月は東洋と西洋のあいだに昇る 竹田で考えた瀧廉太郎と山田耕筰
瀧廉太郎は12歳から14歳までを長湯温泉の竹田で過ごした。
少年時代に岡城跡で遊んだ記憶がのちの『荒城の月』に結びついたと伝えられている。

「春高楼の花の宴」と歌われた場所にすでに人はいない。城は滅び、栄華も消え、ただ月だけが、昔と変わらず石垣を照らしている。
そこには、日本文化が長く見つめてきた「無常(Mujo)」の感覚がある。
『平家物語』の盛者必衰、西行の月、芭蕉の古池。日本の芸術は、永遠に残るものだけを美しいとしたのではなく、すべては移ろい、やがて失われるという事実の中に美を見いだしてきた。
吉田兼好は『徒然草』に、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と記した。美は満開という完成の中だけにあるのではない。咲く前の梢にも、散りしおれた庭にもある。桜が美しいのは、咲いた瞬間から散り始めているからだ。
『荒城の月』にもまた、失われゆくものの中に永遠を見る、日本の無常の美学が流れている。
しかし、その旋律を形づくる器は西洋音楽だった。
瀧廉太郎は、西洋の音階や拍節、和声の考え方を学びながら、そこへ日本語の呼吸、日本の風景、日本人が抱いてきた時間感覚を宿そうとした。彼がしたことは、西洋音楽の模倣ではない。西洋という異質な鏡に自分を映すことで、自らの内側に眠っていた「日本」を発見し、それを新しい音として差し出したのである。
西洋音楽には、音を積み上げ、展開し、葛藤を経て、一つの帰結へ向かおうとする強い意志がある。
一方、日本の伝統的な音楽や芸能では、「何を鳴らすか」と同じほど、「何を鳴らさないか」が重要になる。
音と音の間にある「間」は、空白ではない。鳴り終えた音の記憶と、これから生まれる音の予感が満ちている。
西洋音楽が音で世界を構築するものだとすれば、日本の音楽は音によって沈黙の存在を明らかにするもの。武満徹さんの音楽を思い出す。
瀧廉太郎は二つの世界の「あいだ」に、最初の橋を架けた。そして、その橋をさらに渡り、日本語そのものの音楽を探究したのが山田耕筰だった。

山田耕筰は『荒城の月』にピアノ伴奏を施し、旋律の一部を改め、今日広く歌われる形へと整えた。山田が生涯をかけて追究したのは、日本語の抑揚、言葉の高低、詩の呼吸と、西洋音楽の旋律や和声を、どうすれば一つの身体にできるかという問いだった。
『からたちの花』『この道』『赤とんぼ』・・・旋律が言葉の外側から付けられているのではなく、日本語そのものの語感の中から生まれてくるように感じられる。
瀧廉太郎が東洋と西洋の間に「橋」を架けた人なら、山田耕筰は、その橋を渡りながら日本語の声に合うよう路面を整え、道を延ばした人だったのだろう。
文化は、一人の天才によって完成するのではない。誰かが問いを発し、次の人がそれを受け取り、異なる時代の耳と身体を通して鳴らし直す。その連鎖の中で、作品は生き続ける。
23歳で亡くなった瀧廉太郎の仕事は、未完だった。
けれども、未完であることは、不完全であることとは違う。
未完だからこそ開かれている。
山田耕筰が応答し、その後も無数の歌い手や演奏家が、自分の時代の息を吹き込んできた。
文化とは、完成品を保存することではなく、問いを次の時代へ手渡すことだ。
このことは、竹田や長湯の未来にも重なって見える。
長湯では、地球の深部から湧き上がる炭酸泉に、現代医学、建築、芸術、食、福祉、観光を結びつけようとしている。
温泉は古い。しかし、古いものをそのまま保存するだけでは、文化は博物館の中で眠ってしまう。
瀧廉太郎が西洋音楽の器に日本の風景と無常観を宿し、山田耕筰がそこから日本語の音楽を育てたように、私たちも温泉という古い叡智を、現代の社会に届く形へ翻訳し直すことができる。
自分たちの土地にしかないものを深く掘り下げたとき、初めて普遍へと届くのだ。深く井戸を掘ることは孤独だが、井戸水はいづれ大海につながる。
東洋と西洋。音楽だけではなく医学もそうだ。
異なるものの間に立つこと。
矛盾を急いで解消せず、両方の声を聴くこと。違いを消して一つにするのではなく、違うものが違うまま響き合う場所をつくること。
そこから、新しい文化は生まれる。
城は滅び、人は去り、時代が変わっても、風は吹き、月は昇り、音楽は残る。
月は、東洋だけを照らすのでも、西洋だけを照らすのでもない。過去も未来も、生者も死者も同じ光で静かに照らす。
未来は過去を切り捨てた先にあるのではなく、過去の中で、まだ「十分に鳴らされていない音に耳を澄ます」ことから始まる。
竹田の山々に昇る月の下で瀧廉太郎が残した未完の旋律と、そこに応答した山田耕筰の仕事は、今も私たちに問いかけている。
この土地から、次にどんな音を生み出すのか、と。
軽井沢に帰宅後、長湯の余韻を感じるために瀧廉太郎を聞きなおしながら感じたこと。

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