誰が、身体を動かしているのか?―島地保武さんと考えた「動きから立ち上がるいのち」
日本身体性学協会 第二回フォーラム@早稲田大学で、ダンサー・振付家の島地保武さんと、
「医療」×「身体表現」――動きから立ち上がるいのち――
というセッションを行った。

医師は身体を診察し、ダンサーは身体を動かす。
医療は身体の異常を見つけ、治療する。ダンスは身体によって何かを表現する。
しかし、実際に島地さんとご一緒してみると、両者は思っていた以上に深いところで、同じ問いに触れていることに気づいた。
それは、
「そもそも、身体は誰によって動かされているのか?」
という問いだった。
私たちは日常的に「身体を動かす」という言葉を使う。そこでは当然のように、「私」という主体が先にあって、その私が身体へ命令を出していると考えている。けれども、少し身体の内側へ入ってみると、その前提はすぐに揺らいでくる。
心臓は、誰に命令されて動いているのだろう。
私が意識するよりはるか以前から、身体は動いている。
身体には、私たちの意識よりも先に、「おのずずから動く力」がある。刺激に対して、身体は0.05-0.1秒で反応し、脳は遅れ0.2-0.5秒で反応している。つまり、脳は身体の反応後に、合理化して「理由」を考えているらしい。
当日のプレゼンでは、ここから、
「私たちは身体を『持っている』のではなく、身体としてこの世界を生きている」
というところまで考えてみた。
これは似ているようで、ずいぶん違う身体観だと思う。
「私は身体を持っている」と言うとき、私と身体はどこか別々である。
けれど、「私は身体である」と考えるなら、世界の見え方そのものが変わる。
心臓が打つことも、呼吸することも、地面に足が触れることも、誰かの声に振り向くことも、すべて「私が世界を生きる」という出来事になる。
身体には「内側」がある
医学は、身体を外から見ることに非常に長けた学問である。
現代医学は、身体を客観的な情報へ変換することによって大きく発展してきた。
しかし、人間にはもう一つの身体がある。
内側から感じられている身体である。
心拍、呼吸、筋肉の緊張、温度、痛み、疲労、心地よさ。
こうした身体内部の状態を感じ取る働きを、interoception、内受容感覚と呼ぶ。当日のスライドでも、「感じること」は生きることの基礎であり、内側を感じる力が他者とのつながりにも関わる、という方向から紹介した。
そして、ここでダンサーの身体知と医学が出会う。
ダンサーは身体を外から操作しているだけではない。
むしろ、「いま重心はどこにあるのか」「呼吸がどこへ入っているのか」「どの骨から動きが始まろうとしているのか」「身体がどちらへ行きたがっているのか」
という、言葉になる以前の微細な変化を聴き取っているのではないだろうか。
S字の身体
私のプレゼンを受けて、島地さんが身体を使ったワークショップを行った。
これが実に面白かった。
島地さんの身体への入り方は、医学的な身体の説明とはまったく違っていた。
たとえば、身体の中にある複数のS字カーブを感じて動いてみる。
身体を一本の直線的な軸として考えるのではない。
脊柱にも曲線があり、腕や脚にも曲線があり、それぞれのカーブが別のカーブへつながっていく。
一つのS字が動けば、別のS字が応答する。
すると「右手を上げる」という単純な動作でさえ、右手だけの運動ではなくなってくる。
骨盤が動き、脊柱がねじれ、肩甲骨が滑り、腕がついてくる。
つまり、
身体は部分を一つずつ操作することで動いているのではない。
全体の関係が変化することで、結果として一つの動きが現れる。
ここに、医学とは違う身体理解がある。
骨をどこから動かすのか
もう一つ印象的だったのは、骨のどこを支点にするかによって動きが変わるという島地さんの導入だった。
同じ骨格を持っていても、どこを起点に動くかによって身体の軌跡はまったく違ってくる。
これは、私がプレゼンの後半で仙骨と肩甲骨について話したこととも、不思議につながっていた。
仙骨は、上半身と下半身をつなぐ位置にある。当日の資料でも「腰は『かなめ(要)』」と表現した。
一方、肩甲骨は体幹に固定された骨ではなく、胸郭の上を滑りながら、挙上、下制、内転、外転、上方回旋、下方回旋と多方向へ動く。
仙骨と肩甲骨は離れているけれども、身体の中では無関係ではない。
脊柱があり、胸郭があり、筋肉があり、筋膜があり、呼吸があり、重力がある。
一方が動けば、全体の関係が変わる。
そこで見えてくるのは、
