舞台「そよ風と魔女たちとマクベスと」まつもと市民芸術館

舞台「そよ風と魔女たちとマクベスと」。

まつもと市民芸術館へと見に行きました。



そもそも。

新型コロナ流行以降、初の観劇。それだけで嬉しかった。

直近最後の観劇は、2020年2月27日、池袋の芸術劇場での「ねじまき鳥クロニクル」(原作:村上春樹)。観劇後から公演は全面中止となってしまい伝説の舞台になってしまった。あまりにも世界最高の舞台だっただけに、本当に悔しく悲しくて。「ねじまき鳥」舞台化は、企画実現前から友人のプロデューサーと色々な議論を重ね慎重に舞台化させていくことに関わったもので、、。作品クレジットに名前もいれていただき、本当に思い出深い作品でもありました。

→●ねじまき鳥クロニクル@東京芸術劇場(February 27, 2020)


軽井沢に引っ越し、大きく外に出たのはほぼ始めて。

軽井沢から松本へは、三才山トンネルを通って行く。

山を越えていく長い旅。


山深い鹿教湯温泉の脇を通りながら、昔の人はどんな気持ちで街道を越え、峠を越えて行ったのかなぁ、など、色々なことを思い出すのに山道は何か掻き立てるものがある。「ねじまき鳥」の舞台含め、いろんなことを思い出しながら・・・。自分の中では、「ねじまき鳥クロニクル」(演出・振付・美術:インバル・ピント)と「そよ風と魔女たちとマクベスと」が、舞台体験としてはつながっているわけで。










さて。本題。


芸術監督であり出演俳優でもある串田和美さんによる書き下ろし最新作の「そよ風と魔女たちとマクベスと」。

見ている時も、見た後も。

とんでもなく、感動した・・・。


ああ、自分はやはり舞台芸術が好きなんだ、と。

言葉にならない感覚が体を貫いた。











シェークスピアの「マクベス」が下敷きになっている。


権力欲に突き動かされた男の殺人。男は王となる。

嘘の上には嘘を重ねるプロセスは、奈落に落ちると深い穴へと落ち込んで出られなくなる。闇の重力のような吸引力。


わたしたちの世界は、外の世界も内部の心的世界も、善なる世界と悪なる世界とが薄皮一枚で同居していて、せめぎあっているのかもしれない。


悪魔の誘惑?(としか表現できない抗しがたい力)は、ある閾値を超えて足を踏み入れると、一人の力では脱出困難となる。周囲の人間では無理なレベルに行くと、宗教的な次元での転換が起きないと、闇の袋小路の中で、人生は巡り続けてしまう。

病も、病と闘う「闘病」なのではなく、内なる「病魔」と闘っている場合があるように、わたしたちは内なる「魔」とどう付き合っていくかが常に試される。その存在を擬人化すると、「小人」や「悪魔(魔女)」と感じられることもある。内的なイメージ体験は、理屈を超えている。


わたしたちは、内なる「イメージ」の影響から逃れることは難しい。美しいイメージでも、魔的なイメージでも、わたしたちの内的世界には分かちがたく存在していて(DNAの網の目で太古からつながる歴史的イメージの束かもしれない)、イメージには良きも悪きも、過去の人々が犯した強い念や体験が、場の中にエネルギー体として残留しているのかもしれない。風や水に流されない時には。



人が魔的な世界にとらえられたとき、救いはあるのか?

実際の救いの道は容易には解けない。

その時に乗り超えていくしかない。


ただ、わたしたちは「演劇空間」という安全な場の中で、感情を動かされ、感情の色んなレイヤーを攪拌されることで、疑似体験をして、いつかくる未来を乗り越える練習をしているのだとも思う。


それは、ワクチンのように心に免疫をつけるような儀式的な行為で、本当に突然わが身に災難や苦難が降りかかり襲ってきたとき、自分の魂に沿った正しい選択ができるのか?ということ。瞬間反射の身心所作を正しく身につけるためにも、僕らは劇場の中で苦しく辛い体験をする必要があるのではないか、とも思う。それが、心が演劇の中で「悲劇」を求める意味なのかもしれない。



いま、ネットでも色んな実際の現場でも、文句や批判など他者を損なう言葉が幅を利かせている。おそらく、そうしたことは演劇空間の体験により、多くの心は昇華されてしかるべきだった亡霊のような言葉かもしれない。

実際に、生身の人を言葉で傷つける必要はない。演劇や芝居を見ることで、わたしたちの魔的な感情や攻撃性は昇華されていた。

別の言い方をすると、不要不急というスローガンの中で、いま、わたしたちが演劇空間を見る体験を喪失し、わたしたちの中にある否定的なエネルギーは化学反応する場を失っている。リアルな有名人や芸能人や公人へと、石を投げかけ唾を吐きかけるような形で噴出しているようにも思える。ただ、言葉は自信を切り裂くし、天に吐いた唾は自分に落ちて来るのだ。



そうした社会の不穏な状況も、文化や芸術が、いかにわたしたちの心の奥底を見えないところで支えていたか、ということを示しているような気さえする。



・・・・・・・・・



「そよ風と魔女たちとマクベスと」を見ている時も、見終わった後も、そうした思いが嵐のように吹き荒れてきた。

風は、はじめ「そよ風」としてはじまるが、あらゆる条件が整うと、いつのまにか「暴風雨」となって人を巻き込んで過ぎ去ってゆく。

それは演劇体験も同じだな、と思った。


舞台から放たれる「そよ風」は、わたしたちの心の中に複雑な組成の中で少しずつ巨大な風へと発展していく。風力が、混濁していた感情や心が一度分離して解き放ってゆく。それは必ずしも悪いことばかりではない。自分自信の感情と、他者との感情とが腑分けされ分離されることで、自分という全体が再統合されていくプロセスにもなるのだから。


マクベスが、妻の魔なる感情と一体となってしまい、自信の行動に責任がとれなくなってしまったように。

マクベスの妻も、負の感情をうまく自分の人生の中にくみいれることができず、そのことで夫マクベスという器を必要としたのだろう。それはお互いにとっても、自分自身の全体性を取り戻すための相互で一体の関係性として・・・。







串田さんの舞台は、必ずしもシリアス一辺倒にならず、ダンスとユーモアが的確に配分されていてすごかった。

そして、シェイクスピアの作品の本質を深く受け取り、自分の器で反応を起こし、換骨奪胎しながら、コロナ禍も含めた現代への警鐘という一陣の風のように吹き荒れる作品だった。


コロナ禍でのわたしたちの対応も、自然の驚異に対抗するための人工的な対応を緻密に積み上げていく。そよ風がいつのまにか全員を巻き込む巨大な風となり、自然の驚異以上に、人工的に作り出したシステムの脅威に、その暴風雨に対抗できなくなっているかのように。




シェイクスピアの台詞は本当にうつくしく、詩的なリズムとイメージ言語は、自分の奥深くの地層に染み込んできたのでした。



コロナ禍の中で、演劇を見る機会が減ってしまった。

だからこそ、こうしてやっと半年ぶりに見に行くことができた演劇は、飽食のときに気づかなかった、登山中に飲んだ水一滴のおいしさのように、自分を深く潤してくれました。


松本公演は終わりましたが、茅野公演は10/17+10/18(日曜は完売)で残っています。茅野に行きやすい方は、ぜひ見に行ってください。

映像やネットでは体験できないものが、舞台芸術には確実にあります。









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