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死者の声を聴き生きる世界へ帰る 映画『オデュッセイア』(クリストファー・ノーラン監督)

6 日前
読了時間: 16分

クリストファー・ノーラン監督が映画化したホメロスの『オデュッセイア』を観た。



●クリストファー・ノーラン監督超大作『オデュッセイア』本予告


古代ギリシアで語り継がれた、およそ2800年前の壮大な叙事詩が現代の映画としてよみがえる。

神々、怪物、魔女、呪い、戦争、愛、裏切り、復讐。そして、帰還。


しかし、それ以上に重要なのは、帰ることのできる自分自身が残っているかどうか、という問題だとおもった。

戦争を経験した人間は、戦争前と同じ人間ではいられない。

人を殺した者も、仲間を失った者も、故郷を離れた者も、かつての自分にそのまま戻ることはできない。


たとえ身体が故郷に戻ったとしても、心はまだ戦場に取り残されているかもしれない。

この意味で、『オデュッセイア』は、単なる冒険物語ではない。

人間が、戦争と喪失によって変わってしまった自分を抱えながら、もう一度、生きる世界に帰ってくる物語なのだと思う。


そして、その帰還の旅には、生きている者だけではなく、死んでしまった者たちの声が深く関わっている。




物語の背景には、ギリシア軍とトロイアとの長い戦争がある。

トロイア戦争は、古代ギリシア世界において英雄たちの勇気や名誉を語るための巨大な物語だった。

しかし、現代の私たちがこの戦争を考えるとき、英雄的な勝利という言葉だけでは捉えきれない問題が見えてくる。

その象徴が、「トロイの木馬」である。


人間の知性は、いのちを守ることもできれば、いのちを奪うこともできる。医学も科学も技術も、同じ問題を抱えている。人間は高度な技術を手に入れるほど、必ずしも幸福になるわけではない。むしろ、その技術を何のために使うのかという倫理が、ますます重要になる。


ノーラン監督の『オッペンハイマー』を思い出す。原子爆弾の開発という、人間の知性が到達した一つの極点。しかし、そこには科学的成功と倫理的な苦悩が同時に存在していた。トロイの木馬と原子爆弾は、もちろん歴史的にも技術的にも異なる。


●【本予告】『オッペンハイマー』



『オデュッセイア』は、この問いに簡単な答えを与えてはくれない。

なぜなら、オデュッセウスは英雄であると同時に、多くの死に関わった人間でもあるからだ。

その複雑さこそ、この物語が現代にも語り継がれる理由の一つなのだと思う。



戦争には始まりと終わりがある。少なくとも、歴史の教科書にはそう書かれている。

しかし、人間の身体や心にとって戦争の終わりはそれほど明確ではない。

戦場から帰還した兵士が、日常生活に戻れなくなることがある。


なぜ、人間は忘れたいはずの出来事を繰り返し思い出すのか。なぜ、苦痛をもたらす記憶が、何度も意識の中に戻ってくるのか。その問いは、今も精神医学や心理学にとって重要である。


また、現代のトラウマ研究では、単なる恐怖体験だけでなく、自分自身の倫理観を深く傷つける出来事がその後の人生に影響することも論じられている。「モラル・インジャリー(moral injury)」という概念である。自分がしたこと、あるいは止められなかったことが、自分自身の信念と深く衝突する。

『オデュッセイア』が描くのは、その困難な時間なのだと思う。




『オデュッセイア』には、帰還を意味する古代ギリシア語「ノストス(nostos)」という重要な主題がある。この言葉は、後に英語の「ノスタルジア(nostalgia)」の語源の一部にもなった。ノスタルジアは、単に懐かしいという感情ではない。

そこには、帰還する者と、帰還できなかった者との関係がある。生き残った者は、死んでしまった者たちを、どのように記憶するのだろうか。亡くなった人々の声を、誰が聴くのだろうか。そして、死者の声を聴くことなしに、生き残った人間は、本当に生きる世界へ帰ることができるのだろうか。