身体は「部品の集合」ではなく、「関係のネットワーク」ということだ。
空間に「海」という字を書く
島地さんのワークの中で、とりわけ美しいと思ったものがあった。
空間の中に、大きな漢字を想像する。
たとえば、「海」という字。
目の前に巨大な「海」という文字が浮かんでいると想像する。その線に沿って身体を動かしてみる。あるいは線と線の間に身体を入れる。文字の上を通り、下をくぐり、横へ抜ける。
それだけで、身体の動きがダンスになっていく。
これは非常に示唆的だった。
普通は、身体が空間の中を動くと考える。
けれど、このワークでは逆になる。
想像された空間の構造が、身体の動きを誘い出している。
つまり、身体が空間を動くと同時に、空間が身体を動かしている。
「踊ろう」と思って身体を操作しなくても、身体と環境の関係を少し変えるだけで、そこから動きが立ち上がる。
ダンスとは「決められた美しい動作をすること」ではなく、身体と世界との関係を変化させ続けることなのかもしれない。
一人の身体の中にも「あいだ」がある
ここから私は、「あいだ」ということを考えた。
肩甲骨と仙骨。骨と筋肉。呼吸と姿勢。身体の内側と外側。
一人の身体の中にも、無数の「あいだ」が存在する。
だから、一人の身体では、部分と部分の「あいだ」から動きが生まれる。
そして二人になれば、身体と身体の「あいだ」から動きが生まれる。
三人、四人、十人となれば、関係はさらに複雑になる。
AとBだけではない。
AとC、BとD、CとD……。
相互作用が網目状に広がり、誰が最初に動いたのか分からなくなる。
関係と関係の「あいだ」から〈場〉が生まれる。という話へ進んだ。
実際、当日の最後のスライドでは、
部分 → 身体 → 関係 → 場 → 生命
という流れを置いた。
重要なのは、その先である。
身体が場をつくるだけではない。
一度生まれた場は、今度は一人ひとりの身体へ作用する。
祭りで皆の身体が同じリズムへ入っていく瞬間。病室で誰かがゆっくり話し始めたことで、その場全体の呼吸が少し穏やかになる瞬間。
身体が場をつくり、場が身体を動かす。
主体と客体は、ここでは簡単には分けられない。
昏睡状態でも、身体は対話している
そして最後に、ダンスからケアの話へ移った。
そこで私は、アーノルド・ミンデルのコーマワークについて触れた。
昏睡状態にある人を前にすると、私たちはしばしば、「意思疎通ができない」と判断する。
もちろん通常の言語的なコミュニケーションは難しい。
しかし、言葉がないことと、コミュニケーションがないことは同じではない。
身体は呼吸している。そこから始める。
まず、相手の呼吸を見る。こちらの呼吸を少しずつ合わせてみる。
そして、指先のほんの小さな動き、瞼の変化、口元、筋緊張、呼吸の深さやリズムなど、通常なら見過ごしてしまうような微細な身体変化に注意を向ける。
そして、その微細な動きを受け取った側が、言葉にしてみる。「少し手を伸ばしたいように見えます」もちろん、相手の内面を勝手に決めつけるのではない。
こちらが受け取ったものを仮説として差し出す。
すると、その言葉やこちらの身体の変化に応答するように、相手の呼吸や筋緊張、微細な動きが変化することがある。こちらがそれをまた受け取る。そして応答する。
すると、身体 → 身体 → 言葉 → 身体 → 身体……という循環が生まれる。
そこには、通常の会話とは違うかもしれないが、一つの「対話」が成立している。
ケアは、ダンスではないか
この話をしながら、私は改めて思った。
これはダンスとよく似ている。
二人で踊るとき、相手を一方的に操作しているわけではない。
こちらが動けば相手が変わる。
相手が変わればこちらも変わる。
呼吸、重心、距離、速度、視線、タイミング。
相手の微細な変化を感じ取りながら、自分の身体を変化させ続ける。
やがて、どちらが最初に動いたのか分からなくなる。
ケアも同じなのではないだろうか。
だから当日のスライドには、
「ケアは、ダンスではないか。」
という問いを置いた。
そして、
「ケアとは、一方が行うものではなく、二人のあいだで生まれる、いのちのダンスである」
と書いた。
医療者は、ともすると「患者さんに何をするか」を考える。
治療する。動かす。食べさせる。立たせる。歩かせる。
けれど、ケアのもっと深い場所では、相手を動かすのではなく、相手から動きが生まれる条件をつくることが重要なのだと思う。
