竹内整一『「かなしみ」の哲学』 日本精神史の源流へ
- 5月3日
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北斗の拳で「かなしみ」を知ることこそが奥義であると改めて読んだ。小学生の時の、うっすらした記憶がある。
その後、自分は医学部に入ったものの、学ぶ内容に物足りなさを感じ、宗教学、倫理学、哲学の講義に勝手に潜り込んだ。その中で、東大倫理学の竹内整一教授の講義を一番熱心に聞いた。
というのも、竹内先生の講義は「かなしみ」と日本思想史がテーマだったから。
例えば、『「かなしみ」の哲学』(NHK出版)では、日本人がなぜ古来より「かなしみ」を大切にしてきたのかが書かれている。

「かなし」の語源は「……しかねる」の「カネ」と同根。「かなし」には、自分の力ではどうしようもない「無力さ」や「切なさ」が根底にある。
それは、大切なものを失う「対象喪失」の感情でもあり、「死にゆく自分」という自分自身の死も含まれる。
「かなし」は、同時に「愛(かな)し」でもあって、「悲しい」という否定的な意味だけでなく、「愛(かな)し)」という慈しみの意味も持っていた。どうしようもなく愛おしいという感情は、相手の「かけがえのなさ(有限性)」を実感することから生まれる。
自分にとってかけがえのないものを失いたくない。心の震えが、「かなし(悲・愛し)」の根底にある。
「悲」と「愛」が表裏一体であるという考え方は、北斗の拳での「哀しみを知る=愛を知る」ことで究極奥義に至るという描写とも共鳴する。
「かなしみ」は単なる不幸の感情ではなくて、自分の無力さを知ることで、世界や他者と深くつながるための窓であるというのが、竹内哲学の核心。


「はかなさ」や「やさしさ」というやまと言葉との関連も、竹内先生は熱く語られていた。
命の「はかなさ」(思い通りにならないこと)を悟ることで、どうしようもない「かなしみ」(切なさ・愛おしさ)を抱く。その「かなしみ」を共有する他者に対し、身を細めるような思いで寄り添う「やさしさ」(「やさしさ」は「痩(や)す」から)が生まれる。
「かなしみ」を知る者だけが、本当の意味で「やさしく」なれる。
親鸞の「悪人正機」と「かなしみ」との関連として、救われがたい自分をそのまま包み込んでくれる大きな存在に気づくために、意識が反転するきっかけの「かなしみ」がある。
本居宣長の「もののあはれ」と「かなしみ」では、世界が自分の思い通りにならない(はかない)ことを受け入れ、その「切なさ」をそのまま味わう知性や感性こそが、「もののあはれ」(思わず「ああ」とため息が出るような状態)と通じるとも。
親鸞も宣長も、強い自律した個人ではなく、「揺れ動き、悲しむ弱い個人」を肯定する。
親鸞は、弱さ(悪)ゆえに絶対的な慈悲に繋がれることを。宣長は、弱さや繊細さを感じることこそが、感受性の極致であることを。
自分の限界を認めることで世界と繋がる感性こそが、日本精神史の源流であると語られていた。



竹内整一先生は2023年に亡くなられてしまったが、20年以上前に大学生時代に学んだことは、自分の人生哲学の核にある。
出会いとは、不思議なものだ。
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