読むことは、生きること 米原万里『打ちのめされるようなすごい本』
ロシア文学への興味が深まり、その言葉や文化に通じた米原万里(1950-2006)の書評を読んでみたくなった。

ゴルバチョフやエリツィンからも厚い信頼を寄せられたロシア語通訳者である。言葉を通して人と人、文化と文化をつないできた彼女は、どのように本を読むのだろう。その関心から手に取った一冊だった。
まず、題名がいい。『打ちのめされるようなすごい本』。整えられた批評の言葉になる前の、思わず口からこぼれたような、生の言葉だ。本に出会い、心身を揺さぶられた驚きがそのまま伝わってくる。「すごい」という日常の言葉が、これほど強く響く題名も珍しい。
本書には、多彩な書評とともにがんとの格闘を綴った読書日記が収められている。読み進めて驚いたのは、読むことと生きることが、分かちがたく一体となっていることだった。
文学や歴史、言語をめぐる文章のなかに、時折、がんの治療法や医療情報が差し込まれる。そのたびに、読書の世界を自在に行き来していた言葉が、著者自身の身体へと引き戻される。いま何を信じ、どの治療を選ぶのか。情報を読むという行為に、自分の命がかかっている。その切迫感が胸に迫った。
医師として読むと、医学的な情報を知ることとその情報に自分の命を託すこととの距離も感じられる。限られた時間のなかで迷いながら選ばなければならない。治療について読む言葉の一つひとつに、まだ生きたいという願いがにじんでいる。
それでも、米原万里の好奇心とユーモアは尽きない。鋭い批評に思わず笑い、知らなかった本の紹介に心が動く。書評を一つ読むたびに、読みたい本が増えていく。彼女が本から受け取った驚きが、こちらの読書欲へと移ってくる。
本好きは、書評を読むのも好きなのだと思う。すぐれた書評には、それ自体を読む喜びがある。まだ読んでいない本の世界に触れ、もうその本を読んだような気にもなる。それも書評の愉快な効用だろう。一人では到底読みきれない本を、誰かの読み方を通して味わう。自分とは違う目で読む人に出会うことで、読書の世界はさらに広がっていく。
一方で、読みたい本は増えるのに読むための時間には限りがある。そのことが、この本では痛いほど伝わってくる。だからこそ、まだ知らない世界に触れたいという願いが生きる力そのものに思えてくる。
巻末で井上ひさしが、書評は手間がかかるわりに報酬が少なく、割に合わない仕事だという趣旨のことを書いていたのも面白かった。一冊を読み、その魅力や問題を考え、限られた言葉で誰かに伝える。その短い文章の背後には、見えない時間が積み重なっている。
それでも、本を読んで心が動くと、誰かに伝えたくなる。
私もこうして、書評集の書評を書いている。米原万里の読む喜びに誘われ、いつのまにか、書くところまで連れてこられてしまった。
その意味でも、まさに「打ちのめされるようなすごい本」だった。
●「七夕の夜に、米原万里さんを送る集い 2006年7月7日」追悼VTR
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