牛に引かれて、湯へ――布引観音温泉
長野県小諸、布引観音の麓にある「布引観音温泉」へ。
ここは私が大好きな温泉。いい感じに鄙びた湯治場の風情が残っていて、古い湯治場の時間が流れている。温泉ビギナーにはお薦めできないが、ディープな温泉を知りたい人にはとっておきの場所だ。

建物に入る前から、まず驚く。
外には温泉がこんこんと湧き、飲泉することができる(温泉水だけではなく、深層水までも!)。

温泉は「入る」ものだと思っていると、ここではその前提が少し崩れるだろう。
湯に浸かるだけではなく、湯を飲むことも、湯治の本質だ。それは、ミネラルを体内に取り込むこと。人体でのミネラルの必要性に関しては、また都度都度アナウンスしていきたい。
温泉という地球の体液を、身体の外側からだけではなく、内側からも受け取る。
昔の「湯治」とは、本来こういうものだった。
湯治は、単に温泉に入って病気を治すことではなく、しばらく土地に滞在し、その土地の水を飲み、その土地のものを食べ、眠り、歩き、何度も湯に入る。
つまり、身体を土地の時間に預け直すことだった。
布引観音温泉には、そうした昔ながらの湯治場の気配が、まだ濃厚に残っている。
豪華でもなく、洗練されすぎてもいない。むしろ、その「ひなびた」佇まいが、時の証人のようだ。
柱や壁、浴槽、湯気の向こうに、これまでここへやってきた無数の人々の身体の記憶が染み込んでいるように感じる。
そして、この土地にはもう一つ、とても面白い物語がある。
近くの布引観音は、あの有名な「牛に引かれて善光寺参り」の伝説の舞台とされる場所なのである。

信心のなかった老婆が、牛に布を奪われ、それを追いかけているうちに、思いがけず善光寺へと導かれ、ついには信仰に目覚める――そんな物語として伝えられてきた。
「牛に引かれて善光寺参り」という言葉には、
『自分の意志とは別の何かに導かれ、思いもしなかった場所へたどり着く』
という意味が込められている。
私は、この話がとても好きだ。
人間はいつも、自分で考え、自分で選び、自分で目的地へ向かっていると思っている。
けれど人生には、ときどき、自分では選んでいないものに連れていかれることがある。
病気、旅、出会い・・・。
そのときには分からなくても、振り返ってみると、
「あれに連れていかれたから、ここへ来たのだ」と思えることがある。
布引という土地には、そんな「導かれる」という思想が、地下水のように流れているように思う。
牛に引かれて、善光寺へ。
そして今度は、
湯に引かれて、身体の奥へ。
温泉とは、自分で身体を「治す」場所というよりも、
自分の身体の中にもともと存在していた回復の方向へ、そっと導かれていく場所なのかもしれない。
布引観音温泉。
ここには、温泉に入るというより、
地球に身体を預けに来る
という言葉のほうが、よく似合う。
布引観音温泉で、何より私が好きなのは温冷浴だ。
温度の異なる三つの源泉浴槽があり、行き来できる。
温湯は温泉。湯口のある浴槽は約40℃、そこからお湯が流れ込む奥の浴槽は約37.4℃のぬるめ。
冷水は深層水。約23℃の井戸水は冷たすぎず入りやすい。
地球が生んだ奇跡の3種の水をどのように味わうのか。そこに想像力と創造力(Imagination and Creativity)が求められる。

