生命は、あいだで踊る――濱口竜介『急に具合が悪くなる』から、医療・ケア・演劇を考える
- 1 日前
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映画『急に具合が悪くなる』は素晴らしい映画だった。私が医療者として格闘し、もがいてきたテーマが重層的に織り込まれていて、とても身に染みた。


映画『急に具合が悪くなる』を観ながら、私はずっと、医療とは何だろうと考えていた。もう少し正確に言えば、人が人をケアするとは、いったい何をしていることなのだろう、と考えていた。
医療の現場では多くの限界を感じることの方が多い。
それでも、人は誰かの傍らにいる。話を聞く。身体に触れる。一緒に黙る。
そのとき、何が起きているのだろう。
考えてみれば、ケアは医学より古い。医学が誕生するずっと前から、人は病み、老い、傷つき、その傍らには別の誰かがいた。歌うこと、踊ること、物語を語ること、死者の傍らに座ること。ケアと芸術は、人類史のかなり深いところで根を共有しているのかもしれない。
この映画を見ながら、私は無数の「ひらく」という言葉が浮かんできた。
バザーリアは、制度をひらいた。ユマニチュードは、身体をひらいた。
異なる言語は、意味をひらく。演劇は、関係をひらく。そしてケアは、生命をひらく。
この五つは別々の話ではない。制度から身体へ、身体から言葉へ、言葉から関係へ、そして生命へ。人間を覆っている殻を、一枚ずつほどいていく運動のように思える。
制度をひらく――バザーリア
この映画を観ながら思い出していたのが、イタリアの精神科医フランコ・バザーリアである。



彼が問い直したのは、精神科病院という建物だけではなかった。なぜ患者は閉じ込められるのか。なぜ一方は「正常」で、もう一方は「異常」なのか。なぜ医療者は治す側で、患者は治される側なのか。
彼が開こうとしたのは、その関係そのものだった。
医学は診断することで人を救う。しかし診断名は、ときに人間を閉じ込める。
「統合失調症の患者」「認知症の人」「発達障害の子」。
診断は必要である。けれども人間は診断名ではない。その人が昨日何を食べ、誰を愛し、何に笑い、何を怖れているのか。人間はいつも、診断名からはみ出している。
バザーリアの仕事の本質は、「患者」という役割から人間を解放したことにあるのではないかと思う。
医療者が主体で患者が客体。医療者が知り、患者は知らない。医療者が治し、患者は治される。そうした固定された構造をゆるめる。
私が以前関わっていた「おくすりてちょう」というプロジェクトも、そうした医療の固定された関係から少し自由になる試みだった。医師、患者、看護師、薬剤師、アーティスト。肩書きを一度横に置き、作品を見る。何かをつくる。同じものについて話す。
すると、「医師と患者」だった二人が、「一つの作品を見ている二人」になる。
制度を壊す必要はない。ただ、ときどき窓を開ける必要がある。
制度をひらくとは、人間を役割だけで見ないことである。
身体をひらく――ユマニチュード
私は以前、ユマニチュードの研修を受けたことがある。循環器内科医であったが、在宅医療・総合診療の力を広げるためだった。
そのとき教わったことの一つが、その後の医師人生に長く残っている。

認知症の人、とりわけ進行した状態にある人では、周辺の情報を捉えにくくなり、世界がきわめて狭く感じられることがある。その感覚を、研修では、まるでトイレットペーパーの芯から世界を覗いているような状態として体験した。
こちらからは相手が見えている。しかし、相手からはこちらが見えていないかもしれない。
その状態で突然、横から腕をつかまれる。後ろから肩を触られる。服を脱がされる。
介護者にとっては「介助」であっても、受け手にとっては突然、自分の世界の外側から何かが侵入してくる恐怖体験になりうる。
だからユマニチュードでは、ゆっくりと相手の視野の中へ入っていく。正面から近づく。見る。話す。触れる。
これは単なる介護技術ではない。
私はそこに、「相手の世界から、自分を見直す」という思想を感じた。
医療者は患者をデータから見ることに慣れている。しかし、「患者から世界がどう見えているか」を見ることには、必ずしも慣れていない。
ここから私は、老年医学、精神医学、児童心理学は、深いところでつながっているのではないかと思うようになった。
認知症の人には、その人が経験している世界がある。精神疾患を抱える人にも、その人から見えている世界がある。子どもにも、子どもの世界がある。
こちらの「正しい世界」へ引き戻す前に、一度こちらから向こうへ行ってみる。
あなたには、世界がどう見えているのですか。
その場所に少し滞在する。
