YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERY
YOKOO’ POSTERS『自利利他円満』@ビームス ジャパン(新宿)B GALLERYへ。

改めて驚いた。
横尾忠則さんのポスターは、どの年代の作品を見ても、まったく古く見えない。そして、誰にも似ていない。
これは考えてみれば、ものすごいことだ。
ポスターとは、本来とても「時代」に近いメディアだと思う。その時代の演劇や映画や音楽があり、社会があり、流行の色彩や書体やデザインがある。
だから普通なら、数十年前のポスターを見れば、「これは60年代だ」「これは80年代だ」と、どこかに時代の刻印が見える。
ところが横尾忠則のポスターは違う。
もちろん制作された時代はある。しかし、その時代に閉じ込められていない。
1960年代の作品が、2020年代の作品より新しく見えることさえある。これは「時代を先取りしていた」ということとも少し違う。
先取りしているだけなら、いつか時代が追いついてしまう。横尾忠則は、そもそも時代と競争していないのではないか。時代の前でも後ろでもない。
時間軸そのものから、少し外れたところにいる。
そこに横尾作品の不思議な「無時間性」がある。


横尾忠則のポスターには、いくつもの時間が同時に存在している。
江戸があり、昭和があり、アメリカがあり、インドがある。仏教、浮世絵、写真、漫画、映画、広告、サイケデリックな色彩。
本来なら別々の時代や場所に属するものが、一枚の平面の上で平然と同居している。しかも、破綻しない。
横尾さんは、異質なものを「同じもの」にして調和させるのではない。「違うものを、違うまま置く。」あらゆるものを排除せずに。
それなのに全体を見ると、一つの宇宙になっている。
だから、一つの時代の美意識に回収されないのだろう。
そして、もう一つ驚くのが、その圧倒的な独自性だ。
横尾さんほど世界中のイメージを貪欲に取り込んできた人も珍しいと思う。
普通なら、多くのものを引用すればするほど、引用元が透けて見える。
しかし横尾作品では逆なのだ。
多くのものを取り込めば取り込むほど、横尾忠則にしかならない。日本も、アメリカも、インドも、仏教も、大衆文化も、エロスも、死も、宇宙も。全部入っているのに、どれでもない。
すべてが「横尾忠則」になっている。
独自性とは、誰からも影響を受けないことではないのだと思う。
世界中から無数のものを受け取り、それらが自分という場所を通過したとき、まったく別のものへ変容してしまうこと。
今回、年代の異なるポスターを同じ空間で見ることで、そのことがよく分かった。
作風は変わっている。構成も技法も違う。
それなのに、すべて横尾忠則である。


おそらく横尾忠則の独自性は「様式」にはない。
世界との関係の結び方そのものが、横尾忠則なのだ。
聖と俗を分けず、生と死を分けず、過去と未来さえ分けない。
異質なものを排除せず、一枚の画面へ招き入れる。
すると、そこにそれまで存在しなかった世界が生まれる。
先日読んだ『原郷の森』も、そうだった。

三島由紀夫も、ピカソも、デュシャンも、北斎も、ダ・ヴィンチも、異なる時代の死者たちが同じ森を歩いている。
過去→現在→未来という直線的な時間ではなく、無数の時間が折り重なって存在する。
横尾さんは、それをずっと以前からポスターの中でも行っていたのかもしれない。
一枚の紙の上に、異なる時間を同時に存在させる。
だから横尾忠則の作品は、いつの時代にも属しながら、どの時代にも属さない。
無時間なのだ。
時代を超える作品とは、未来を予言した作品ではないのかもしれない。
そもそも時間という枠に収まらない作品なのだ。
横尾忠則は、時代の先を走っているのではない。
時代の外側を歩いている。
だから、誰にも似ていない。そして、いつまで経っても古くならない。
今回の展示で、その途方もない独自性と「無時間性」を、改めて目の前に突きつけられた。
『自利利他円満』というタイトルも、横尾忠則の芸術そのもののようで素晴らしい。
自利と利他。自分のためと、他者のため。一見すると反対方向に見えるものが、どちらかを消すことなく「円満」する。異質なものを同じものにして調和させるのではなく、違うものが、違うままで一つになる。
多様性を消さずに生まれる調和。その思想が、この四文字に凝縮されているように思う。
自分も『自利利他円満』に生きていきたい。


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