『オデュッセイア』を読み解くうえで、私が特に興味深く感じるのは、神々と人間との関係である。

古代ギリシアの叙事詩では、神々は人間の運命に頻繁に介入する。

アテナはオデュッセウスを助け、ポセイドンは彼の帰還を妨げる。

神々は人間に助言し、怒り、誘惑し、ときには姿を変えて現れる。


ジェインズは「神々の沈黙」という著作の中で、人間の意識の歴史について非常に大胆な仮説を提示した。それが「二分心(bicameral mind)」仮説である。彼によれば、古代のある時期の間は、現代人のような内省的な自己意識

を持たず、行動の指示を神々の声として経験していた可能性があるという。





ジェインズの仮説の価値は、必ずしもその歴史的説明が正しいかどうかだけにあるのではない。意識とは何かという問いを、脳の内部だけではなく、言語、文化、宗教、社会制度、物語との関係で考えようとした点にあると思う。



神々の声が聞こえなくなったあと、人間は本当に沈黙の中に取り残されたのだろうか。

それとも、神々の声は、いつしか人間の内側の声へと姿を変えたのだろうか。



私たちは、自分自身を一つの独立した存在だと考えている。しかし、心の中をよく観察すると、そこにはいつも複数の声が存在している。何かを決断しようとするとき、私たちは心の中で自分に問いかける。本当にこれでよいのだろうか。あの人なら、どう考えるだろうか。

かつて言われた言葉を思い出し、自分の判断を確かめることもある。このような内的対話は、人間の自己意識を考えるうえで重要な現象である。

発達心理学者ヴィゴツキーは、人間の思考と言語の発達を他者との社会的な対話との関係で捉えた。

子どもは、最初から完成した内的言語を持っているわけではない。

それでも、神々の声と人間の内なる声を重ねて考えると、興味深い問いが浮かんでくる。人間の意識とは、もともと他者との関係から生まれた、終わることのない対話なのではないだろうか。そして、その対話には、すでに亡くなった人々の声も含まれている。



『オデュッセイア』には、オデュッセウスが死者の世界と接触する印象的な場面がある。

いわゆる「ネキュイア」、死者との交信の場面である。

オデュッセウスは、予言者テイレシアスから帰還についての助言を得るため、死者たちの魂を呼び寄せる。


死者の声を聴くことは、過去に閉じ込められることとは限らない。それは、過去との関係を結び直し、未来へ向かうための営みでもある。オデュッセウスの冥界訪問を、このように読むこともできると思う。



医学的には、死は生命活動の不可逆的な停止として理解される。しかし、死を経験する家族や友人にとって、その人の死は、ある瞬間にすべてが終わる出来事ではない。亡くなった人の存在は、残された人の中で続いていく。


現代のグリーフ研究には、「継続する絆(continuing bonds)」という考え方がある。大切な人を失ったあと、その人との関係を完全に断ち切ることだけが、悲しみからの回復ではない。関係を新しい形に変えながら、生き続けることもできる。


大切な人が教えてくれたこと。最後に交わした言葉。そうしたものが、今を生きる私たちの判断や行動を、静かに支えていることがある。

死者は、身体としては不在になっても、関係としては存在し続けることがある。

このことは、医学が扱う生命と、私たちが経験する「いのち」との違いを考えるうえでも重要だと思う。




『オデュッセイア』の冥界には忘れがたい人物が登場する。

エルペノルという、オデュッセウスの若い仲間である。その死は、英雄的な栄光とは無縁だった。オデュッセウスたちは急いで旅立ったため、彼の遺体は埋葬されないまま残されていた。冥界でエルペノルの魂に出会ったオデュッセウスは、その死を知る。


エルペノルは、自分の遺体をきちんと葬り、墓を築いてほしいと願う。そして、自分が生きていたことを示すため、墓に船の櫂を立ててほしいと頼む。彼が求めたのは、英雄としての栄光ではなかった。自分が死んだことを忘れないでほしい。自分がこの世界に存在したことを、誰かに覚えていてほしい。


人間は、死者を弔うことによって、死者との関係を結び直している。弔いとは、失われた生命を取り戻すことではなく、失われた生命との関係を、もう一度つくり直す営みなのだと思う。この視点は、医療における死者の尊厳という問題にもつながっていく。


