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猪熊弦一郎の思いを引き継ぐこと

今日は香川県丸亀市にある丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA:Marugame Genichiro-Inokuma Museum of Contemporary Art)のシンポジウム。

「美術館は心の病院」

と語った偉大な画家、猪熊弦一郎。

岡本太郎、猪熊弦一郎、横尾忠則。 日本人画家で頭が何個何個も飛び出ている巨人たちがいて、絵を見て文章を読んで存在を感じて、いつでも再発見して、いつでもInspirationを受け続けるひとたちがいる。

MIMOCAの建築は谷口吉生さん。 以前、鈴木大拙記念館を金沢まで見に行ったとき、あまりの造形と空間の凛とした美しさに驚いた。空間で禅の真髄を沈黙して語る。不立文字。

谷口先生はもう82歳になろうかという方だが、まるで能楽師のように姿勢や佇まいが美しく、驚きっぱなしだった。

自分のなかでレジェンドである谷口先生と同じシンポジストとして出れるのは光栄だった。

打ち合わせ場所も猪熊弦一郎さんのために作られたとされる館長室。まだうっすらと猪熊氏の気配が空間に漂う場所だった。

谷口吉生先生のMIMOCAの建築は、鈴木大拙記念館と同じく瞑想的であり、かつ開放的でもある。空間は胎児を包む母体のように人を優しく包み込む、それでいて都会的な洗練さをあわせもつ、宇宙船のような建築でもあった。

入り口ではMIMOCA27歳の誕生日を祝うように、市場(マルシェ)がやっていた。とってもいい。

中に入ると、過去の展示のポスターが。

27年というときの重みを感じる。

「美術館は心の病院」。

まったく同じ思いだ。

自分は、芸術の中に医療が含まれているイメージを持っている。逆ではなく。

だから、「病院の中に美術館」があることよりも、「美術館の中に病院」がある未来を見ている。主語と述語の違いは、意外に大きい。

MIMOCAのすごいところは、子どもが無料なことだ。この簡単そうに思えることを本当に実践できているのは、美術館の中ではMIMOCAくらいとのこと。

子どもは感受性が鋭い。すべての感覚が開かれている。 子どもがすべて芸術へ開かれていれば、大人もタジタジとなり、アートに興味がない大人もアートを学ぶ必要が出てくる。

ただ、アートを知ることは、結局は自分という無限の世界を最深部まで探求することと同じことなのだが・・・。

自己発見であり、自己探求であり、それは自己教育ですらある。

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猪熊弦一郎 「例えばパリの子供たち、彼らの日常生活では、公園の砂場で遊ぶのと、ルーブル博物館へ行くのと、同じ手軽さなのだ。手には玩具を持って、目からは世界的な藝術がしみこんでいる。」

 

なぜわたしたちは自然体験が必要なのか?

それは、自然体験は、本来的にはすべてが命がけだから。命がけだからこそ、体験は深く染み込む。

なぜこの枝はつかむと折れたのか?なぜこの葉を触ったら皮膚がかぶれたのか?なぜこの岩に踏み込んだら足場が崩れたのか・・・

一見すると見た目が似ていても、一歩間違えると死と隣り合わせなのが自然の世界だ。真実とフェイクとを見分けることは、本来は命がけだ。 昆虫の擬態も、命がけの戦略。

自然における観察は、審美眼として芸術への態度とも地続きでつながっている。 命がけで対象を見ること。それが芸術がわたしたちに要請する生き方の姿勢。

逆に、鑑賞者が確かな審美眼を持つことで、アーティストも「王様は裸だ!」と暴かれる危険性があり、お互いが本気で命がけで必死で切磋琢磨して高めあい、深め合う関係性になる。

 

なぜわたしたちは優れた画家がひく一本の線にでも感動することがあるのか?

画家は、誰よりも多くの線をひいている。 顔を描き、人を描き、自然を描き、イメージを描き続けている。人生をかけて。何度も何度も。

何万回、何十万回、何億回と線をひいているだろう。

その試行錯誤の軌跡は、すべて経験の蓄積として、データベースのように描き手の中に蓄えられ続けている。

その膨大な積み重ねこそが、ミリ単位で調和と不調和とが反転することを体験知として知っている。

だからこそ、一本の線にも、そこには膨大な過去の線をひいた経験が重なっているのだ。描いては消し、描いては塗りつぶし、、、そうした気の遠くなる行為がすべて込められている。だからこそ心は動き、反応する。

最初は、見る側も作品をじっとじっと時間をかけてゆっくりと丁寧に対話するように見ないと、その蓄積を感じ取ることはできない。 見る側にも、そうした見る体験の重層的な蓄積が必要とされるのだ。見る側も、見る行為の経験知が重なり、審美眼が育てられる。いづれ、一瞬で真贋すらわかるようになる。それは骨董品の目利きと同じことだ。

描く側にも、すべての経験が含まれている。 同時に、見る側にも相応の経験が求められる。

イメージという幻のような世界を介して、お互いの人生と人生の重層性が、火花を散るように反応しあうのだ。

猪熊氏の一枚の絵には、画家の内部での闘い、古い自分を乗り越えて新しい自分になる動き続ける闘いが、すべて込められている。

敵は外にはいない。中にしかいない。自己との闘いしかない。

そうした情報をすら、一枚の絵は静かに放射し続けている。

MIMOCAの子供たちへの試み。

芸術の可能性を信じる心。

猪熊氏の芸術への熱い思い。

その思いをひとりひとりが受け取ろうとする態度。 そのすべてを、猪熊氏は天国からおおらかに見守ってくれているだろう。

生者が明確な意思を持ってトーチを受け取ることで、死は生の中に入りこみ、新たな生を受胎するものだと思う。

MIMOCAの改修工事が終わったら、RepairではなくRebornした姿を、また確認しにきたい。

素晴らしい機会を、本当にありがとうございました!

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