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大学入試に採用頂き有難うございます。

聖カタリナ大学の今年の入試に、稲葉俊郎『ころころするからだ』(春秋社、2018)から出典頂きました!

ありがとうございます!







聖カタリナ大学

〒799-2496 愛媛県松山市北条660


大学の由来となるシエナのカテリーナ (1347-1380年)は、ドミニコ会の修道女の方。病人や貧者を助けることに人生を捧げ、病院や自宅へ出向き、信仰教書の学習にも人生を注いだ、とのこと。

彼女はある意味では聖女ヒルデガルドのようなところがあり、1366年頃、カテリーナが病気がちになり始めてから『キリストとの神秘の結婚』を手紙につづったところ、キリストは幻視のなかでカテリーナにしか見えない輝く指輪を与え、あるときにはカテリーナの心臓とキリストの心臓を取り替える幻視を受け、聖痕も受けた、とのことです。


今年は色んな大学、高校、予備校模試、中学!までもが試験問題に自分の著作を採用してくれて嬉しいなぁ。


聖カタリナ大学の志望じゃない方も、ぜひ試験問題解いてみてください。

自分は満点でした!笑











 

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問題の出典は、

第二章 

「身体に耳を澄ます――言葉と医療」

より。

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西洋医学においては、基本的に「因果論」で体の現象を捉えていく。「原因」があるからこそ「結果」が起きていると考えるので、「原因」さえ解決すれば「結果」として起きている問題は解決するのだと考える。そういう考え方の中で、「原因」としての「病名」が数多く命名されてきた。もちろん、一つの原因が判明した場合には、極めて迅速にかつ確実に対処できるだろう。外傷や感染症などが、「因果論」で説明しやすい最たるものだ。身心に起きている原因を突き止め、「病名」として分類し、「病気」へと至った因果の鎖を断ち切るように治療を行う。こうした西洋医学のアプローチが有効である場合も多いことは、医療従事者であればもちろんよく知っている。


 ただ、現場で数多くの症例を見ていると、たった一つの原因ですべてを説明できること自体が、かなり稀なケースであることもよく知っている。なぜなら、人には誰もが生きてきただけの時間の蓄積や重みがある。人には生きてきただけの歴史という厚みがある。そうした生きる営みを重ねていく中で、体は不具合を起こさざるを得ない様々なことが起きてしまうのは当然とも言える。食生活、ストレス(と簡単に述べたが、複雑に起きる心の反応はほとんどが未知だ)、住環境、生活習慣、体質や気質……あらゆる要素がひとりひとり異なる。たとえば、川が氾濫を起こした場合を考えてみよう。大雨や台風が川の氾濫を起こしたと考えることもできるが、もっとひいた視点で全体像を見てみると、川が氾濫しやすい状況が様々な状況の中で少しずつ準備されていて、大雨や台風はその最後の一押しを押したきっかけに過ぎない、と考えることもできる。川と一言で言っても、すべての風土や地形や大きさなど実に多様である。そう考えると、川が氾濫してから災害に対応するよりも、災害が起きないように事前に行う対応策や予防策の方が、より重要であることが分かるだろう。



メッセージを読み取る

 では、そうした「因果論」だけで体や心に起きる現象を考えることに限界があるとしたら、他にどのような選択肢があるのだろうか。自分は、心身に起きる現象に対して、「因果論」で原因も考えることは当然行っているが、同時に「目的論」としても重ねて考えあわせるようにしている。「因果論」では視線が過去の方に向かっていくが、「目的論」では視線を未来の方に向けていく。「目的論」とは、「いまこういう状況が起きていることは、どういう目的があるのだろうか。何を実現しようとしてこうした状況を起こしているのだろうか」と考え、「では、どうすればいいだろう」と、前向きに捉えてみる考え方のことだ。因果論で原因を探していると、「そもそもあの時こうすればよかった」「もう過去には戻れないからどうしようもない」というように、どうしても考え自体が後ろ向きになってしまう。アドラー心理学においても、心の働きを「目的論」の結果として捉えてみることを提案している。


 たとえば、「引きこもり」の状態である人の対応を考えてみる。「うつ病だから外に出ることができない」と考えるのが従来の因果論であるとすれば、「外に出ることができないのは、どういう目的を実現するためだろうか。何を実現するために、外に出ないという状況を創りだしているのだろうか」と、考えてみる。現在の体に起きている状態(この場合は「体が外に向かって動かない」)を尊重し、そうした心身の行動には、自分が気づいていないだけで、実は合理的で「隠れた意図」があると考えてみるのだ。

