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新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』@新橋演舞場

新橋演舞場での新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』を見た。

「風の谷のナウシカ」漫画版の全7巻(アニメ版は2巻で終わり)を昼の部、夜の部通しで7-8時間にかけて上演するすごい試みだった。

宮崎駿さんが考えていること、悩んだことと本当に深く共振するには、やはり漫画を全7巻しか読まないとわからないな、というのが正直な感想だ。

歌舞伎版では、それぞれの章や巻でのハイライトだけを歌舞伎の1幕で演じて、そうした1幕1幕が続いていく、、、という特殊な進行方法だったので、ナウシカファンに向けて、というよりも、歌舞伎ファンへ向けて、という感じだったから。 ナウシカがすこし端役のような感じだったし、むしろクシャナの存在感がすごかった。

ただ。 一番最後の最後、夜もふけ、7時間近く歌舞伎を見続けて頭がもうろうしてきた最後。 大詰めの「シュワの墓所の秘密」における演出には圧倒された。

むしろ、歌舞伎のスタイルが、ナウシカすべてを食べてしまうような、歌舞伎という怒涛のエネルギーですべてを包み込むような凄まじい熱演と演出に、ナウシカのことをすっかり忘れてしまうような深い感動があった。

あぁ、歌舞伎は、まさにこういう善も悪も、清濁すべてあわせのむような、人間の業、そのものを描いているのだよなぁ、と。

新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』を見るために、必死で漫画を全7巻読んだ。 2019年の年末に、この深く深い物語を骨の髄まで染み込ませるように読めたのは、最高のギフトだと思った。 どれだけ多くの人が、この機会にナウシカの心と共振しただろう? それだけで、すこしでも世界がいい状態へ向かうのではないかな、と思った。

それにしても、この企画はほんとうにすごくて、こうした豪快な企画を実行に移してしまう歌舞伎界のチャレンジには最高の賛辞を贈りたい!

 

ナウシカ歌舞伎を見る前に漫画版ナウシカによみふけり、

ああ、古典や名作とされるものを再演することの意義は、漫画版『風の谷のナウシカ』が伝えるように、ナウシカというひとりの女性の気持ちに、多くの現代人の意識があわさりあい混ざり合うことにこそ、意義があるんだなあ、と。

忙しい合間、ふと足を止めて古典や名作に立ち返らせる意義こそが。

多くの漫画好き世代は、手塚治虫の火の鳥と、宮崎駿の風の谷のナウシカに莫大な影響を受けたはずだ。 無意識に呑み込めないほど多くの情報を受け取っている。

子供のころしかできないこともたくさんあるが、子どもだからこそできないこともたくさんあった。 当時の無力感は、何ものでもなかった子どもの頃、この現実のリアルを知ったときのもので、大人は何という社会を作ったのだろうかと、落胆していた。 自分がその輪の中に入っていくことに、あまりリアリティーがなかった。

さて、誰もがいつのまにかに大人になる。

イノセンスを核としながら、その場所を脱して、無垢の故郷は遥かなる過去となった。 矛盾と混沌の大海である大人の世界は、歓喜や感動や幸福もあるが、陰謀や裏切りや暴力もあり、天国から地獄まで、どこへでもどこからでもご丁寧に道は通じているから厄介な世界だ。 一寸先は闇、地獄の沙汰も金次第、、、名もなき詩人は不穏な言葉だけを呪いのように未来に残して立ち去った。

私たちが本当に生きたい未来は果たしてやってくるのか、誰にも見当がつかない、、。

ただ、過去も未来も、今ここ、という現在の地平に立って追憶し、想起している。だからこそ、全ては常に現在の課題として立ち現われている。現在が時の流れの結節点だ。過去や未来から出ることはできても、現在からは逃れることはできない。

火の鳥やナウシカに共振した自分の気持ちと正直に向き合って、人生のウソを生きないように、自分の生き方をゴシゴシと手揉み洗いでお洗濯、ゴシゴシと雑巾拭きでお掃除したい。年末はそういう一年の黄昏時。お洗濯やお掃除という暮らしや生活の基礎には、深い真理が顔を出す。 洗いざらいの衣に袖を通し、果たして自分の人生、ウソがないか、悔いはないか、点検し、生きなおし続けないといけない。

風の谷のナウシカの読書体験を通し、宮崎駿さんや時代の苦悩も受け止めながら、深い心身の浄化が起きる。 よき年末だ。 自分の感受性の原点は、このあたりにあるなぁ、と、子どもの自分が顔を出して見つめている。

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