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美しい地球 秋谷にて

November 26, 2018

昨日は未来会議の第11回目として、神奈川県横須賀市、三浦半島にある秋谷での会。葉山の隣にあり、本当に素敵な場所だった。こんなとこに住みたい。


スタジオ・アトリエ「秋谷四季」は、写真家の広田行正さんと、歳時記研究家の広田千悦子さんが持たれている場所で、しつらえが丁寧にされていて、空間が凛としていて、時空がねじれるように昔話の空間に来たような感じであった。

 

 

 

 

 


この未来会議のイベントでは、まず黙る、沈黙する、受け取る、そういう閉じる時間を経て、開く時間を設けることを常としている。
まず、沈黙し、他者との交通を閉じながら、感覚だけを外に開いてインプットの時間として歩く。
その後、他者との交通を開き、インプットで得たものをアウトプットする。
歩く瞑想にも、そうした目的を持って。

 

すると、自分という通路を介して、同じ景色が違う体験として、別の姿を現すように立ち現われてくるものだ。
 

 

 

 

 

 

 


その後、秋谷海岸に。
歩いていると、潮(塩、汐)の香りがしてきて、視覚よりも嗅覚がまず最初に反応する。

砂浜はゴミがすくなくて、とてもきれい。普段から、いかに地元の方々が愛情を持って手入れしているか、伝わってくる。

東京駅から1時間で逗子まで来た。そこからバスで移動して秋谷海岸に行けるが、こんなあっという間に太平洋につながるのかと、驚いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裸足で砂を踏みしめて感じること。

永遠のように思える波の反復運動が、硬い石をマイクロビーズのように変形、加工させて、柔らかくそして硬い、砂という形態にまで行きついたのだ、ということ。
足裏の触感に、水や波の手触りが同時に伝わってくるようで。

 

 

あらためて、外で裸足になることが少なくなったと思う。
自分は小学生のころ、裸足運動という名目で裸足で通学していた。それは学校の先生からの提案だったかもしれない。
ただ、コンクリートは熱いので、田んぼや草の上を経由しながら・・・・。

 

 

コンクリートはやはり靴と親和性があるし、土や砂は裸足と親和性がある。
分断しながらつながるか、融和的につながるか、つながり方にも色々なものがある。

 

 

 

 

 

 

水面の上に、光の粒子が散らばり、砂の上にも散らばる。
光の波動は、水を介して顕在化する。
光がすくいとれそうな気さえする。触感すらも動く。

 

水は、日常に溢れている光の世界を、見えない世界から見える世界へと顕在化させ、同時に消失させる変換装置でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

川を歩く、海に行き、アトリエに戻る。

夕暮れのスタジオ・アトリエ「秋谷四季」には、夕焼けがきれいに差し込み、太陽の巡りと時の満ち欠けとが由来を同じにしていることを、空間として感じられるものだった。
 

 

 

 

 

 

 

外に行くと、空が割れていた。
そして、数十万年前から日本大陸にそびえる富士山が、見えた。

 

 

 

 


夕焼けはなんとも言えず美しく、宇宙のドラマを見ているようで。
 色は刻々と変化して、瞬きするだけでも色はすでに移り変わっている。
この世に存在するあらゆる色を、日々わたしたちに改めて確認するかのように。

 

 

 

 

 

 

夕焼けでは、富士山はより一層、富士山であることを主張し、水は水であることを、波は波であることを、空気は空気であることを、ひとつの石も、よりいっそう石である存在を競い合うように主張していた。
わたしたちはここにいるんだ!と、誇り高い存在を、高らかに歌い上げ、合唱して宣言するように。

 

 

 

 

 

 

 


日が昇り、一日が始まる。

日が沈み、一日が終わる。

月が満ちては欠けて、月の円弧が完成されて、一月は過ぎる。

 


この膨大な蓄積はデータベースとしてこの自然界に蓄積される。

画家の絵に画家の人生がすべて込められていて、鑑賞者がその蓄積を読み取ることで関係性の輪は循環する。

 


自然にも自然の生命がすべて込められている。

わたしたちが受け取り、読み取ることで、自然の輪はつながる。

自然界の存在物の中で、「自然の輪」から外れようとしているのは、おそらく人間だけだろう。

人間が、「自然の輪」・「生命の輪」を完成させる、最後のピースなのだ。

 

 

 

 

 

 

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