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渋谷能第二夜「熊野(ゆや)」@セルリアンタワー能楽堂

April 27, 2019

昨日はBunkamuraに渋谷能を見に行ってきた。

 

セルリアンタワー能楽堂は、特定の流派の能楽堂ではない。

だからこそ今回の「渋谷能」のように、五流派勢揃いで、しかも若手を中心とした画期的な能が開催される。「伝統と創造シリーズ」(前回はvol.10「HANAGO-花子-」演出・振付|森山開次さん)ではコンテンポラリーダンスも入ってくるほどで。

 

セルリアンタワー能楽堂は伝統的な演目も行われますが、実験的な舞台も開催される素敵なところ。

 


→●「HANAGO-花子-」@セルリアンタワー能楽堂(演出・振付:森山開次)(March 3, 2019)

 

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今回の「渋谷能」2回目。

演目は「熊野(ゆや)」。

春の代表曲とも言えるこの演目。

 

 

 

 

遠江(現在の静岡)にある宿の女主人である熊野(ゆや)は、平宗盛(むねもり)にかわいがられて京都にいる。

ただ、母の具合が悪く、故郷に帰りたいと宗盛に懇願するも、花見の時期まではダメだと言われて故郷に帰れない。

熊野の侍女である朝顔が、母の手紙を持って訪れ、母の手紙を宗盛に読み聞かせて故郷に帰りたいと懇願するも、むしろ清水寺の花見に行くので同行せよ、と命じられてしまう。

 

熊野は、満開の花を見ても心は晴れない。母の安否が気になる。

美しい春の情景と、暗く悲しい熊野の心。外なる光と内なる影との対比が謡や仕舞いによって暗示されていく。

 

花見の最中、突然降った雨が花を散らした。

その光景を見て熊野は思わず和歌を謡う。

 

「いかにせん 都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん」

(都の春が去っていくのも惜しい。みなで行う花見は大事だ。ただそれ以上に、故郷でひとり寂しく散っていく花の方がもっと惜しい・・・)

 

その歌に心動かされた宗盛は、ついに彼女の帰郷を許す。

そこで唐突に能は終わる。

 

・・・・・・

 

 

そもそも、なぜ平宗盛(むねもり)(平清盛の三男)は、熊野を故郷に返さなかったのか、

 

この演目はもともと平家物語から改変されて作られている。すでにこの時代には平家一族の運命に暗雲たちこめていた。だからこそ、平宗盛(むねもり)は花見にこだわった。

 

つまり、この春の芽生えという素晴らしい時期を、もう二度と見ることはできないかもしれない。花見は自分が生きていることを確認する儀式でもあり、平宗盛自身、そして平家一族に死の影がヒタヒタと迫り寄っていたために、どうしても熊野を返したくなかったのだ。

 

 

熊野が思う母の命。そして、平家一族の運命。

いのちは常に生と死が同居しているものだが、

誰にでも母がいて、母のおかげで自分は存在している。

同時に、誰にでも祖先がいて、祖先のおかげで自分は存在している。

 

誰もが背負う命の源。

ただ、その水源こそが壊れて消え失せようとしている。

そうした自分のルーツそのものの死が迫りくる情景や思いこそが、この演目では重ねあわされているのだと思う。

 

 

能では死者が出てくることが多いが、この演目は死者は出てこない。

ただ、母の死、一族の死、が、イメージとして重なってくる。そのことと花が咲く年に1回訪れる花が芽吹いて生命が更新されていく情景とが重ねあわされている。

 

満開の花も、一晩雨が降れば簡単に花は散る。

それは一瞬の出来事。人間にはどうにもすることができない運命のようなもの。

 

 

花びらは確かに散るが、大木そのものが失わなければ、時期が来ればまた大輪の花を咲かせ続けるかもしれない。その風景を自分は決して見ることはできないが、後の時代を生きる人たち(まさにわたしたちのこと)は、きっとその光景を見ているだろう。

 

 