身体をひらくとは、他者の世界によって、自分の見方が変えられることを許すことなのだと思う。
意味をひらく――異なる言語
『急に具合が悪くなる』では、異なる言語が行き交う。
言葉が通じないということは、一般にはコミュニケーションの障害である。けれども、この映画では、言葉の違いがむしろ人を相手の身体へ向かわせているように見える。
言葉が分からない。
だから表情を見る。声の調子を聞く。沈黙を感じる。身体の動きを読む。
言葉が通じないという「欠如」が、別の感覚をひらいていく。
考えてみれば、同じ日本語を話していても、私たちは本当に同じ言語を話しているのだろうか。
「痛い」という言葉一つでも、私の痛みとあなたの痛みは違う。「寂しい」「怖い」「死にたい」という言葉の背後にある世界も、一人ひとり違う。
医学は言葉を定義するし、それは必要なことである。
けれどもケアでは、ときに意味をすぐに確定しないことのほうが大切である。
「それは、どういうことですか」
そう問い、待つ。
他者とは、本質的に、完全には分からない存在なのだと思う。
だから対話が必要になる。
完全に理解できる相手なら、対話など必要ない。
分からないから話す。分からないから聞く。分からないから想像する。
言葉は人を分ける。同時に、言葉は人をつなぐ。
意味をひらくとは、分からなさを消さずに、相手の前に居続けることなのだと思う。
関係をひらく――演劇
この映画における劇中劇も、非常に重要に感じられた。
演劇は、他の芸術と少し違う。そこに、生きている身体がある。
俳優がいて、観客がいて、同じ時間を共有している。
同じ台詞でも昨日と今日では違う。相手の呼吸が変われば、言葉の意味が変わる。観客が笑えば舞台が変わる。沈黙が一秒長くなれば、その後の世界も変わる。
演劇とは、関係そのものを素材にする芸術なのだと思う。
それは医療とよく似ている。診察室にも、二つの身体がある。患者が話し、医師が聞く。
しかし、医師の聞き方によって、患者が次に話すことは変わる。
医師がパソコンを見れば、患者は話すのをやめるかもしれない。少し身体を前に傾けて待てば、それまで言えなかったことが出てくるかもしれない。
医師は患者から情報を「取り出している」のではない。医師の存在そのものが、患者の語りを変えているし、同時に、患者の語りが医師を変える。
診療とは、一方向の行為ではなく、二人のあいだから、その都度生まれてくる出来事なのだと思う。
演劇が教えるのは、人間は一人では完成していないということでもある。
医師である私は、患者との関係によって医師になる。教師は学生によって教師になり、親は子どもによって親になる。
関係をひらくとは、自分が他者によって変化することを引き受けることである。
生命をひらく――ケア
ここまで来ると、ケアという言葉の意味も変わってくる。
通常、ケアには方向がある。
医師が患者を治療する。介護者が高齢者を介護する。親が子どもを育てる。
けれども、本当に一方向なのだろうか。
医療の現場で多くの患者さんと出会ってきたが、振り返れば、患者さんから教えられたことのほうが多かったようにも思う。
死について。家族について。孤独について。幸福について。生きることについて。
誰が誰をケアしていたのだろう。
認知症の人の手を握る。こちらが相手の手を握っている。しかし相手も、こちらの手を握っている。
その瞬間、「ケアする側」と「ケアされる側」という区別そのものがほどける。
二つの生命のあいだに、何かが起きている。私は、それをケアと呼びたい。
ケアは誰かが所有する技術ではない。関係のなかに生まれる現象である。
だから本当のケアは、ケアする側も変えてしまう。二人が出会い、二人とも少し変わる。世界の見え方が少し変わる。そのとき、生命がひらく。
だからこそ、個人の善意だけでは足りない。
どれほど優しい医師や看護師がいても、その人たちを取り囲む組織が閉じていれば、ケアは息苦しくなる。
時間がない。効率が求められる。役割が細分化される。記録や管理が増えていく。
ケアを変えるには、人を変えるだけでは足りない。
人と人とが出会える構造そのものをつくる必要がある。
良い組織とは、完璧な組織ではなく、人間と人間が出会える余白を残している組織なのかもしれない。
急に具合が悪くなる、ということ
この映画のタイトルが、私はとても好きだ。
人は、急に具合が悪くなる。昨日まで元気だった人が倒れる。突然、病気になる。突然、大切な人を失う。
医学は、この想定外の「突然」をできるだけ減らそうとしてきた。
どれほど医学が進んでも、生命から「突然」を完全に取り除くことはできない。生命とは、予定されていない出来事を含みながら生きることだからだ。