温かい湯に身体を沈める。ほどけていく。
次に、温度の低い湯へ。一瞬、身体がきゅっと目を覚ます。36度の体温から23度の深層水へと温度が移動していく。一種の死の儀式だ。体温が奪われるが平衡状態となり、何とも言えず甘美な身体感覚だ。
そして、また温かい湯へ戻る。
「ああ……」思わず声が漏れる。
これが、本当に天国だ。
温かい。冷たい。温かい。冷たい。
それを繰り返していると、不思議なことに、「自分が温泉に入っている」という感覚が薄くなっていく。
むしろ、身体のほうが勝手に調整を始めているように感じられる。
ここが、温冷浴の面白いところだと思う。
医学的に見ても、温熱と冷刺激では身体の反応が異なる。
温熱では皮膚血流が増え、末梢血管が拡張する。一方、冷刺激では末梢血管が収縮し、循環系や自律神経系に異なる刺激が入る。
つまり、「温→冷→温→冷・・」とう反復は、身体にとって単なる温度変化ではない。
「拡張 → 収縮」
「弛緩 → 緊張」
「沈静 → 覚醒」
という異なる生理的刺激を交互に受けることになる。
実際、交代浴・温冷交代浴(Contrast Water Therapy)はスポーツ医学の領域でも研究されている。メタ解析では、運動後の温冷交代浴は、何もしない休息と比較して筋肉痛や筋力回復などの一部の指標を改善する可能性が示されている。一方で、研究の質や方法にはばらつきがあり、「あらゆる疲労や病気に効く」とまで言える段階ではない。
だからこそ面白い。
温冷浴を「健康にいいから」という一方向の話にしてしまうより、身体が温度の変化にどう応答するのかという生命現象そのものとして考えたほうが、ずっと豊かだからだ。
近年の研究では、冷水への曝露後に心拍変動(HRV)のRMSSDやHFなどが上昇し、副交感神経活動が高まる可能性も報告されている。
けれど、布引観音温泉の浴槽の中で私が感じていたものは、数値になる少し手前の感覚だった。
温かい湯に入ると、身体が「ほどける」。
冷たい湯に入ると、身体の輪郭が「戻ってくる」。
そして冬山のような死の予感を感じる。もちろん、安全な空間の中で。
また温かい湯へ行くと、その輪郭が再び世界へ溶けていく。その往復を繰り返していると、身体とは固定されたものではなく、環境との間で絶えず調整され続けているものなのだということが、理屈ではなく身体で分かってくる。
これは自律神経の働きともどこか似ている。
交感神経だけでも生きられないし、副交感神経だけでも生きられない。収縮だけでも、拡張だけでもない。
生命は、緊張と弛緩の「あいだ」を往復している。心臓も収縮し拡張する。呼吸も吸って吐く。脳は起きて眠る。
生命はいつも、二つの状態のどちらか一方に留まるのではなく、その間を行き来することで保たれている。
そう考えると、温冷浴とは、小さな浴槽の中で行われる「生命リズムのお稽古」なのかもしれない。
温かい湯にゆっくり浸かって、身体がほどけてきたところで、今度は冷たい水へ。思わず「ひゃっ」となるけれど、少しすると不思議と気持ちいい。そしてまた温かい湯へ戻る。
温冷交代浴は「温かい」と「冷たい」の往復を楽しむ入浴法だが、少し大事なこともある。身体にとってはダイナミックな環境変化となる(サウナよりは負荷は低いか)。特に急な冷刺激では血圧や心拍が変化し、循環器系への負荷になることもある。高齢の方や、血圧の不安定な方などは、無理をしないことが大切だ。
温冷浴は、強ければ強いほど効くものではない。「熱い!」「冷たい!」を我慢比べするのではなく、自分の身体が気持ちよく応答できる範囲を探していく。
温かい。冷たい。また温かい。その往復のなかで、身体が少しずつ自分のリズムを取り戻していく。
温冷交代浴の魅力は「身体を整える」ことよりも、「身体と対話する時間」を取り戻すことにあるのだろう。
布引観音温泉は温冷浴をしなくても、十分に楽しめる。子どもと入るときは、そんなのんびりした時間がないため、温泉だけで大満足している。一人で入るときは、ディープな養生時間だ。
布引観音温泉には、最新のウェルネス施設のような派手さはない。むしろ逆だ。昔ながらの湯治場の風情に、温度の異なる源泉が静かに並んでいる。
けれど、そこを行ったり来たりしていると、身体の奥で何かが目を覚ます。
「整える」でもない。「治す」でもない。
身体自身が、自分にちょうどいいところを探し始める。いい塩梅へ。
その感覚が、たまらなく気持ちいい。
身体がいつの間にか、自分自身へ戻っていく。
これぞ湯治だ。
そして何度繰り返しても、天国だった。
布引観音温泉
〒389-0402 長野県東御市布下498-1


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