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W. ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代@東京都写真美術館

  • 5月9日
  • 読了時間: 3分

東京都写真美術館2F「W. ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代」



ユージン・スミス(W. Eugene Smith, 1918–1978)は、アメリカのフォトジャーナリストで、日本の公害病である水俣病の実態を世界に知らしめた人物としても知られている。



水俣病は1956年の公式確認(その前の1953年頃から人体への健康被害が見られていた)と1968年の政府による公害病認定という二段階がある。



ユージン・スミスが水俣に滞在したのは、1968年の政府による公害病認定の後になる1971年から1974年にかけて。アイリーン・美緒子・スミスさんと共に熊本県水俣市に移り住み、患者やその家族の生活を記録した。教科書で見る水俣病の写真は、ユージン・スミスの撮影によるものも多い(「入浴する智子と母」など)。


1975年に出版された写真集『MINAMATA』も、いま見ても驚くような写真が多く、写真は当時の息吹をそのまま閉じ込めているなぁ、と驚くことがある。


ユージン・スミスも、取材中に会社の暴行で重傷を負い、その後の視力低下など後遺症に苦しんでいた。



映画『MINAMATAーミナマター』(2021年にジョニー・デップ主演で映画化された。音楽も坂本龍一さん)も東京都写真美術館の1階で上映されていて、今回は時間がなかったが、また改めて見たいと思った。




ユージン・スミスは水俣の印象が強いが、第二次世界大戦中には『ライフ』の特派員として沖縄やサイパンなどの激戦地を取材したり、医師であるシュヴァイツァーの写真も撮っている。



ニューヨークのアパート(通称「ロフト」)に移り住んだ時には、セロニアス・モンクやマイルス・デイヴィスをはじめとするジャズ・ミュージシャンとの交流や写真も撮っていて、サルバドール・ダリ!や、ロバート・フランクやダイアン・アーバスなどの写真家と交流を果たしていて、その時代の写真の展示(音源も)は、ユージン・スミスの生涯を全体的に俯瞰する展示だった。





ユージン・スミスは、不知火海(しらぬいかい)の風景を「静かなる交響楽(シンフォニー)」に例えて表現したことがある。


彼は音楽をこよなく愛し、暗室で作業する際にも常にバッハなどのクラシック音楽を大音量で流していた。彼が水俣の地で感じた風景は、自然の美しさだけではなく、そこに生きる人々の営みや、静かに忍び寄る公害の恐怖、そして再生への祈りが重なり合った、重層的な音楽のようなものだったのだろう。



自著『MINAMATA』の中でも、水俣の海や山、人々の暮らしを音楽的な対比で描き出している。




静謐な序曲として、穏やかな不知火海に鱗を光らせて跳ねる魚たち、早朝の漁に出る舟。


そこに暴力的な不協和音が介入する。

美しい風景の中の巨大な煙突がある。排水口からどす黒い水が流れ出す。

そうした凄惨な被害に遭いながらも、互いを支え合い、企業の責任を問い続ける患者たちの姿。


スミスは彼らの屈強な精神を、苦難を乗り越えて高らかに響き渡る交響楽のフィナーレになぞらえ、そこに「人間の尊厳」という旋律を見出すように。


スミスの写真が持つ「光と影」の強烈なコントラストは、バッハのフーガのように複雑に絡み合いながら、一つの強いメッセージへと収束していく音楽そのもののように見える。



それは、写真(視覚)というよりも音楽的なもの(聴覚)で、独特の響きを写真から放つ理由なのかもしれない。ジャズミュージシャンとの交流や暗室での作業などの写真を見た後に水俣(MINAMATA)の写真を見たからこそ、そう感じた。



今年(2026年)は、1956年に水俣病が公式確認されてから70年という節目にあたるので、ぜひ今後の未来の社会を考えるためにも。


東京都写真美術館

2F展示室

W. ユージン・スミスとニューヨーク ロフトの時代

2026.3.17 (火) — 6.7 (日)

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