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YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERY

9月1日
読了時間: 4分

YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERYへ。



改めて驚いた。

横尾忠則さんのポスターは、どの年代の作品を見ても、まったく古く見えない。そして、誰にも似ていない。

これは考えてみれば、ものすごいことだ。



ポスターとは、本来とても「時代」に近いメディアだと思う。その時代の演劇や映画や音楽があり、社会があり、流行の色彩や書体やデザインがある。

だから普通なら、数十年前のポスターを見れば、「これは60年代だ」「これは80年代だ」と、どこかに時代の刻印が見える。

ところが横尾忠則のポスターは違う。

もちろん制作された時代はある。しかし、その時代に閉じ込められていない。


1960年代の作品が、2020年代の作品より新しく見えることさえある。これは「時代を先取りしていた」ということとも少し違う。


先取りしているだけなら、いつか時代が追いついてしまう。横尾忠則は、そもそも時代と競争していないのではないか。時代の前でも後ろでもない。

時間軸そのものから、少し外れたところにいる。

そこに横尾作品の不思議な「無時間性」がある。




横尾忠則のポスターには、いくつもの時間が同時に存在している。


江戸があり、昭和があり、アメリカがあり、インドがある。仏教、浮世絵、写真、漫画、映画、広告、サイケデリックな色彩。



本来なら別々の時代や場所に属するものが、一枚の平面の上で平然と同居している。しかも、破綻しない。

横尾さんは、異質なものを「同じもの」にして調和させるのではない。「違うものを、違うまま置く。」あらゆるものを排除せずに。

それなのに全体を見ると、一つの宇宙になっている。

だから、一つの時代の美意識に回収されないのだろう。





そして、もう一つ驚くのが、その圧倒的な独自性だ。

横尾さんほど世界中のイメージを貪欲に取り込んできた人も珍しいと思う。

普通なら、多くのものを引用すればするほど、引用元が透けて見える。

しかし横尾作品では逆なのだ。


多くのものを取り込めば取り込むほど、横尾忠則にしかならない。日本も、アメリカも、インドも、仏教も、大衆文化も、エロスも、死も、宇宙も。全部入っているのに、どれでもない。

すべてが「横尾忠則」になっている。


独自性とは、誰からも影響を受けないことではないのだと思う。

世界中から無数のものを受け取り、それらが自分という場所を通過したとき、まったく別のものへ変容してしまうこと。



今回、年代の異なるポスターを同じ空間で見ることで、そのことがよく分かった。

作風は変わっている。構成も技法も違う。

それなのに、すべて横尾忠則である。




おそらく横尾忠則の独自性は「様式」にはない。

世界との関係の結び方そのものが、横尾忠則なのだ。

聖と俗を分けず、生と死を分けず、過去と未来さえ分けない。


異質なものを排除せず、一枚の画面へ招き入れる。

すると、そこにそれまで存在しなかった世界が生まれる。



先日読んだ『原郷の森』も、そうだった。



三島由紀夫も、ピカソも、デュシャンも、北斎も、ダ・ヴィンチも、異なる時代の死者たちが同じ森を歩いている。

過去→現在→未来という直線的な時間ではなく、無数の時間が折り重なって存在する。



横尾さんは、それをずっと以前からポスターの中でも行っていたのかもしれない。

一枚の紙の上に、異なる時間を同時に存在させる。

だから横尾忠則の作品は、いつの時代にも属しながら、どの時代にも属さない。

無時間なのだ。


時代を超える作品とは、未来を予言した作品ではないのかもしれない。

そもそも時間という枠に収まらない作品なのだ。


横尾忠則は、時代の先を走っているのではない。

時代の外側を歩いている。

だから、誰にも似ていない。そして、いつまで経っても古くならない。



今回の展示で、その途方もない独自性と「無時間性」を、改めて目の前に突きつけられた。



『自利利他円満』というタイトルも、横尾忠則の芸術そのもののようで素晴らしい。


自利と利他。自分のためと、他者のため。一見すると反対方向に見えるものが、どちらかを消すことなく「円満」する。異質なものを同じものにして調和させるのではなく、違うものが、違うままで一つになる。


多様性を消さずに生まれる調和。その思想が、この四文字に凝縮されているように思う。

自分も『自利利他円満』に生きていきたい。




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