3 mg/kg。ナトリウム40.3 mg/kg、カルシウム16.6 mg/kg、水酸化物イオンOH⁻が39.0 mg/kgなどで、いわゆる「成分が濃厚な温泉」とはまったく違う。 むしろ、薄く、透明で、強くアルカリ性である。 そして、この湯には分析表の数字だけでは十分に表現できない、もう一つの主役がいる。 水素(H₂)である。 なぜ、白馬の地下から水素が生まれるのか? 白馬八方温泉が世界的にも興味深いのは、この水素の由来が地質学的に研究されていることだ


青木湖から考える〈環境医学としてのサウナ〉@Lakeside villa SUI HAKUBA
白馬にほど近い青木湖。その湖畔に佇む「Lakeside villa SUI HAKUBA」(扉グループ)に宿泊した。 私は、基本的にサウナがそれほど得意ではない。 それは熱さだけではなく、多くのサウナは小さな閉鎖空間で、視線の先には壁がある。身体には強い熱刺激が加わり、心拍数も上がる。そのうえ視線まで閉じ込められると、どこか重苦しさを感じていた。 ところが、SUIのサウナはまったく違った。 大きなガラス窓の向こうに、美しい青木湖が広がっている。 湖面が揺れ、光が反射し、その向こうに森と山がある。 身体は小さなサウナ室の中にいるのに、視線はずっと遠くまで自然の中へ抜けていく。 身体は熱の中にありながら、意識は風景の中へ出ていく。 この開放感が、驚くほど心地よかった。 医師として考えてみると、サウナを「熱」だけで考えすぎてきたのかもしれない。何℃なのか。何分入るのか。湿度はどれくらいか。心拍数や血圧はどう変化するのか。 もちろん、どれも大切だ。 けれども人間の身体は、温度センサーだけでできているわけではない。 光、音、匂い、風、空間の広がり。そして、


牛に引かれて、湯へ――布引観音温泉
長野県小諸、布引観音の麓にある「布引観音温泉」へ。 ここは私が大好きな温泉。いい感じに鄙びた湯治場の風情が残っていて、古い湯治場の時間が流れている。温泉ビギナーにはお薦めできないが、ディープな温泉を知りたい人にはとっておきの場所だ。 建物に入る前から、まず驚く。 外には温泉がこんこんと湧き、飲泉することができる(温泉水だけではなく、深層水までも!)。 温泉は「入る」ものだと思っていると、ここではその前提が少し崩れるだろう。 湯に浸かるだけではなく、湯を飲むことも、湯治の本質だ。それは、ミネラルを体内に取り込むこと。人体でのミネラルの必要性に関しては、また都度都度アナウンスしていきたい。 温泉という地球の体液を、身体の外側からだけではなく、内側からも受け取る。 昔の「湯治」とは、本来こういうものだった。 湯治は、単に温泉に入って病気を治すことではなく、しばらく土地に滞在し、その土地の水を飲み、その土地のものを食べ、眠り、歩き、何度も湯に入る。 つまり、身体を土地の時間に預け直すことだった。 布引観音温泉には、そうした昔ながらの湯治場の気配が、まだ濃


YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERY
YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERYへ。 改めて驚いた。 横尾忠則さんのポスターは、どの年代の作品を見ても、まったく古く見えない。そして、誰にも似ていない。 これは考えてみれば、ものすごいことだ。 ポスターとは、本来とても「時代」に近いメディアだと思う。その時代の演劇や映画や音楽があり、社会があり、流行の色彩や書体やデザインがある。 だから普通なら、数十年前のポスターを見れば、「これは60年代だ」「これは80年代だ」と、どこかに時代の刻印が見える。 ところが横尾忠則のポスターは違う。 もちろん制作された時代はある。しかし、その時代に閉じ込められていない。 1960年代の作品が、2020年代の作品より新しく見えることさえある。これは「時代を先取りしていた」ということとも少し違う。 先取りしているだけなら、いつか時代が追いついてしまう。横尾忠則は、そもそも時代と競争していないのではないか。時代の前でも後ろでもない。 時間軸そのものから、少し外れたところにいる。 そこに横尾作品の不思議な「無時間性」