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地球の深部から届く水素に浸かる―白馬八方温泉「八方の湯」

9月5日
読了時間: 5分

美しい青木湖を訪れたあと、白馬八方温泉 八方の湯へ。





湯に身体を沈めて最初に感じるのは、驚くほど滑らかな肌触りである。いわゆる「美肌の湯」と呼ばれるアルカリ性温泉(PH11もある)のつるりとした感覚。

しかし、この湯の本当の面白さは、肌触りのさらに奥、地下深くで起きている地球化学反応にある。



掲示されている2019年の温泉分析書を見ると、源泉は「白馬八方温泉第1号、3号の混合泉」。泉温48.1℃、分析時pH 11.4。泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)である。

成分総計はわずか128.3 mg/kg。ナトリウム40.3 mg/kg、カルシウム16.6 mg/kg、水酸化物イオンOH⁻が39.0 mg/kgなどで、いわゆる「成分が濃厚な温泉」とはまったく違う。

むしろ、薄く、透明で、強くアルカリ性である



そして、この湯には分析表の数字だけでは十分に表現できない、もう一つの主役がいる。

水素(H₂)である。



なぜ、白馬の地下から水素が生まれるのか?


白馬八方温泉が世界的にも興味深いのは、この水素の由来が地質学的に研究されていることだ。


2014年、『Earth and Planetary Science Letters』に発表された研究では、白馬八方温泉の二つの掘削井から採取した水はpH 10を超える強アルカリ性で、水素濃度201〜664 μmol/L、さらにメタン124〜201 μmol/Lを含んでいた。これはかなり興味深い数字である。


Suda K, Ueno Y, Yoshizaki M, Nakamura H, Kurokawa K, Nishiyama E, Yoshino K, Hongoh Y, Kawachi K, Omori S, Yamada K, Yoshida N, Maruyama S. Origin of methane in serpentinite-hosted hydrothermal systems: The CH4–H2–H2O hydrogen isotope systematics of the Hakuba Happo hot spring. Earth Planet Sci Lett. 2014;386:112–125.



研究者たちが注目したのが、白馬岳周辺に存在する蛇紋岩(serpentinite)だった。

地下深部のかんらん岩などが水と反応して蛇紋岩へ変化する「蛇紋岩化作用(serpentinization)」では、岩石中の鉄が酸化される過程などを介して、水が還元され、分子状水素H₂が生成されうる。


つまり、この水素は人間が装置を使って添加したものではない。

岩と水が出会うことで、地球自身がつくった水素!なのである。


研究では八方温泉の水素について、50〜60℃程度で進行する蛇紋岩化反応によって生成された可能性が示されている。さらに、この特殊な熱水系では非生物的なメタン生成も研究され、生命誕生以前の地球で有機物がどのように生まれたのかを考えるモデルとしてまで注目された。



温泉に入りに来たはずなのに、話はいつの間にか生命の起源にまで遡ってしまう。

そこが八方温泉の途方もない面白さだと思う。



では、「水素」は身体に何をするのだろう?

医学の世界でも、分子状水素H₂は20年ほど前から研究が急速に広がっている。


現在研究されているのは、水素吸入、水素水、点滴などさまざまな投与経路で、酸化ストレス、炎症、ミトコンドリア機能、細胞内シグナルなどへの作用が検討されている。

2023年の臨床研究レビューでは、81件の臨床試験と64報のヒト研究が検討され、循環器、神経、呼吸器、炎症性疾患など幅広い領域で研究が行われていることが整理されている。


Johnsen HM, Hiorth M, Klaveness J. Molecular hydrogen therapy—A review on clinical studies and outcomes. Molecules. 2023;28(23):7785.



ただし、ここは慎重に考える必要がある。

「水素に生物学的作用の可能性がある」ことと、「水素を含む温泉に入れば病気が治る」ことは同じではない。


まして八方温泉への入浴によって、水素がどの程度皮膚から取り込まれるのか、血中濃度がどれほど変化するのか、それが臨床的な健康効果につながるのかについては、現時点で十分なエビデンスが確立しているとは言えない。


温泉医学としては、ここを混同しないことが大切だと思う。


一方で、だからこそ八方温泉は面白い。



私は温泉を考えるとき、一つの成分だけを取り出して「○○に効く」と単純に説明することに、少し違和感がある。


なぜなら、温泉とは本来もっと複雑な環境だからだ。

温熱によって末梢血管が拡張する。浮力によって関節や筋肉への荷重が軽くなる。水圧が循環動態に作用する。山を眺め、風を感じ、湯気を吸い込み、日常とは異なる時間の流れに身体を置く。

そこへ泉質という化学的環境が重なる。


そして八方温泉では、そのさらに地下に、

蛇紋岩―水―水素―メタン

という地球化学的な連鎖が存在している。


ウェルビーイングとは、ある一つの物質によって「与えられる」ものではなく、身体と心と環境との関係が、少しずつ組み替えられていくこと。


交感神経優位だった身体が緩み、呼吸が深くなり、遠くの山へ視線が抜け、皮膚から温度を感じ、「ここにいる」という身体感覚を取り戻していく。

そうした身体―環境系全体の変化として温泉を考えるなら、水素もまた「万能の治療物質」としてではなく、八方という土地を構成している一つの重要な環境因子として見えてくる。


八方の湯で何より心を動かされたのは、水素の医学的効能そのものよりも、

いま身体を浸している水の地下で、岩石と水が反応し、水素が生まれているという事実だった。



私たちの身体を構成する元素も、もとをたどれば地球から来たものだ。水も、鉄も、カルシウムも、ナトリウムも。

そして生命誕生以前から地球内部で繰り返されてきた「岩と水の化学反応」が、いまも白馬の地下で続いている。

そう考えると、温泉に入るという行為は少し違って見えてくる。


自分の身体を、いったん地球の循環の中へ戻す。

八方の湯には、そんな感覚がある。



水素療法の医学的評価については、これからさらに質の高い臨床研究が必要だろう。しかし、八方温泉の価値は、それだけではない。

何千万年、何億年という地質学的時間と、数十年という人間の生命時間とが、一つの浴槽の中で交差する。

岩と水が出会い、水素を生み、生命以前の地球を想像させる水である。

以前から私は、温泉を「地球がつくった病院(Made in Earth)」と表現してきた。


けれど白馬八方温泉に入っていると、もう少し時間軸を長くしてもいいのかもしれないと思った。

温泉とは、地球が生命に手渡し続けている奇跡の水だ。


そして八方の湯は、そのことを身体で思い出させてくれる、稀有な温泉なのである。


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