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『急に具合が悪くなる』を医療の現場から読む―不運は点、不幸は線。病いと偶然と魂のあいだで。

3 日前
読了時間: 9分

宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)を読んだ。



きっかけは映画を観たことだった。映画を通して、病いと死、ケアと人間の尊厳について考えさせられ、その原作の一つである本書を手に取った。






本書は、がんを患う哲学者・宮野真生子と、医療人類学者・磯野真穂による往復書簡である。


二人が交わす言葉は、単に病気の治療法を論じるものではない。

病いによって人生の見通しが崩れたとき、人は何を信じ、何を頼りにどう生きていくのか。その根源的な問いを、互いの言葉を通して掘り下げていく。


私は長年、救急医療や集中治療、循環器医療の現場で、突然病に倒れる人、昨日までの日常を失う人、治療の選択に苦しむ人たちと向き合ってきた。

医学は、病気の原因を探り、予後を予測し、適切な治療を選択する。

しかし、医学的に正しい判断が、その人にとって生きる意味を与えるとは限らない。


医学は病気を説明できても、病いを生きる人間の人生を説明し尽くすことはできない。



本書で宮野は、「偽装された粗雑な<強い>運命論」という言葉を使う。

私たちは、ともすると人生の出来事に原因と結果を求めすぎる。

病気になったのは食生活が悪かったから。ストレスをためたから。生き方を間違えたから。あるいは、前向きに生きれば病気は治るはずだ・・・、と。

しかし、そこには危険な倒錯がある。


病気になったという結果から、その人の過去の生き方を裁いてしまうのだ。健康であることが正しい生き方の証明になり、病気になることが本人の責任になってしまう。

こうした発想は、健康を願う善意の言葉の中にも潜んでいる。


私自身、2016年に『がんが自然に治る生き方』という本を医師として読み、現代西洋医学と代替医療のあいだにある問題を論じたことがある。

「一日のなかで『がんや病気のことを考えない時間』を持つ意味」「『病は敵』『死は敗北』という考え方を乗り越えて」という二つの文章である。

■プレジデント社 PRESIDENT ONLINE『がんが自然に治る生き方』を医師として読んで



そこで考えていたのも、病気を治療することと、病いを抱えながら生きることは、必ずしも同じではないという問題だった。



本書で磯野は、「代替医療をめぐる問題は、エビデンス第一主義ではなく、希望と信頼の位相で話すべきであると私は考えています」と述べる。

これは医療者にとって、きわめて重要な指摘だと思う。


もちろん、治療の有効性や安全性は科学的に検証されなければならない。根拠の乏しい治療によって標準治療の機会が失われたり、患者が経済的・身体的な不利益を被ったりすることは避けなければならない。


