信じる心と、問い直す自由。角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)
角田光代『方舟を燃やす』(新潮社、2024)を読んだ。
ちょうどコロナ禍があけたころの作品で購入していたが、ふと本棚で見かけて読んだ。新幹線や電車の移動で少しずつ。


予言、宗教、自然食、ワクチン、陰謀論……。
時代ごとに現れる「信じるもの」を通して、この小説は、人が不確かな世界をどう生きていくのかを描いている。
私がとりわけ痛々しく、共感したのは望月不三子だった。
不三子は家族の健康を願い、自然食を学び、毎日の食事をつくる。私自身も医学部生の頃から食と健康について考え続け、可能な限り体にやさしいものを食べたいと思ってきた。
だから彼女を、単に「極端な考えにとらわれた人」として読むことはできなかった。
食べることは、生きることに直結している。
大切な人の体を思えば、何を食べさせるかに真剣になるのは自然なことだ。
ただ、よいものを食べてほしいという願いと、家族が食べたいもの、その食卓でどう感じるかは、必ずしも一致しない。十分な対話が欠けていたのかもしれない。食卓は愛情が形になる場所であり、同時に、それぞれの自由や気持ちがぶつかる場所でもある。
不三子が学んだ教えには、家族の命と幸福を女性が担うべきだという考えがある。家族を守りたいという願いが強いほど、その責任を一人で背負ってしまう。
彼女の痛々しさは、食への関心そのものよりも、愛情と責任が逃げ場なく結びついてしまったところにあるように感じた(女性だけが担う必要はなく、関わる人全員が担うべきでもあるのだから)。
だからこそ、数十年後、不三子が子ども食堂という場に出会うことがうれしかった。今では自然食やオーガニックへの関心も広がり、子どもの食を支えることは、一つの家庭だけに任せておけない課題として語られる。かつて家の中で孤立していた彼女の関心が、誰かとともに生かされる。
彼女だけが変わったのではなく、社会の側にも、彼女を受け止める場所が生まれたのだと思う。
もちろん、それによって過去の食事法のすべてが正しかったことにはならない。それでも、不三子が守ろうとしていたものまで否定する必要はない。
ある人の考えに誤りや行き過ぎがあったとしても、その奥にある切実な願いは、別に見つめることができるはずだ。
飛馬にも、人の役に立ちたいという願いがある。
彼は「選択ができることが楽しさの原因なのだろう」と考える。
自分で選べることは、人が生きるうえで大切な自由だ。
けれど私たちは、何を怖れ、何を信じたいと思っているのかを、十分に知ったうえで選んでいるだろうか。
予言や教えは、真偽を問うべき情報であると同時に、人生の不安に形を与える「物語」でもある。
自分の「影」を見ることは、自分の中の怖れや無力さを見つめることの難しさも浮かび上がる。
安心できる答えを求める心は、飛馬や不三子だけでなく、私たちの中にもある。
ワクチンを打つか、打たないか。SNSで広がる情報をどう受け止めるか・・・。こうした議論は、これからも形を変えて続くだろう。
医療者として、有効性や安全性はその時点で得られる情報に照らして確かめたい気持ちはある。ただ、データには集め方や解釈の難しさがあるからこそ、検証を重ねることが必要だ。
同時に、科学的な説明だけでは届かない、一人ひとりの事情や不安にも耳を傾けたい。
ここには、視点の違いもある。
「私がどう生きるか」という一人称の問い。「大切なあなたをどう守るか」という二人称の問い。そして「社会全体の被害をどう減らすか」という三人称の問い。同じワクチンの話をしていても、見つめているものが違えば、言葉はすれ違う。
それは「死」をめぐる問いにも似ている。「私の死」「大切なあなたの死」「誰かの死」は、同じ死でありながら、私たちに迫る意味が異なる。どの視点も消してしまうことはできない。
だから、相手の結論を聞く前に、その人がどこから語り、何を守ろうとしているのかを知りたいと思う。
『方舟を燃やす』は、何かを信じる人を笑わない。
家族を守りたい。人を救いたい。正しく生きたい。そんな善意が、ときに自分や他者を苦しめることまで描きながら、その人の願いを見失わない。
方舟は、不安の中で私たちを守ってくれる。だが、自分の方舟だけが正しいと信じきったとき、外にいる人の声は聞こえにくくなるのかもしれない。
「信じる」ことは、生きる力になる。
けれど、信じるものに自分の思考や自由を預けきってしまえば、目の前の現実も、隣にいる人も見えなくなる。
いま自分は、何を信じているのか。
その信念は、自分と他者を生かしているだろうか。
そして、自分はまだ自由に考え、話し合うことができているだろうか。
方舟を燃やすとは、信じる心を捨てることではない。
自分を守ってきた答えから一度降りて、不確かな世界で、もう一度誰かと出会い直すことなのだと思った。
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