安曇野ちひろ美術館 「子どものしあわせと平和」
- 6 日前
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「戦後、私が平和をねがうのは、
もう二度とあんな赤いシクラメンの花のような火を、
子どもたちの上にふらせたくないからです」
いわさきちひろ 遺作
『戦火のなかの子どもたち』(1973年)より


いわさきちひろさん(1918年-1974年)は、生涯を通じて「子どものしあわせと平和」をテーマに描き続けた絵本画家。
彼女は現代に生きていれば何の苦労もなく、アーティスト、絵本作家、書家・・・だったかもしれないが、家族も本人も戦争に翻弄された人生だったから。
20歳で最初の結婚をして満州へ渡ったが、夫の自死により帰国。その後、書道教師として再び満州へ渡るも、戦局の悪化で帰国。
1945年の空襲で東京の自宅を焼失し、長野県松本市へ疎開して終戦を迎えた。
ちひろさんの両親は、戦時中に国策に協力する立場にあったため、戦後GHQによる公職追放を受けた。ちひろさんは、両親が国策に貢献(父は軍事施設の建設を、母は満州へ渡る「大陸の花嫁」を送り出す国策業務を)していたことで戦時中も恵まれた生活ができていた事実を戦後に知り、深い葛藤を抱いた。
この経験が、「子どものしあわせと平和」を願う強い思いと、画家として自立する決意の原動力になったと言われている。
その後、27歳のとき、画家として生きる決意をして単身で上京し、絵本作家となった。いわさきちひろさんが遺した作品数は、ちひろ美術館が所蔵しているものだけでも約9,550点にのぼるらしい。多作な作家であり、だからこそ体も痛めつけながら仕事を続けていたのかもしれない。
晩年には、ベトナム戦争が激化するなか、1973年に平和への願いを込めた『戦火のなかの子どもたち』を完成させ、翌1974年に肝がんで55歳の若さで死去されている。
・・・・
黒柳徹子さんは、ちひろ美術館の館長をされているが、生前に直接会ったことは一度もない、というのも驚きだった。

黒柳徹子さんはちひろさんのファンで、「いつか自分の著作に絵を描いてもらいたい」と願っていたが、1974年にちひろさんは急逝してしまった。
1981年に徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』を出版するとき、強い希望でちひろさんの絵が採用された。徹子さんは連載中も、毎月のように東京のちひろ美術館へ足を運び、膨大な遺作の中からその時々のエピソードに最も合うちひろさんの絵を自ら選んでいた。あまりに内容と絵が一致していたため、読者から「生前に打ち合わせをして描いたのか」という問い合わせが殺到したというエピソードも、美術館の中のビデオで話されていた。




会ったことはなくても、同じ未来の風景を見ていた二人、魂レベルでつながった二人だったのだろう。
徹子さんは、ちひろさんの「子どものしあわせと平和」を願う精神を受け継ぎ、現在もちひろ美術館の館長(東京+安曇野)を務めている。ユニセフ親善大使としての活動も、ちひろさんのスピリットが生きているのだろうと思う。
徹子さんは、黒柳徹子ミュージアムが軽井沢にできたばかりだし(こちらも設計は内藤廣さん)、不思議なシンクロに驚いた。
平和への願いや、子どもの感性に立ち戻るため、ぜひ足を運んでみていただきたい素晴らしい場所です。世界初の絵本美術館というだけあって、素敵な絵本がたくさんあり、それだけで聖域(サンクチュアリSanctuary)です。


安曇野ちひろ美術館 Chihiro Art Museum Azumino
〒399-8501 長野県北安曇郡松川村西原3358-24






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