すべては無常であるという真理の一端が、めでたい花見の席でみんなが「体験」し共有した。

雨が降り、花が散った、というありふれた情景なのだが、その場に居合わせたものたちが、そこから真理や運命を読み取ってしまった。

その体験の共有は、人間の意識が一瞬で切り替わるように、舞台も一瞬で切り替わり結末を迎える。

 

何かそうしたことがこの熊野の背景にあるように思う。

 

美しい春の情景と熊野の暗く沈み込んだ心の世界。

外なる光と内なる影の対比は、見る者の何かの体験を引きずり出してきて、心を打つ。

 

今回の渋谷能は、第二夜。

 

金春流の能楽師、中村昌弘さんが主役(シテ)を演じた。

仕舞い(踊り)が本当に美しく、優雅で華やかで、それでいて繊細で脆く、その危うい女性の心を余すことなく舞われていた。

昭和53年生まれで、自分とほぼ同じ年! 

複雑な感情を一瞬の舞いの中に込められるものかと、驚いた。

 

 

この渋谷能は、こうした40代の若手が中心となって主役を演じている。

普通のダンスや舞踊の世界では、40代は一番油が乗り切った時代かもしれないが、能の世界では60歳を越えないと本当に深みを質をもった演技ができないとされて、長い長い修業時代が続く。ダムに水がたまるように、ずっと待ち続ける。

 

 

能楽と言う伝統を背負う若手の人たちの技や表現は、同世代であると考えると群を抜いてすごい領域に達している人が多い。

30代、40代くらいの若い表現者たちが見ると、もっと刺激を受ける会なんじゃないかな。

 

 

能では、「静」が大切にされる。

静の中でひたすら待ちづづけていると、あるとき、ダムが決壊するように感情や動きが爆発的にあふれてくる。

静の中で静かに蓄えられ続けているエネルギーのようなものをこそ、能では大切にしていて、その爆発的な表現により、生と死の扉が一瞬クルッとまわるような、大きな意識な転換のようなものが起きるのだ。

観客は、それをまるで儀式のように体験する。それが能の世界。

だから、自分も儀式として能を見る体験すると、最後に拍手をすることができなくなってしまう。拍手は、自分と演者とがわけられているからこそできる行為で、同じ儀式を体験するものとして能の世界にはまりこんでいくと、拍手ができない。(別にしてもいいのだが、そうした気持ちになれない)

 

そうしたことが、能がエンターテイメントではなく、より儀式に近いという点なのかもしれない。。。

 

 

第一夜:3月1日(金)|能「翁」宝生和英(宝生)/シテ方五流出演者によるトーク

第二夜:4月26日(金)|能「熊野」中村昌弘(金春)

 

と続き、次回からは

 

第三夜:6月7日(金)|能「自然居士」佐々木多門(喜多)

第四夜:7月26日(金)|能「藤戸」髙橋憲正(宝生)

第五夜:9月6日(金)|能「井筒」鵜澤光(観世)

第六夜:10月4日(金)|能「船弁慶 白波之伝」宇髙竜成(金剛)

第七夜:12月6日(金)|舞囃子「高砂 序破急之伝」本田芳樹(金春)/舞囃子「屋島」観世淳夫(観世)/舞囃子「雪 雪踏之拍子」金剛龍謹(金剛)/舞囃子「安宅」和久荘太郎(宝生)/舞囃子「乱」佐藤寛泰(喜多)

 

と続いていく。

自分は今後の会もすべて見に行くつもり。

 

ぜひ30代、40代の方にも、同世代の若き能楽師が、流派を超えて能の神髄を表現し、受け取ろうとしているビビッドな現場に、立ち会っていただきたいです!

 

今回の演目も名作「熊野(ゆや)」で素晴らしかった。

次回以降もますます楽しみです。

 

渋谷能 - セルリアンタワー能楽堂

https://www.ceruleantower-noh.com/lineup/2019/201903.html

 

 

 

 

 

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