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内田裕也さんの死という新たな生

さすが、内田也哉子さんだ。 横尾忠則さんの弔辞もすばらしかった。

人が死を迎えたとき、そのひとの影響力の強さが生の世界へはみ出すように表に出てくると思う。 そのことも生の世界と死の世界との別れ、でもあるのだろう。

二つの世界はくっつきながらも、時に離れる。

備忘録として、全文を掲載します。

横尾忠則さんが作った、第1回ニューイヤー・ワールド・ロックフェスティバルのポスター。

内田裕也さんと親交のあったジョン・レノンの顔が入ったエベレストの上にはUFOが飛び、内田裕也さんの顔も飛んでいる。ほんとうにかっこいいポスターだ。

 

裕也さん、ごぶさたしています。と言ってもあなたを知ってゆうに50年以上がたち、その間に会った回数は5回くらいですよ。もっと会っているようにお互い思っているけど、たった5回なのよね。

裕也さんとの最初の仕事は一柳慧作曲「オペラ 横尾忠則を歌う」の3枚組LPで、内田裕也とフラワーズのバンドでサイケデリックな長い曲を演奏録音してくれたんだけど、この時も会ってないのよね。この大みそかのフラッシュコンサートの時もお互いの担当者の間で進行し、ここでも2人は会ってないのよね。ある時裕也さんが興奮してニューヨークから旅先の四国に電話をくれたことがあったけど、何事かと思ったら「今日ニューヨーク近代美術館で横尾さんの作品を見て、あんまりうれしくて電話しました」と言った時は、心から友情を感じました。携帯電話のない時代だから、ホテルから掛けてくれたんでしょうね。

それから1度、初めて2人でバーベキュー屋に行った時、たまたま2人が同じメーカーの赤い靴を履いていたら、裕也さんは「横尾さんのと取りかえっこしてくれませんか」と言って、取りかえっこしたら、裕也さんの靴下がガーゼみたいに薄くなって、ちびていたんだよね。あの頃2人とも赤い靴下ばかり履いていたんだけど、この間見たテレビでは相変わらず赤い靴下を履いているのを見て、この人のこだわりはコンセプチュアルだなと感心しましたよ。

こんなこともあったな。ファッション誌で裕也さんが出演することになった時、「横尾さんが出るなら出るよ」と言ったために僕も出なきゃいけなくなっちゃった。子どもみたいな人だよね。靴下のことや、このこと。

この前テレビのお宝鑑定団で、このポスターをロックンロールの66万円の値をつけて出して、鑑定士から汚れているとかなんとかケチをつけられて、もう少し安く見積もられてぶぜんとしていたのも、子どもみたいでよかったね。

また何かで裕也さんがステージで謝っていたのをテレビで見て、格好良かったよとメールしたら、そのメールを別の場所で「横尾さんがメールをくれたんだよ」とみんなの前で読んだって。その場にいた人から聞いたけれど、何でもすぐ喜んだり怒ったりする、そんな裕也さんは芸術の重要な核であるインファンテリズム、幼児性の人で、こういうところが格好良くて、人から嫌われ、愛されるところなんですよね。

裕也さんは元々この世というより、最初からあの世から来たような人だから、しばらくこの世で遊んで、「もう面白くなくなったので、田舎に帰るわ」みたいな気分で向こうに帰ったんだと思っているよ。僕はもう生まれ変わりたくないので、向こうの永久国籍を取るつもり。向こうではもっと頻繁に会おうよね。

See you soon.横尾忠則

 

私は正直、父をあまりよく知りません。わかり得ないという言葉の方が正確かもしれません。けれどそれは、ここまで共に過ごした時間の合計が、数週間にも満たないからというだけではなく、生前母が口にしたように、こんなに分かりにくくて、こんなに分かりやすい人はいない。世の中の矛盾を全て表しているのが内田裕也ということが根本にあるように思います。

私の知りうる裕也は、いつ噴火するか分からない火山であり、それと同時に溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、すがすがしく無垢(むく)な存在でもありました。率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。きっと実感のない父と娘の物語が、始まりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。

けれども今日、この瞬間、目の前に広がるこの光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。裕也を見届けようと集まられたおひとりおひとりが持つ父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。父親という概念には到底おさまりきれなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を皆さんは確かに感じとっていた。これ以上、お前は何が知りたいんだ。きっと、父はそう言うでしょう。

そして自問します。私が父から教わったことは何だったのか。それは多分、大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルい奴ではなかったこと。地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。これ以上、生きる上で何を望むんだ。そう聞こえています。

母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかったと申し訳なさそうにつぶやくことがありました。「こんな自分に捕まっちゃったばかりに」と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、おりおりに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。私はそんなきれい事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。

もちろん人は生まれ持って誰のものではなく個人です。歴(れっき)とした世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑(ふ)に落ちません。けれでも、真実は母がそのあり方を自由意思で選んでいたのです。そして父も、1人の女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。

2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。まるで蜃気楼(しんきろう)のように、でも確かに存在した2人。私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなかおもしろいものです。

79年という長い間、父が本当にお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います。

Fuckin' Yuya Uchida,

don't rest in peace

just Rock'nRoll!!

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