© All right reserved TOSHIRO INABA

荒川修作さんと三鷹天命反転住宅

January 4, 2017


2017-01-04 00:03:04 | 人

年末は三鷹天命反転住宅に宿泊した。
熊本高校の同級生である坂口恭平君が高校時代に建築家志望だったのだが(実際、早稲田の建築に入り、『建てない建築家』として建築そのものの土台を根底から問い直す全方位的な活動をしている)、彼が荒川修作さんのことを語っていたので、自分も高校生時代から荒川さんのことは追っていた。



荒川さんに関して興味を持ったのは、「意味のメカニズム」という著作の中で、抽象世界から具体世界へと、意味が生まれてくる「意味の発生学」を追求しようとしたところ。受精卵から胎児へ、胎児から大人へ、というよう意味が生まれていく意味発生のプロセス。

 

 

*荒川修作と妻マドリン・ギンズ(Madeline H. Gins)による共著(1979年、ギャラリー・たかぎ)「The Mechanism of Meaning: Work in progress(1963-1971, 1978). Based on the method of ARAKAWA」


高校時代に図書館で探して読んで、大人が常識を壊して果敢に挑戦しているその態度自体に感銘を受けたのだった。
知的には理解できなかったが、それは全く問題ではなかった。

「意味の発生」前後の領域では、知的パラドックスの世界になる。
パラドックス(paradox)とは、「I always lie.」のように自己矛盾を起こす命題のこと。
概念化や言語化は難しい。
だから芸術に接近してしまうのだ、ということを学んだ。

 


★★
自分が、抽象世界から具体世界への橋渡しに興味があるのは、自分の身体感覚に由来する。
これは本当にどうでもいい話のようで、どうでもよくない話なのだが、自分は血圧が低く、収縮期血圧が80‐90mmHgしかない。低血圧なので、いつも立つたびに立ちくらみがする。脳へ血流を送るのが0.1秒ほど遅れるのだろう。

日常的にめまいと立ちくらみを体験しているのだが、その時に発見があった。
つまり、視覚がくらくらしていて、ゆっくりと外界への像を結んでいく。
そのプロセスが、かなり面白いと思うようになったのだった。


めまいを辛いと思う自分、面白いと思う自分、それを俯瞰的に観察している自分。
その3つのパラレルな自分が光のように重なっているという自己認識を得た時、そうした身体感覚を楽しむようになった。
それは、抽象画と具象画の世界だった。

・・・
そうなると、課題やテーマは次にうつる。
外界を見ている自分の認識自体が、いかに脆く危ういものなのか、ということを感じるようになったのだ。
脳が合成して世界を認識している、ということを頭ではなく、身体感覚で腑に落ちたのだ。


めまいが続く抽象的な世界も、めまいや立ちくらみが収まって認識ている明確で具体的な世界も、眼鏡を外して視力0.1で見ている世界も、すべては自分次第で、どのレイヤーに自分がコミットしていくかどうか、という問題だと気付いたのだった。それは視覚により外界と内界をつないだ世界。

だから、自分は抽象世界に興味があり、そこと連続した具体世界にも参加している自覚がある。
その上で、ふたつの橋渡しの世界は「自己探求」「自己解明」「自己開示」の一環として追求してきた。
それは時に医療になり、時に芸術へと変化するものであることがわかった。

 

 

★★
荒川さんのあり方に関して興味を持っていたことは何個かある。
彼は最終的に「死なない」ということを探求した。「死なないための家」の第一号として、「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller」を完成させたのだった。

荒川さんの「死なないための家」を、自分は少し違う観点で見ている。

一つ目は、生の中に死を定位させて生きる、ということ。死を適切な形で生と統合させて生きる、ということだ。死の全体性や本質から目をそむけず、包容し統合して生きることのStatementだと自分は受け取った。

二つ目は、生の中に死を定位させる具体的な実践として、生を日々生成しながら生きる、ということを建築から感じた。
日本神話の古事記でも同様のテーマが語られる。

 

 