しかし、なぜ患者がその治療を求めるのか。その背景には、科学的な説明だけでは受け止めきれない、不安、孤独、希望、信頼への渇望がある。



医療人類学者アーサー・クラインマンは、人々が病気に対処する領域を、民間セクター、専門職セクター、民俗セクターに分けて考えた。

家族や友人、日常の知恵。医師や看護師による専門的医療。そして伝統的な治療者や民間療法。

人は病気になると、こうした複数の世界を行き来しながら、自分の生きる道を探している。

医療者が提供できるのは、その一部にすぎない。


だからこそ、宮野の「一人で正しく選択するのだというプレッシャーをまず解除することで患者も医療者も楽になるのではないか」という提案が胸に響く。

現代の医療では、患者の自己決定が尊重される。しかし、それがいつの間にか「あなたが自分で選んだのだから」という責任の押しつけになってはいないだろうか。



人は、十分な情報を与えられれば、いつでも合理的に決断できる存在ではない。まして、病気や死を前にしているときには。

本当に必要なのは、一人で正解を選ぶ力ではなく、正解のない時間を誰かと共に生きることなのかもしれない。



そして本書をさらに深いところへ導くのが、九鬼周造の『偶然性の問題』である。




私たちは、起きた出来事に必然性を見いだしたくなる。しかし、人生にはどうしても説明しきれない偶然がある。

なぜ、あの人が病気になったのか。なぜ、あの人は助かり、別の人は亡くなったのか。なぜ、今、この瞬間だったのか。

医療の現場に長くいるほど、こうした問いに明快な答えがないことを痛感する。


本書に登場するアザンデ人の妖術についての議論も興味深い。

アザンデ人の世界では、不運な出来事を妖術によって説明することがある。それは、物理的な原因を知らないからという単純な話ではない。

たとえば、建物が壊れた原因を説明できたとしても、なぜその瞬間に、そこにいた人が被害を受けたのかという問いは残る。

妖術は、その説明の欠けた環、ミッシングリンクを埋める役割を果たす。



現代の私たちも、実は同じことをしているのではないか。

病気になった理由を、生活習慣や性格、過去の選択、あるいは運命に求める。そうすることで、偶然という不確かなものに耐えようとする。


しかし、すべての不運に意味や理由を与える必要があるのだろうか。


本書でとりわけ心に残ったのが、

「私は不幸なのか?」「不運ではあるが、不幸ではない」

という問いと応答だった。


不運は点、不幸は線。

不運とは、人生のある瞬間に起きる出来事である。病気になること。事故に遭うこと。大切な人を失うこと。

しかし、不幸とは、その出来事を含む人生全体に与えられる意味である。

不運な出来事が起きたからといって、その人の人生全体が不幸になるわけではない。


もちろん、病気や苦しみに無理に意味を見いだす必要はない。苦しみを成長の物語に回収することも、また別の暴力になりうる。

それでも、人生の一つの出来事によって、その人の生の全体が決定されるわけではない。

医師として私が守りたいのは、まさにその余白なのだと思う。



そして、もう一つ、この本を読みながら強く印象に残ったことがある。

それは、二人の言葉の豊かさだ。


本書には、哲学や医療人類学の学術用語が数多く登場する。しかし、決して難解な専門書にはなっていない。

厳密な概念を用いて議論していたかと思うと、ふと日常の話し言葉になり、ときには驚くほどくだけた言葉やユーモアが顔を出す。

学術的な言葉、生活の言葉、身体からこぼれ落ちるような言葉。それらが重なり合いながら、二人の対話は進んでいく。


言葉が一つの調子に固定されていないことが、かえって本書を読みやすく、親密なものにしている。

それは、単に難しい話をわかりやすく伝えるための工夫ではないだろう。


人間は、学術用語だけで生きているわけではない。冗談を言い、弱音を吐き、怒り、笑い、ときには自分でも思いがけない言葉を口にする。その言葉の揺れこそが、生きている人間の姿なのだ。



なかでも、私が立ち止まったのは「魂」という言葉だった。


魂。


学術の世界では、扱いにくい言葉である。明確に定義することも、測定することも難しい。科学的な論文では、できるだけ避けられる言葉かもしれない。


しかし、哲学者と医療人類学者という、言葉の厳密さを大切にしてきた二人が、病いと死をめぐる切実な対話の中で、この言葉を用いることには、特別な意味があるように思えた。


それは、学問の厳密さを手放したということではない。

むしろ、学問を突き詰めた先で、既存の概念だけでは受け止めきれない何かに触れようとしているのではないか。

人間のいのちは、身体の機能だけでは語り尽くせない。心理状態や社会的関係を加えても、なお言葉にならない何かが残る。

その名づけがたいものを、私たちはときに「魂」と呼ぶのかもしれない。



魂が実在するかどうかを証明することと、魂という言葉を必要とする人間の経験を理解することは、別の問題である。


魂という言葉は、説明のための概念というよりも、説明し尽くせないものを前にして、それでも語りかけようとする言葉なのだと思う。


ここに、命がけの対話の力がある。


学問が人間の生から離れた抽象的な体系ではなく、現実に苦しみ、迷い、死を前にする人間の営みであることを、この往復書簡は教えてくれる。


学術用語から日常語へ。日常語から冗談へ。そして、ときには「魂」という、定義しきれない言葉へ。


その往復運動の中で、二人の言葉は、単なる情報の交換を超えて、互いの存在に触れようとしている。




医療の現場でも、同じことが起きる。

診察室では、病名や検査値、治療方針といった専門用語が飛び交う。しかし、患者が本当に語りたいことは、その言葉の外側にあることが少なくない。


「怖いんです」「まだ死にたくない」「家族に迷惑をかけたくない」「どうして私なんでしょう」


そうした言葉に向き合うとき、医師もまた、医学用語だけでは応答できない。


科学の言葉が必要な時間がある。日常の言葉が必要な時間がある。そして、ただ黙って共にいることが必要な時間もある。


本書の魅力は、そうした異なる言葉の世界を分断せず、同じ一つの対話の中に共存させていることだと思う。



医療は、病気を治すためにある。

しかし、医療が関わるのは、病気だけではない。

病いを抱えながら笑うこと。誰かを愛すること。美しい風景に心を動かされること。何もせず、ただ静かに一日を過ごすこと。

そうした時間もまた、人間が生きているということの、かけがえのない一部である。


宮野と磯野の往復書簡には、死を前にしてなお、他者に向かって言葉を差し出そうとする強さがある。

そして、その言葉を受け取り、応答する人がいる。


治療によって病気を取り除くことができなくても、人と人とのあいだに、何かが生まれ続けることはある。

私たちは、人生のすべてを選ぶことはできない。病気になるかどうかも、いつ死ぬかも、思いどおりにはならない。

けれども、予期せぬ出来事に出会ったとき、その出来事とどのような関係を結び、誰と共に生きるかには、まだ開かれた可能性がある。


病気になることと、不幸になることは同じではない。


『急に具合が悪くなる』という、どこか唐突で、身も蓋もないタイトル。

けれども、人生とは本来そういうものなのだろう。


突然、具合が悪くなる。突然、誰かに出会う。突然、大切なものを失う。そして、思いがけず、誰かの言葉に救われる。

いのちは、予定どおりには進まない。

だからこそ、他者と共に生きることに意味がある。



医療とは偶然をすべて排除する技術ではなく、偶然に揺さぶられる人間のいのちを、最後まで見捨てない営み。

不運という点を、不幸という一本の線にしてしまわないために。

そして、その線の先に、まだ描かれていない未来があることを信じるために。


人間のいのちは、学問の言葉だけでは語り尽くせない。

だからこそ私たちは、言葉を探し続ける。


ときに哲学の言葉で。ときに医学の言葉で。ときに、ありふれた日常の言葉で。そして、ときには「魂」という言葉で。

言葉が尽きる場所にも、いのちはある。


その沈黙に耳を澄ませながら、なお誰かに語りかけようとすること。

そこに、医療と哲学、そして人間が共に生きることの、もっとも深い可能性があるのだと思う。


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