M for M Medicine(医療)とMusic(音楽)
- 5月25日
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5月21日のNHK「あさイチ」では、白血病により21歳で亡くなったチェリスト・山本栞路(やまもと かんち)さんの特集が組まれていた。
最新技術を使って彼の生前のチェロの演奏が再現されるまでのあらゆる人の愛が関わった軌跡は素晴らしいものだった。


5月17日、東大五月祭での講演のとき、鉄門ピアノの会の医学部の学生さんと対話をした。その中で「人間には誰でも一人になる時間が必要だ、そのことと音楽や芸術は関係があるのではないか」という話が出た。
私はそのときに、ふと山本栞路(かんち)さんとご両親の活動のことが頭に浮かんだ。
チェリストでもあった若き栞路さんは、病院での入院中に音楽を奏でることができなかった。音楽と生きることとが一つであった音楽家にとって、それは命の一翼をもぎとられるようなつらい日々だったことだろう。
「病室でも音を奏で、音楽を楽しめる場所が欲しい」という願いから「M for M」が設立された。「M for M」では山本栞路さんの遺志を継ぎ、長期入院患者のために病院へ防音室を寄付する活動を行っている。2つのMは、Medicine(医療)とMusic(音楽)を象徴しているとのことだ。


息子がスズキメソードでのバイオリン全国集会でTOYOTAアリーナに集ったときに「M for M」のチラシを受け取り、とても感動したことをおもいだして、五月祭の時にその話をした。
その人の「いのちを呼びさます」ためにも、与えられた人生を1日1日悔いなく大切なものとして過ごすためにも、私たちは一人になる時間、自分のいのちと一対一で向き合う時間が必要だ。
入院中であっても同じことだ。「科学的エビデンス」として表に出てくるものではないかもしれないが、人間にとって大切なことは、素直な心になれば当たり前のこととして感じられることだと思う。それは科学を超えたものだ。
特に音楽家のような表現者にとって、声にならない声は音楽の音色を介してしか出てこないものでもある。
五月祭での対話の返答として「M for M」での病院の防音室のエピソードを紹介した。入院中でも音楽に向き合える神聖な時間と空間。
五月祭で話した時、山本栞路さんのお知り合いの方がちょうど会場で講演を聞かれていて、この5月21日のNHK「あさイチ」の番組を知っておどろいたのだった。
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五月祭の講演の中でも、「いのち」に関する自分の問いの中で、生と死とは、死と生とは、どのような関係性になっているのかが、自分の子供のころからの問いと学びの動機の原点だと述べた。
私は、人生の探求の中で、能楽という日本の伝統芸能と出会い(2011年3月11日、東日本大震災での医療ボランティア活動が出会いの縁となっている)、能楽の稽古に励んだ。能楽、世阿弥、風姿花伝・・・その稽古の中で色々な気づきがあった。
日本という国は、体、心、魂、命に関する叡智を、医学として体系化していった国ではなく、芸術や芸能(古典芸能)という形で体系化して一つに収斂・昇華させていった国なのだと。医学ではなく芸術にした。
文字にするとその解釈に置いて真偽に分かれて論争になる。
しかし、芸術や美の世界にすることで、それは受け手が自由に感じるものとなり、受け手の感受性に応じて、何を受け取るか自由であり多様な開かれたものになる。
私は、そうした気づきもあり、医術と芸術をひとつのものとしてとらえるようにしてきた。分けてしまうから、どうくっつけるかが難しくなるもので、
もともと一つのものであると考えれば、そもそもくっつける必要がない。東洋において心身一如と考えられてきたことと同じこと。心と体は一つのものと考えたほうが自然だ。それは人間と自然とが一如である、ということとも通じるものだ。
古代ギリシアの医師ヒポクラテスの名言に、「芸術は長く、人生は短し」というものがある。
これは、ギリシア語の「テクネー(技術・術)」がラテン語で「アルス(ars)」、英語で「アート(art)」と訳され、日本では「芸術」と翻訳されたためだ。
「医術の道は遠く長いが、人間の寿命は短い」という、医学の奥深さを説いた言葉とも解釈できるが、ヒポクラテスも、医術と芸術(「テクネー(技術・術)」=「アルス(ars)」=「アート(art)」)を一つのものとしてとらえていた表現だったのではないかと、自分は思う。
山本栞路さんは21歳で亡くなられたが、人生は長さが問題なのではなく、生きること、生きたこと、その軌跡そのものが尊いものなのだと思う。質は量に還元できないものだ。実際、栞路さんが生きた軌跡の音色が、時間や空間を超えてあらゆるところに生命の響きを響かせているのだから。それは究極の芸術表現であるとさえ、思う。
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