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commmons: schola vol.1 Ryuichi Sakamoto Selections: J.S.Bach

坂本龍一さん監修による、音楽全集“commmons: schola”シリーズ。 第1巻は、J.S.Bach(バッハ)。

1冊8500円とお高いので、図書館で借りてちびりちびりと読んでいるが、面白い!! バッハの偉大さを改めて思い知った。

レコードで、バッハを聞くと格別なものがある。

数学的でありながら、調和を主としたイデアに通じる音楽は、すべての音楽の基礎にあるようだ。

クラシックの歴史を見ると、近代ではJazzや現代音楽など、どんどんカオスになっている。自由ともいえる。

ただ、現代がカオスになっても成立しうるのは、やはりバッハのような偉大な音楽家が、揺るぎない超人間的な音楽を作り続けていた、そうした強く深い根っこがあるからこそだ。

バッハ当時の音楽も、中心はヴィヴァルディ、ヘンデルで、バッハは周縁の人だったと坂本さんはおっしゃる。 中心の人物ではなかったからこそ、自分の内的な世界にどっぷりつかり、とことん音楽の深淵へと深まり続けた。

そうした個別性を突き抜けると普遍性へと通じる道が開けることは、勇気や希望をもらう。

commmons: scholaは、坂本龍一さんの確かな教養と深い経験に裏打ちされた的確で簡潔な解説があり、本当に面白い。バッハへの愛も伝わってくる。

坂本龍一さんほど、広く深く、ポピュラーとしての音楽と、芸術としての音楽と、多面的に追求した人はほとんどいないだろう。そういう意味でも、解説も当事者の視点がはいっていて、的確だ。

改めて、音楽の歴史をさらいながら、人類の行く末を今一度考えてみたいと思わせてくれる今日この頃だ。

1冊につき厳選に厳選を重ねた素晴らしい選曲のCDもついているので、さらに理解が深まる!

1.カンタータ 第140番「目覚めよ、とわれらに声が呼びかける」~コーラル 2.カンタータ 第147番「心と口と行いと生活が」~コーラル 3.マタイ受難曲~コーラル「血潮したたる、傷だらけの御頭」 4.平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第6番 5.ゴルトベルク変奏曲~アリア 6.無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番~シャコンヌ 7.無伴奏チェロ組曲 第1番~プレリュード 8.2つのヴァイオリンのための協奏曲~ヴィヴァーチェ 9.管弦楽組曲第2番~バディヌリ(スウィングル編曲) 10.音楽の奉げもの~3声のリチェルカーレ 11.音楽の奉げもの~6声のリチェルカーレ(ウェーベルン編曲) 12.音楽の奉げもの~トリオ・ソナタ~ラルゴ 13.フーガの技法~コントラプンクトゥス1 14.フーガの技法~コントラプンクトゥス14

バッハについての、巨匠からのあれこれが、本では紹介されている。

その引用も面白い!

キースジャレット『ソロ・コンサート、儀式』 「バッハは透明だ。そこに色彩はない。あまりにも強力すぎて、色が見えないんだ。 バッハが何かを書く時、それがあまりにも明確で透明なので色は消えてしまう。 ぼくがバッハを色彩的なイメージなしで演奏すると、この音楽には十分に感情がこめられていないとみんなが言う。ぼくが色彩的に弾くとすると、色を選ばなくてはならないけれど、バッハの音楽はそういった次元のものではないと信じている。バッハの音楽は明確に(透明感をもって)弾かれるべきだ。」

吉田秀和『バッハの数と神秘』 「私は「音楽とは何か?」といった類のものを書くことはしなかった。「それはバッハを聴けばわかる」。これが私の答のほとんどすべてであった。 では、バッハを聴くと、何がわかるか? 「音楽の肉体は踊りであり、音楽の真髄は和人神秘だ」ということがわかるのである。」

グレン・グールド(Glenn Gould)『1955年録音「ゴルトベルグ変奏曲」ライナーノート』より 「ひとことで言えば、それは終わりも始まりもない音楽であり、真のクライマックスも、真の解決もない音楽であり、ボードレールの恋人たちのように、「とどまることない風の翼に軽々と止まっている」音楽である。 そしてそこには、直覚によって統合された調和がある。 この調和は技と吟味から生まれ、完成された技能によって円熟し、ここに、芸術の中ではきわめてまれなことであるが、意識下に書かれた構想の幻影としてあらわれている。 可能性の頂点になって勝ち誇りつつ。」

●[HD] Bach's Goldberg Variations [Glenn Gould, 1981 record] (BWV 988)

●Glenn Gould - J.S. Bach "Goldberg Variations", 03.06.1964 (OFFICIAL)

自分も、グレン・グールドの1955年録音盤のレコードを持っているが(このLPには若きグレングールドのInterviewの肉声までLPとしてついている!)、グレングールドの両手が別の人格を持った生き物を持ったようなピアノのタッチに、いつも心をわしづかみにされる。

フルトヴェングラー(Furtwängler)『音と言葉』 バッハには刹那への集中、しかも未知未聞の広いはるけさによって結ばれた集中があり、真に全体への至上の展望を加味した刹那刹那の端的な充溢があります。

近さとはるけさに対して同時に生々と目覚めた感情を備え、 「ただ今」、「ここに」という奔放な充溢を持ったバッハの音楽、構成に対し、全体の大きな流れに対してたえず地層下的にはっきり意識した情操、「近さの体験」とともに、「はるけさを聴く」感覚を織り交ぜたバッハの音楽は、生理的なたしかさと自然的な力を兼ね備えた実例であり、 かかるものは音楽の世界においては、バッハをおいて他に例があるとも思われません。

パブロ・カザルス(Pablo Casals)『ホセ・マリア・コレドールとの対話」 「フルトヴェングラーは『マタイ受難曲』のことを「この傑作、あらゆる音楽で至上のもの」と言っています。

私もまったく同じ意見だ。 パリで『マタイ受難曲』をはじめて聴いた時、ショックがあまりに強くて、私は二か月のあいだ、そのために病気になってしまった。 私は窒息するような感じがし、思うようになくことさえできなかった。 それほどの偉大さが私を打ちのめしたのだ。」

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