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「さくらももこ展」@松本市立博物館

  • 5 日前
  • 読了時間: 5分

「さくらももこ展」@松本市立博物館に行った。

我が家族は、「ちびまるこ」「コジコジ」の大ファンである。

私も小学生のころから、さくらももこファンだ。



さくらももこ展を見ながら、あらためて不思議に思った。

なぜ、こんなにも長いあいだ、さくらももこの作品は古びないのだろう。


『ちびまる子ちゃん』に描かれているのは、決して特別な世界ではない。

世界を救う英雄もいなければ、大事件が起きるわけでもない。

学校へ行き、宿題を忘れ、家族に叱られ、友だちに嫉妬し、くだらないことで笑い、時にはひどく落ち込む。


そこにあるのは、誰の人生にもあるような「たいしたことのない出来事」ばかりだ。


けれども、さくらももこの目を通すと、その「たいしたことのなさ」が、突然、人生そのもののように見えてくる。



さくらももこは、人間を美化しなかった。


子どもは純真で、大人は分別がある、というような描き方をしない。

子どもはずるいし、怠けるし、見栄を張る。

大人もまた、嫉妬し、失敗し、妙なことにこだわる。

家族だからといっていつも愛し合っているわけではないし、友だちだからといっていつも仲がよいわけでもない。


人間は、そんなに立派ではない。


ところが、さくらももこの作品を読んでいると、その「立派ではなさ」が、なぜか嫌にならない。

むしろ、そこに人間の愛らしさが見えてくる。


彼女のユーモアは、人間の欠点を消して笑わせるのではない。欠点を欠点のまま眺めているうちに、そこから笑いが生まれてくる。

つまり、さくらももこの笑いとは、ある意味で「人間を許す技術」だったのではないだろうかと思う。



まる子は失敗する。怠ける。調子に乗る。都合のいいことを考える。そして、そのたびに心の中で壮大な物語が始まる。

客観的に見ればほんの小さな出来事なのに、本人にとっては世界の終わりのような一大事である。

ここにも、さくらももこの鋭い人間観察がある。


人間は、現実そのものを生きているのではない。

現実について、自分の頭の中につくった「物語」を生きている


だから、テストの点数ひとつでも絶望できるし、ちょっと褒められただけで天下を取ったような気分にもなる。


その「主観の大げささ」と「現実の小ささ」の落差が、さくらももこの笑いを生み出している。



そして、もう一つ興味深いのは、彼女の視点が、子どもと大人のあいだを自由に行き来することだ。


まる子は子どもなのだが、その世界を語る言葉には、ときどき妙に冷静な大人の視線が入り込む。子どもとして必死に出来事の渦中にいながら、同時に少し離れたところから「人間とは実におかしな生き物である」と眺めている。


この二重性こそ、『ちびまる子ちゃん』の新しさだったのだと思う。




『ちびまる子ちゃん』は、子どもの漫画でありながら、一種の人間喜劇でもある。

登場人物たちも実に多様だ。

丸尾君も、花輪君も、野口さんも、永沢君も、藤木君も、友蔵も、誰一人として「普通」ではない。

面白いのは、変わった人間が登場するということではない。




さくらももこの世界では、そもそも「普通の人間」というものが存在しないのだ。


人間をよく見れば、誰もが少し変なのである。

それぞれが妙な欲望を持ち、妙なこだわりを持ち、自分だけの小さな宇宙を生きている。

社会は、人間を「正常/異常」「優秀/劣等」と分類したがる。しかし、さくらももこの世界は、そのような分類よりもずっと手前にある。

人間とは、そもそも凸凹しているものなのだ。その凸凹を直そうとするのではなく、面白がって眺めている。


そこには、ある種の深い人間肯定がある。



そして展覧会を歩いていると、さくらももこの世界には、笑いだけではなく、もう一つ大切なものが流れていることに気づく。


それは「死」である。

家族との時間も、子ども時代も、友情も、日常も、永遠には続かない。

だからこそ、くだらない一日が、あとになってかけがえのない一日になる。


『ちびまる子ちゃん』の世界がどこか懐かしいのは、昭和という時代が描かれているからだけではないのだと思う。

そこには、「もう戻ることのできない時間」が描かれている。


学校から帰る道。

夕方の商店街。

家族で囲む食卓。

くだらないことで笑った友だち。


そのときには何の価値もないと思っていた時間が、失われたあとになって、人生で最も大切な時間だったと気づく。


さくらももこは、そのことを知っていたのではないだろうか。

だから彼女のユーモアには、どこか哀しみがある。

そして、哀しみの奥には、やさしさがある。


人生とは、立派なものではない。

失敗して、勘違いして、嫉妬して、怠けて、ときどき誰かにやさしくして、また失敗する。

そうやって一日は過ぎていく。


しかし、そのどうでもいい一日の積み重ねこそが、人生なのだ。







さくらももこ展を見終えて外へ出ると、日常の景色が少し違って見える。


道を歩く人も、電車を待つ人も、家族も、自分自身も、きっとそれぞれに、他人には理解できない妙なこだわりや、小さな悲しみや、くだらない欲望を抱えて生きている。


そう思うと、人間というものが少し可笑しく、少し愛おしくなる。


さくらももこが残した最大の作品は、「人間を面白がって見る」という眼差し、だったのではないだろうか。

私もそうした眼差しをこそ、子どもに手渡したい。


人間は、そんなに立派ではない。

でも、だからこそ面白い。


人生は、そんなに大事件ばかりではない。

でも、だからこそ愛おしい。


さくらももこは、そんな当たり前のことを、笑いながら私たちに教えてくれた。


展覧会を出たあとも、その眼差しだけが、しばらく自分の中に残っている。

そして、目の前のなんでもない日常が、少しだけ面白く見えてくる。



それこそが、さくらももこという人が残した、静かで、とても大きな魔法なのだと思う。


展示は一部撮影可でした。

この展示は巡回展。図録も「コズフィッシュ」(祖父江慎)なので素敵。








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