私たちは、自分の意志で心臓を一拍ずつ動かしているわけではない。眠っていても、意識を失っていても、心臓は動き続ける。
生命とは、「私が生きている」というよりも、「生が私のなかで起きている」という出来事なのかもしれない。
だから人は、急に具合が悪くなる。そして急に誰かに救われることもある。
急に涙が出る。急に生きようと思う。
生命は、出来事に向かってひらかれている。

魂は「あいだ」にある
医学は、人間を細分化させて理解してきた。その専門化によって、医学は大きく進歩した。
けれども、生命そのものは分かれていない。
身体が痛めば心が変わる。心が傷つけば身体が変わる。
人間は、皮膚の内側だけで完結している存在ではない。
私たちは他者との「あいだ」で絶えず変化している。
だから、魂という言葉を使うならば、魂は身体の奥に隠された何かではなく、私とあなたの「あいだ」に立ち上がるものなのだろう。
完全には理解できない二人が、それでも同じ場所にいようとするとき、その「あいだ」に現れるもの。
『急に具合が悪くなる』を観たあと、私の中に残ったのは、この五つの運動だった。
制度をひらく。身体をひらく。意味をひらく。関係をひらく。生命をひらく。
生命は、あいだで踊る
この映画で私が最も心を動かされたのは、認知症の人たち自身が、誰かに指示されるのでもなく、自発的に互いを気遣い、ケアしあう姿だった。
さっきまで支えられていた人が、今度は隣にいる誰かを支える。誰かの動きに別の誰かの身体が応え、その応答にまた別の身体が動き出す。
それは、あらかじめ振付けられたものではなく、誰かが指揮しているわけでもない。
けれども、一人の動きから次の動きが生まれ、互いの身体が応答しあいながら、そこに一つの場が立ち上がっていく。
私はその光景を見ながら、これはまるで「生命のダンス」だと思った。
ダンスとは、決められた振付どおりに身体を動かすことだけではない。
誰かの動きを感じ、その動きに身体が応え、その応答がまた相手を動かす。
「あいだ」から、誰にも予定されていなかった動きが生まれてくる。
ケアもまた、本来そういうものなのではないだろうか。
ある生命の動きに別の生命が応答する。その応答によって最初の生命もまた変化する。
生命が生命に応答する現象のことだ。
制度をひらいたことで、身体がひらき、関係がひらき、ケアが自発的に発生し、生命が踊りはじめた。
ケアとは、生命と生命の「あいだ」に自発的に立ち上がる運動なのかもしれない。
そして医療や福祉に本当に必要なのは、その運動を外側から管理することだけではなく、生命が互いに応答しあえる「場」を守ることなのではないかと思う。
医療は生命を守ろうとする。芸術は生命を表現しようとする。演劇は生命と生命を出会わせる。そしてケアは、閉じてしまった生命を、もう一度世界へひらいていく。
病気になると、人の世界は狭くなる。
だから医療の仕事は、病気を取り除くだけではないのだと思う。
閉じてしまった生命に、小さな窓をつくること。
光を入れる。風を入れる。他者を入れる。
そして、その人がもう一度、世界との関係を結び直せるようにすること。
ケアとは、弱い人を強い人が助けることではない。
私たちは誰もが、ある日突然、助けられる側になる。そして、助けられていた人が別の日には誰かを支える。
その循環の中で生きている。
だからケアとは、人間を人間として扱うために固定されてしまった関係を何度でも組み替えることなのだと思う。
一つの生命と、もう一つの生命がいる。
二つの生命のあいだに、それまで存在しなかった何かが生まれる。
医学だけでは名前をつけられないもの。芸術だけでも説明しきれないもの。
私は、それをケアと呼びたい。
ケアとは生命を管理することではなく、生命が生命であることを許すこと。
そして、その生命がもう一度、他者へ、社会へ、世界へとつながっていくための扉を、そっと開けること。
『急に具合が悪くなる』という映画を通して私が見たのは、病気についての物語だけではなかった。
人間は、どうすれば人間を閉じ込めずに、人間と共にいることができるのか。
完成した答えはない。だから何度でも関係を組み替え、扉を開く。
治せなくても、共にいることはできる。分からなくても、関係することはできる。
その可能性を最後まで手放さないこと。
私はそこに、医療よりも古く、医学よりも広い、人間が人間をケアするという営みの原型を見る。
生命とは、一人で完成するものではなく、分からない他者との「あいだ」で、何度でも生まれ直していくものなのだ。そのこと自体が、希望なのだ。
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