top of page

出会い

ヨコハマトリエンナーレ2017でのヨコハマラウンド8(最終回)を聞きに行き、養老先生がおっしゃっていたことが面白かった。養老先生の話や問いは、常に物事の本質をずばりついていて、本当にすごい方だと思う。示唆的な発言が満載だった。

 

都市とアート(芸術)の関係。

都市は意味があるもので満ちている。

人工的なものは、かならず誰かの意図がある。そこに何か意味があり意図がある。

確かにそうだ。

道を歩くと、

道路、標識、自動販売器、駅、自動改札機、ビル、窓、ドア、排水溝、、、、

すべて、意味がある。

ただ、自然の中では、

石、草、木、水、池、風、、、そこに意味はない。

ただ、自然があるだけだ。

都市は意味があるもので満たされている。

意味、意味、意味・・・・意味に押しつぶされそうになる。

日々の中でも、

これをやる意味、働く意味、生きる意味、・・・・。意味を問われる。 人間は高度な脳を持ち、考えることを得たが、同時に副作用として悩むことも覚えた。

意味ってなんだろう?

意味に答えがあるものもあれば、答えがないものも多い。

都市生活では、人間の意図があり、何か意味があるものに満たされているから、人間の生理は無意識にバランスを取ろうとする。

無意味なものに触れたくなる。

それが自然に触れたくなることであったり、アート(芸術)に触れたくなることであったりする。

だからこそ、都市ではアート(芸術)が発展する。

 

そんなことを養老先生がおっしゃっていた。

そういう意味でも、アート(芸術)にあまり意味や意図が付着していると、疲れるんだろう。意味を長々と説明されてしまうと疲れる時がある。

アート(芸術)は永遠なる謎が含まれていてほしいな、と思う。

自分が大好きな横尾忠則さんの絵も、岡本太郎さんの絵も、謎ばかりだ。そして、強い吸引力で惹きつけられる。

自分も絵をよく描いているが、自分でも何を描いているのかさっぱりわからない。自分自身が謎だらけだ。だからこそ楽しいのだ。

横浜美術館で開催されているヨコハマトリエンナーレは、ついに11月5日まで!

次は3年後の2020年らしい。

自分はプレイベントのヨコハマラウンドから関わっているので、なんだか寂しい(ヨコハマラウンド3に出ました)。

今日も横浜美術館は長蛇の列だった。まだ行けてない人は是非!

補足

島と海と海底火山、星(May 30, 2017)→ヨコハマラウンド3での記録。

おまけ

そのとき配布した資料。

 

ヨコハマトリエンナーレ2017でのヨコハマラウンド8(最終回)の後で、光栄にも尊敬する養老孟司先生とすこしお話しさせていただいた。(学生のころから、養老先生の本はすべて読んでいます。どの本も面白い!)

共通の知人である坂口恭平君(熊本高校の同級生です)の話題が出たので、思い出し、久しぶりに彼のTwitterを見た。(Twitterをしていないと、ほかの人のTwitterを見ない・・)

→●坂口恭平@zhtsss やっぱり、彼は天才だなー!

自分自身に正直に生き続けてる。

それは色んな摩擦が起きるけど、その分、個を深く深く深く掘り続けていくと、普遍の鉱脈に通じる。 そういうことを地で行っている稀有な人物だ。

坂口恭平くんは、文体もすごいし、絵もすごい。音楽の感性も素晴らしい!

彼はすべてが既成概念からはみ出しているから(新作の「しみ」のように、しかも非連続的にはみ出している)、オーソリティーの中に彼をただしく評価できる人がほとんどいないのが、不幸なのか幸福なのか・・・、とさえ思う。本流のオーソリティーが評価できなくても、彼を好きな人は本当にコアにディープに好きな人が多いだろう。

まだ、彼のすごさを評価できるほどには、社会が成熟してない。

評価っていうのは、ある意味で上から下へ、という方向性を含んだものだから、坂口恭平という巨大な謎と希望(と絶望も含む)とを大きく包み込める器のひとでないと、評価すらできないはずだ。

アートも音楽も、表現も、すべてを突き抜けて越えて、生きるっていう行為にすべて結実してるのがすごい!

死にそうになる状態と生きる状態とを反復しながら生きている姿に、勇気をもらっている人は多いだろう。

坂口君の生きざまは、意味と無意味とを大きく包含して、赤ん坊のように日々を懸命に命がけで生きている、かっこいい人だ!

 

横トリを見たり、養老先生の話にうんうんとうなずいたり、坂口くんの生き様を見ていると、アートの本質って何?と、ふと考えてしまう。

芸術やアートには色んな定義ができるし、色々なものを見出せるだろう。

その中で、自分は「見立てる」力の大切さ、を感じる。

千利休は壊れた茶碗にも美しさを「見立て」たりすることが超一流だった。

美を発見すること。

いますでにあるものの中に、補助線を引くようにして新たな関係性やつながりを「見立て」る。

見立てるには、自分自身のイメージの力が必要になる。

今はインターネットでいろいろなイメージが乱立しているが、ほかの誰でもない自分自身のイメージの力がないと、何かを見立てていくのは難しい。

人間の表層意識の下には、広大なイメージの世界(イマージュ)が裏打ちしている。 自分のイメージを活性化させるためには自分自身の無意識と交流する必要がある。

そして、人間は誰でも、夢や睡眠で自分自身とのイメージ体験を日々行っている。

そうした人間や人体で起こる日々の神秘現象のドラマが、イメージの力やイマジネーションのもっとも基礎にあるものだと思うし、美術の母胎でもあると、思う。

イメージの力は大きく、自分ではない他者が意図をもって作ったイメージは、先入観をつくる。

偏見や先入観は、誰かのイメージが自分の内的世界を汚染して起こる現象だ。

多くの出会いは、そうした先入観のもとで起こる。

ただ、相手と真に出会うためには、偏見や先入観は、いらない。

真の出会い、というのは奥が深いものだ。

自分は、常に相手と出会うとき、偏見や先入観なしに、相手自身と真の出会いをしたいといつも思っている。

・・・・

このブログも、そうした真の出会いにつながるものであればいいな、と思いながら、書き続けています。

bottom of page