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大友良英「音楽と美術のあいだ」

大友良英さんの「音楽と美術のあいだ」という対談本を読んだ、

フィルムアート社から出ている素敵な装丁。440ページという大著!

とは言え、対談本なので、ツルツルとソーメンのように喉ごしよくあっという間に読めました。当直の合間に、ひっそりとした夜中に。

エリック・ドルフィー(Eric Dolphy)の「out to lunch」(1964年)を聞き、大友さんがエリック・ドルフィーを受け継ぎながら発展・深化・大友化させた、otomo yoshihide's new jazz orchestraの「out to lunch」(2005年)を聞きながら。

●Eric Dolphy 'Out To Lunch!'

●otomo yoshihide's new jazz orchestra - out to lunch [2005] full album

Eric Dolphyは36歳の若さで亡くなったJazz奏者で、チャールズ・ミンガス楽団にも加わっていたJazz界では重要な人物。

ちなみに、大友さんのotomo yoshihide's new jazz orchestra「out to lunch」(2005年)に関しては、「JAZZ100の扉 チャーリーパーカーから大友良英まで」(村井 康司さん)という本でも紹介されていたのだ。(「Jazz100の扉」でも、未知のJazz名アルバムを勉強させてもらった。Youtubeで聞けるのがすごい時代だ。)

脱線。

この本では、独自の表現を続ける6人(刀根康尚さん、鈴木昭男さん、毛利悠子さん、梅田哲也さん、堀尾寛太さん、Sachiko Mさん)と、大友さんとの対談が載っている。 色んな世代の色んな経歴を持つ方々。 自分も初めて知る方が多く、色々と勉強になり、刺激になった。

基本的には、ジャンルを固定化できない世界、ジャンルが常に流動化しているような方々が対談相手で、大友さんの在り方ともそういう点がシンクロしていた。

自分自身も、ジャンル分け自体が、あまり好きではない。 人は、あらゆる思想や興味や感覚を持って生きているし、その中に相反する矛盾したものも数多く含まれている。 それはすべて、「一人の人間」というの中に統合されて表現されていて、そういう人間の在り方自体がすごいと思う。人間の中には、思いもかけないバラバラのあらゆるものが統一感なくMixされていて、その配合がその人そのものになるからだ。

ジャンル分けにあまりとらわれてしまうと、その枠内でしか発想できなくなる。音楽と美術で最も大切な「自由」自体が失われてしまう。そうなると、何のためにやっているのか本末転倒になる。

この本では、大友さんが共鳴する、そうした線引き不能なジャンルで活躍している方々のインタビューでもあり、その本質において学ぶことが多かった。

大友さんは「祭り」を現代の文脈で取り戻そうとしているのがよく伝わってきたし、音楽活動だけではなく、いかに広範な領域に活動をしているのかもよくわかった。すべてのものに対して心を開き、特に「驚き」「分からなさ」を大切にしている姿勢。

「分からない」ことを簡単に合理化してしまうのではなく、「分からない」ものを大切に「分からない」ままにしておくのも、力がいるのだ。

ジャンル分けで細分化・専門化され過ぎて、「あいだ」が阻害や分断へと機能してしまっているからこそ、「あいだ」を新しい関係を結び直す場として見直してみる必要がある。

つなぎあわせるというのは、すでに創造的なことだ。

 

大友さんが、シンガポールのアーティスト、ザイ・クーニン(Zai Kuning)との2000年のエピソードをあげているところが心に響いた。

とあるワークショップで、ある女性が歌うと、場がしらけてしまっていた。

その場では少し浮いていて、なんでこういう素人の歌い手が参加しているの?という気まずい空気が流れていた。

そのとき、シンガポールのアーティスト、ザイ・クーニンが彼女のそばで踊りだしたのだ。 すると、場の空気が一変した。 彼が踊ることで空間が別世界のように開き、居場所を失いつつあった女性に、適切な居場所ができた。

大友さんはその現場を見て、いじめや仲間外れの萌芽のような現場にザイ・クーニンは悲しい目をして怒っていたのだろう、と言う。

「表現っていうのは、こういうことだよなって思ったんです。

自分を表現するとかじゃなく、瞬間的に状況設定をガーンと変えてしまうことで、それまで居場所のなかった子がいられるようになる。それは僕の中では人生が変わるくらい大きな経験でした。それがすべてのきっかけです。」 表現とはそういうことではないかと大友さんが書かれていて、とても心に響いた。

NHKのスイッチの時も、大友さんは「音楽は居場所を作る重要なツールだ」と言っていた。大友さんの感性や大切にしていることは一貫している。

自分も、仲間外れやいじめ、が子どものころ嫌いだった。するのも嫌いだし、されるのも嫌いだし、そういう状況を見て見ぬふりをするのも嫌いだった。

小さく狭いグループに分かれて、どちらかのグループをとるように迫られるのも、本当に嫌だった。

子どもの現場で起きていることは、大人の社会の縮図だから、大人の世界で仲間外れやいじめを減らす必要があると思う。自分がまだ科学になりえないジャンルに取り組んでいるのも、そうした声にならない声を無視したくない、という思いもある。

おそらく、この対談に出ている皆さんは、そうした素直でシンプルな問いから活動は始まっていて、その問いに対する答えがあらゆる形態をとりながら「表現」として継続している。そうした全体像こそが、すごいんだろうな、と思ったのでした。

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