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国立能楽堂「七拾七年会」2日目

国立能楽堂に「七拾七年会 第10回記念公演」の2日目を見に行ってきた。

能「海士 懐中之舞」は武田宗典さんがシテをされた。 内容は、まさに『海士(海人、あま)』の女性が主人公。 能楽では、主人公は幽霊など異界の存在になっている。 異界の存在を中心軸として能の舞台は展開して行く。

『海士(海人、あま)』が主人公になる。その設定自体が素晴らしいと思う。

母のルーツを尋ねて四国(現在の香川県さぬき市志度 志度寺の地)を訪れた房前大臣の前に現れる、一人の海人。 彼女は、ある大臣を生みこの地で亡くなった一人の海人の壮絶な物語を語りはじまる。 その悲劇の海人は、まさにこの語り手そのものであり、房前大臣の母親の霊であった。

この海人は、海の底にある竜宮に玉を奪われた。 その玉を竜宮から取り戻すところを再現して舞う。(玉之段)

深海や、海に深く潜る、という行為は、夢の中では無意識に深くもぐることの象徴として現れることがある。 海や水は、無意識そのもの。常に近くにありながら、未解明な謎の存在として。

奪われて失った魂を(沖縄では『まぶいを落とす』と言う)、自分の深い無意識へとダイブして、命がけで取り戻しに行くのだ。

しかも、竜宮に飛び込んで玉を取り返し、最後は自分の乳房を搔き切ってそこに玉を押し込むという壮絶な描写。

そのときの宗典さんの仕舞いが素晴らしかった。

たたずまいが、まず美しい。 軸が一本通り、身体はぶれない。 能楽師は、何もしなくても、ただそこにいるだけでしっかりとした存在感を主張する。

女性の儚さ、それでいて海に生きる女性のたくましい強さ。 そうした母性の姿を、存在やたたずまいだけで表現していた。

いのちがけの行為は、本来は悲しく目が背けたくなるほど辛い情景。

ただ、能楽ではそうした人間の感情が起こる母体となる、感情のさらに下の部分を扱う。 そこは非人間的な領域でありながら、人間を存在させる基盤となる領域でもある。 能楽の世界が知的に理解しにくいのはそのためだ。

知的活動や感情が湧いてくる泉であり、母体そのものの深い層を扱っているのだから。だからこそ、時を越えて伝わっているのだろう。

そうした困難な領域を身体や声で表現するために、能楽師は日々稽古をしているのだと思う。

息子の房前が法華経をよみ、成仏した母は、竜女の姿に変身して舞う。 竜は、人間ではない異界のものだ。 だから、身体も異界の身体を持つ。

そうした身体性を、宗典さんの動きは美しく表現していた。 それは「型」でしか表現できない動き。

舞っているときに、動いている体の後ろには長い長い身体が見えるようだった。 それは、宗典さんの仕舞いと、見ている側との共同作業により、舞台が完成するということ。 能の舞台はそうした想像力が入り込む余地としての余白をあえて残しているからこそ、極めて自由度が高いと思う。

ちなみに、 日本の古代語の「あま」は、天(あま)であり、雨(あめ)であり、海(あま)である。天も空間も海も、すべてはひとつながりになっていて、それは水が媒介となっている。 古代の人は、外側に広がる自然を、ひとつの統一した場だと直感していた。 古事記や日本書紀で、最初に「あめのみなかぬし」が出てくるのも、「あまてらすおおみかみ」が日本の神様で大切なのも、同じ事だと思う。 「あま」は、僕らを見守っている存在でありながら、支えている存在である。そうした母なる存在そのものなのだ。

・・・・・・・・・ 武田宗典さんをはじめ、登場しているみなさんの今後の活躍がとっても楽しみな舞台でした。 同世代として、自分も勇気をもらいました。 素晴らしい舞台をありがとうございます。

======= 「七拾七年会 第10回記念公演」 ○18時開演(終了予定21時前) ○於:国立能楽堂(千駄ヶ谷駅より徒歩5分)

◇<二日目>22日(水) 一調 「屋島」武田文志 原岡一之 「西行桜」武田宗和 小寺真佐人 「女郎花」味方玄 住駒充彦 

狂言「惣八」  山本則重 山本則孝 山本則秀

解説 武田文志

能「海士 懐中之舞」  武田宗典 森常好

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