呼吸を合わせる。見る。待つ。触れる。声をかける。ほんの小さな変化を受け取る。それにこちらの身体で応答する。
つまりケアとは、相手の身体からまだ名前のない動きが立ち上がってくるために、自分の身体を差し出すことなのかもしれない。
「治す」から「治る」へ
この視点に立つと、医療のあり方も少し変わって見える。
医療は長く、治療者 → 患者という矢印を基本としてきた。
医師が診断し、治療を行い、患者がそれを受ける。
もちろん、その構造が必要な場面はたくさんある。
しかし回復という現象は、もっと複雑だ。医療者だけが「治す」のでもない。患者だけが「治る」のでもない。患者、医療者、家族、場所、光、音、自然、食事、睡眠、社会とのつながり。そうした無数の関係の中から、「治る」という出来事が立ち上がる。
だから私は以前から、「治す場」ではなく「治る場」ということを考えてきた。
今回、島地さんのダンスを見ながら、それが身体表現の側からもう一度理解できたような気がした。
振付家がダンサーを一方的に「動かす」のではなく、動きが生まれる条件をつくる。
医療者も患者を一方的に「治す」のではなく、回復が立ち上がる条件を整える。
ここには、ダンスと医療をつなぐ、とても深い共通点がある。
生命は、名詞ではなく動詞
今回のセッションの最初に、
「誰が、身体を動かしているのか?」
と問いを立てた。
私が身体を動かしている。それも正しい。身体が自ずから動いている。それも正しい。
他者によって動かされ、環境によって動かされ、場によって動かされている。
そして同時に、私の身体もまた、他者や環境や場を変えている。
だから、おそらく身体とは、動かすものでも、動かされるものでもなく、世界との関係の中で、絶えず動きが生まれ続けている場所なのだと思う。
私たちは生命を、身体の中に「あるもの」のように考えている。けれど、本当に生命は、どこか一か所に存在する「もの」なのだろうか。
生命を生命たらしめているものは、静止した物質ではなく、むしろ絶え間ない動きとの関係なのではないか。
そう考えると、生命とは名詞ではなく、動詞だ。
「いのち」という何かがあって、それが動いているのではない。
動き続けていること、そのものが「いのち」なのではないか。
部分から身体へ、身体から関係へ、関係から場へ
今回のセッションを振り返ると、一つの流れが見えてくる。
最初は、一人の身体の話だった。身体の中には無数の部分がある。けれど、一つの骨だけで動きは生まれない。
肩甲骨が動けば胸郭との関係が変わり、脊柱が変わり、骨盤との関係も変化する。
だから、一人の身体では、部分と部分の「あいだ」から動きが生まれる。
次に二人になる。二人のダンサーが向かい合う。一人が少し動く。もう一人がそれを受け取る。その応答を最初の人がまた受け取る。そうして動きが循環していくと、やがて、「どちらが最初に動いたのか」という問い自体が意味を失っていく。
そこにはAの動きでもBの動きでもない、二人の「あいだ」から生まれた第三の動きがある。
そして人数が増えれば、さらに面白いことが起きる。AとBだけではない。AとC、BとC、CとD……。関係が網目状に広がっていく。すると、誰か一人が全体を動かしているわけではないのに、集団全体に一つのリズムが生まれる。
関係と関係の「あいだ」から、〈場〉が生まれる。
当日のプレゼンの最後では、
部分 → 身体 → 関係 → 場 → 生命
と整理した。
ここで大切なのは、矢印が一方向ではないということだ。
身体が場をつくる。しかし同時に、場もまた身体を動かしている。
当日の最後に置いた「身体が場をつくり、場が身体を動かす」という言葉は、今回のセッションを通して、私自身がいちばん実感したことだったのかもしれない。
ダンスとは、決められた動きを上手に行うことだけではなく、身体と世界との関係から、まだ存在していなかった動きを発見することなのだとも思った。
昏睡状態にある人の動きであっても、そこにまだ名前のついていない動きがある。能動的に、相手の身体へ注意を向け続けること。ケアする側も、相手の身体から次の動きが生まれてくるための余白を守る。そこに、ダンサーの身体知から医療が学べる大切なことがある。
回復は、関係の中から起きることがある。
生命には、医療者が直接つくることのできない動きがある
生きることそのものが、すでに世界とのダンスなのだと思う。
島地さん、ありがとうございました!

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