湯河原 温泉 滝 則天去私
- 1 日前
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湯河原は、温泉の泉質もいいが、町の風情もいい。
町の風情や自然の景観は、人間がそう簡単に作れるものではなく。
湯治では温泉に何度も何度も入り、汗を出す。
特に、今の時期は冬の身体から夏の身体へと切り替わる時期で、発汗させて全身の毛穴を開き、身体自体を「閉じる」モードから「開く」モードに移行する必要があって、温泉は最適だ。
湯河原の主泉質である塩分と石膏成分は、肌の表面に微細な膜を作る。これが熱を逃がさず、体の「芯の芯」まで熱を届ける。表面だけが熱くなるお風呂と違い、骨から温まるため、全身の毛穴が根元からしっかりと開く。
弱アルカリ性のやさしいお湯が、冬〜春にかけて硬くなりがちだった皮膚の表面や毛穴の詰まりをマイルドに柔らかくしてくれる。汗腺の「蓋」が外れ、スムーズに発汗できる状態に導いてくれる。
「閉じる(交感神経・緊張)」から「開く(副交感神経・弛緩)」への切り替えには、長湯をしても体に負担の少ない、湯河原のような優しくまろやかな泉質がよい。
温泉で汗を書いたらしっかり水分を取り、万葉公園や不動の滝に散歩に行く。





露天風呂もそうだが、日本の空間づくりの中には、「自然を取り込む場」の工夫が随所にされている。自然と分断するのではなく。だからこそ、時には蚊にもさされるが、まあそれも「よきかな」と思える感性や、虫の音を「雑音(ノイズ)」ではなく「声(言葉・音楽)」として捉える日本人の感性は、単なる文化的な違いだけでなく、脳の処理の仕組み(脳の偏側性)にまで根ざしているようだ(角田忠信氏の研究)。
自然界の音を「ノイズ(敵)」として遮断しようとすると、心身は緊張し、身体は「閉じる」方向に向かう。
そうではなくて、虫の音や川のせせらぎ、雨の音を「世界の一部、自分の一部」としてそのまま受け入れ(開き)、耳を傾けると、人間の自律神経は一気に緩み、深いリラックス状態(副交感神経優位)になる。
そうした意味で、地球が作り出した滝をすぐに見に行ける環境は素晴らしい。
滝は、人間の脳と身体を最もスムーズに瞑想状態へと導く極上の天然シアターだ。



滝のゴーッという激しく均一な音は、脳を刺激する日常の雑音(車の音や人の声など)をすべてかき消してくれる「ホワイトノイズ」となる。
瞑想中にどうしても湧き上がってくる「雑念(今日の予定、過去の後悔など)」が、滝の圧倒的な音圧で強制的に洗い流される。音が盾となり、自分の内側に集中しやすい環境が作られる。
そんな時間は、ほんの数秒であっても、脳に治癒的な効果がある。
滝のそばに行き、岩やベンチにゆったりと腰掛け、軽く目を閉じる。
1.意識をまず「一番遠くから聞こえる滝の音」に向ける。
2.次に「自分のすぐ近くで弾ける水飛沫の音」へ意識を近づける。
3.最後に、その滝の音が「自分の身体の境界線を越えて、内側に響いている」感覚を味わう。
このとき、虫の音を言葉として聴く左脳が働くことで、滝の音を雑音ではなく「地球の呼吸」のように入り込んでくる。
こうして自然のエネルギーを取り込む行為によって生命力はさらに満ちていき、「命がよびさまれる」ことになるのだろう。
万葉公園で滝を歩き、不動滝まで歩いていく。ほんの1時間くらいの散歩だけれど、すっかり心身が入れ替わる。
・・・・・
夏目漱石の絶筆となった未完の小説『明暗』の作中でも、主人公らが不動滝へ散歩に出かけるシーンが描かれていた。

漱石は、温泉街の奥へと続く道を、ただの観光地としてではなく、どこか「日常から切り離された精神世界」への入り口のように冷徹かつ緻密に描写していた。
激しく流れ落ちる不動滝の前で、主人公の津田由雄は元恋人・清子への執着や、自己のエゴイズム、お延との冷え切った夫婦関係など、自らの内面にあるドロドロとした葛藤(ノイズ)と向き合わざるを得なくなる。激しい音を立てて落ちる滝は、津田の動揺する内面の象徴でもある。
漱石は晩年、自己の小さなエゴを捨てて、天の意思・自然の理(天)に従って生きる「則天去私」という境地を理想とした。
『明暗』はその境地へ至るプロセスを描こうとした小説だとも思える。

滝の音(ホワイトノイズ)が思考を断捨離し、脳を開く。
漱石自身も、自らのエゴにがんじがらめになって苦しむ人間(津田)を、圧倒的な自然の象徴である「滝の音」に晒すことで、その執着を洗い流そう(=身体と心を開かせよう)としたのかもしれない。
ちなみに、津田はこの滝への散歩から戻った後、宿の廊下で清子と劇的な再会を果たすが、清子と静かに言葉を交わす場面を最後に、漱石は病に倒れ、小説は未完のまま途絶えてしまった。
未完だからこそ、物語は開かれていて、いまだに生きている、とも言えるのだろう。
漱石のこと、明暗のこと、則天去私のことを、思う。
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