 こうした「目的論」で体に起きる症状や現象を考えてみることは、そのまま冒頭で挙げた「言葉」の問題にもつながる。つまり、「体」をあたかも人として、擬人化して考えてみる。「体」全体だけではなく、体を構成するそれぞれの部位も、一つの人格を持った人間だと考えてみる。すると、今まで耳を傾けていなかった「からだ言葉」「こころ言葉」に対して「何を伝えようとしているのだろうか」と、耳を澄ませて聞き取ろうとする態度が育まれていく。どの言語もそうだが、学習するにはある程度は慣れが必要になるし、聞き取ろうとする努力をしない限り、なかなか身につかないものだ。つまり、自分自身の態度こそが重要なのだ。そして、体は体特有の、心は心特有の表現があるので、自分自身の「腑に落ちる」ように、身体感覚で言葉の感受性をはぐくんでいく。


 たとえば、最初の「お腹がズキズキ痛い」という状況を考えてみる。「お腹」の「痛み」の原因を探っていくのが「因果論」であるとすると、すこし立ち止まって「お腹」の立場になって「お腹が痛むことで体は何をしようとしているのだろうか」と考えてみるのが「目的論」である。自分の「お腹」の立場になって考えてみると、みなさんはどういうことを感じられるだろうか。まず、あまり活発に動かずに安静にして休んでほしい、という風に思えてくる。すこし活動を止めて立ち止まると、普段意識していなかった「お腹」という場所が、自分のからだ全体の中でどうした役割を持って働いている場所なのかと、自分なりに今一度考え直してみるいいきっかけにもなる。「お腹」が痛むという強い信号を送ることで、すべての活動を一度止めてでも注意を向けてほしいという非常事態を告げていると受け取ることができる。「お腹」の痛みは、「お腹」が普段の控え目な立場を止めてでも活発に働くことで、からだ全体の危機を回避するために事前に手を打っているのではないかと考えることもできる。「お腹」も、体全体を、命全体を安全に働かせるために、全体の中でひとつの役割として部分を担っている場所だ。そもそも、体や命という、働く場自体がなくなってしまうとお腹も生命活動が行えなくなる。体のそれぞれの場所は常に全体と部分との関係をモニターしながらある合理性をもって働いているので、危機的な状況では何かしらの手段で緊急事態であることを知らせる必要がある。日本語や英語が話せれば、言語で表現すればいいのかもしれないが、そうもいかない。すべての細胞や臓器が仮に「日本語」を話し出したらどうだろう。情報量が多すぎて頭は逆に混乱してしまうのではないだろうか。だからこそ、体は無意識の世界で膨大な仕事を行いながら、非常事態が訪れた時だけ意識の上に浮上してきて、身体症状としての「からだ言葉」を発することで大切な「何か」を伝えようとするのだ。


 つまり、「からだ言葉」や「こころ言葉」から、私たちが意味を発見しないと、それは「言葉」にならない。ノイズなのではなく、シグナル(信号)なのだと考えてみないといけない(そもそも、シグナルかノイズか(S/N)という判断は人為的なものなのだが)。たとえば、異国へ旅をしたと考えてみよう。ジャングルの奥地で、英語も日本語もまったく通用しない人と遭遇したとき、あなたはどうするだろう。命がけで、必死になんとか意思疎通をしようと試みるのではないだろうか。「頭」を介した言語が通じないと分かったら、ボディ・ランゲージ(body language)と言われる、体そのものを言葉として全身で表現して思いを伝えようとするはずだ。body languageも、「からだ」自体を「言葉」として、全身で表現している。それは人間だけではなく、動物であっても、昆虫であっても、植物であっても、自然現象であっても、同じことだ。その間にコミュニケーションの通路が開いてさえいれば、お互いが「何を伝えようとしているのだろうか」と、表現された形を「言葉」として受け取りながら、暗号を解読するようにお互いが意味を読み取ろうとするはずだ。


 芸術家は、「美しい自然」を描いているというよりも、自然の中から美を発見して描いているのだと思う。セザンヌが描いた机の上に置かれたリンゴ、ゴッホが描いたひまわり、そうしたものに私たちが感動するのは、リンゴやひまわりに隠された美を発見し、それを表現することができたからだろう。それは、リンゴやひまわりの秘された言葉を読み取る行為とも言える。自分のからだやこころを含め、そこに隠された意図や意味を読み取ろうとする行為は、芸術においてなされてきた行為でもあるのだと思う。



 

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