★★★
夫イザナギと妻イザナミ。
妻イザナミは、「火」を生んで死ぬ。神話ではじめて「死」が誕生した瞬間。
夫イザナギは、「死」という事態を受け入れることが出来ない。
黄泉の国へと移動した妻イザナミを、イザナギは追っていく。
イザナミは『見るな』というが、イザナギは約束を破って見た。そこには腐敗したイザナミの死があった。
死者であるイザナミは追い、生者であるイザナギは逃げる。
黄泉比良坂(よもつひらさか)で二人は対話する。
イザナミが「あなたの国の人を1000人殺す」と言った時、
イザナミは「それなら1500の産屋を立てる」と答えた。
日本神話では、「死」という事態をどういう風にして乗り越えてきたのか。
それは、「死」を超える「生」を創造することで、「死」を解決したのだった。
つまり、それは大きな「生」の中に「死」を位置づけた、という風にもとれる。
いのちは、受け取ることを決めたら受け取ることができる。死の連がりの中で、死んだ人の思いを受け取りながら生きさえすれば、死は生の中に定位され、いのちが繋がっていく。という風に理解した。

 

 

★★★★

荒川さんの「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller」は、そうした試みの一環して、住まいを創ったのだと自分は思った。

つまり、生を生成させていく住まい。
常に生きている実感を持つための住まい。
常に生きていることが求められる。
4つ足歩行も必要とされる。
天と地の軸をつなぐことも求められる。


天地の軸は、家の中では天井からぶらさげられる物体により、重力のラインを視覚で補正できるようになっている。
ちなみに、外の自然界では植物が天地軸を結ぶ役割をしている。木や草花を見れば、どんな傾いたところでも天地軸が分かる(もちろん、光に影響されるところも考慮に入れる)。
三鷹天命反転住宅の中は、自然の中のようにごつごつしていて、山の傾斜で野営せざるを得ないときに、山の起伏で寝ている時を思い出した。

そうした自然と文明との共存。それは都市部でこそ必要とされるものだ。
生と死との共存。それは人類全体が共有しているテーマだ。

いろいろなテーマが複合的に込められていると感じた。まさに荒川さんの人生という芸術作品の集大成だと自分は思った。

 

 

 

ちなみに、三鷹天命反転住宅に集った理由は、オリンピックのバランスを戻すための試みとしての裏オリンピックの準備会を、年末に関わらずみんなで遊びながら行ったのが理由だ。
そこでミニ忍術ワークショップもしてもらった。
忍者や忍術の世界が持つ身体技法は、まさに表の世界でのオリンピックに対して、裏側から支える裏の身体技法として興味深く面白い世界だった。自分も以前から調べていたのだが、職業が「忍者」である五十嵐さん(習志野 青龍窟さん)に教わり、さらに理解が深まった。ありがとうございました。
ぬきあし、さしあし、しのびあし。

 

 

 

 

 


色々な事を思う三鷹天命反転住宅だった。
人間の生命やくらしを考えることは、「衣食住」を統合していくこともである。

 

 

 

 

 


★★★★★

ちなみに、自分は三鷹天命反転住宅の中の黄色のドーム内で寝た。そこで印象的な夢を見た。

その夢は、星空を見あげ続ける夢。視点の主体は土だった。
星は全体性の中で抽象的な意味や図形を示しているのだが、その図形を読み解けない。それが自分の実力不足に由来する、ということも理解している。星の一部は流れ星となり、動き続け、星全体のパターン自体も変わり続けている。そうした星の全体性を見ている。
止まっている星がつくる静的な星の全体性と、動き流れ続けている星がつくる動的な星の全体性とは、補い合いながらひとつのシステムとして大きな意味を示しているのだが、その意味するところを読み解けないでいる。そこに未知の「意味」が潜んでいる、ということだけは分かっているのだが・・・。その意味はもう少しで分かりそうだが、何か自分が関与する行為こそがその失われたピースになっているような自覚がある。その間中、視点は定点として常に土にあり(土の中か?)、土全体から星全体を見上げている。・・・・
そういう不思議な夢を見て、起きた。


偶然なのか必然なのか、近くには国立天文台がある。
人生は常にはじまりであり、おわり。おわりであり、はじまり。

人間は、夢を大切にして生きなければならない。


三鷹天命反転住宅 – 荒川修作+マドリン・ギンズ

三鷹キャンパス 国立天文台
 

Share on Facebook
Share on Twitter
Please reload