古代の神話には、埋葬されなかった死者や、恨みを抱いた死者が繰り返し登場する。死者が安らかに眠ることができない。死者の怒りが、生者の世界に災いをもたらす。こうした物語は、古代ギリシアに限らず、世界各地に存在している。日本にも、怨霊や御霊信仰という伝統がある。


私は、ここに鎮魂という営みの重要性を見る。

鎮魂とは、単に死者を静かに眠らせることではない。死者とのあいだに残された関係を、もう一度丁寧に結び直すことでもある。その意味で、鎮魂は、死者だけではなく、生きている人間のための営みでもあるのだと思う。



では、人間は、なぜ死者の物語を語り継いできたのだろうか。

古代ギリシアの叙事詩は、もともと声によって伝えられる芸術だった。

ホメロスの詩は、文字として読まれる以前に、吟遊詩人たちによって歌われ、語られてきた。英雄たちの名前。戦いの記憶。故郷への思い。死者たちの言葉。


しかし、ここで興味深いのは、『オデュッセイア』が、英雄の栄光だけを語る作品ではないということである。アキレウスは、死者の世界から生きていることの尊さを語る。エルペノルは、英雄的な名誉ではなくきちんと埋葬されることを願う。母アンティクレイアは故郷を離れた息子への思いを語る。

そして、その歌や物語を通じて、生きている人間自身も、死とは何か、生きるとは何かを問い直してきた。



『オデュッセイア』では、オデュッセウスが死者の魂を呼び寄せ、その声を聴く。

生きる世界に帰るために死者と出会わなければならない。

この構造を考えていると、日本の能楽という芸術が思い浮かぶ。

能楽、とりわけ夢幻能では、死者が生きている人間の世界に現れる。

死者が舞う。それは、失われた生命が、芸術の中で、もう一度、身体を与えられることでもある。


能『敦盛』は、世阿弥の作とされる代表的な修羅能の一つである。その背景には、『平家物語』に描かれた一ノ谷の戦いがある。源氏方の武将、熊谷直実は、平家の若武者、平敦盛を討ち取る。敦盛は、まだ若かった。直実は、その姿に、自分の息子の面影を重ねたとも語られる。


本来であれば、互いに出会い、言葉を交わし、友人になれたかもしれない人間同士が、殺し合わなければならなくなる。『平家物語』では、敦盛が笛を携えていたことが印象的に描かれる。戦場で命を奪われた若者は、単なる敵兵ではなかった。音楽を愛し、美しいものを感じる心を持った、一人の人間だったのである。


能『敦盛』では、蓮生が敦盛の菩提を弔うため、一ノ谷を訪れる。そこに、草刈りの若者が現れる。やがて、その若者が敦盛の霊であることが明らかになる。

殺した者と、殺された者。本来であれば、二度と出会うことのない二人が、芸術の中で再会する。これは、単なる幽霊譚ではない。

戦争によって断ち切られた関係を、もう一度、結び直そうとする物語なのだと思う。



戦争は、人間を二つに分ける。敵と味方。勝者と敗者。正義と悪。

しかし、実際の人間は、そのような単純な区分の中に収まる存在ではない。

敵と呼ばれた人間にも、家族がいる。愛する人がいる。好きな音楽があり、故郷の風景があり、日常の暮らしがある。戦争は、そうした一人ひとりの人生を見えなくしてしまう。


『敦盛』の舞台では、殺した者と殺された者が、敵と味方という区別を超えて、もう一度向き合う。そこには、戦争の勝敗とは異なる次元の倫理がある。鎮魂とは、敵と味方という区別によって断ち切られた人間の関係を、もう一度、結び直そうとする営みなのではないだろうか。


能『敦盛』の背景にある『平家物語』には、仏教的な無常観が深く流れている。祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響き。どれほど栄華を極めた者も、永遠にその地位を保つことはできない。どれほど強大な権力も、いつかは衰える。そして、どれほど若く、美しく、力に満ちた人間であっても、死を免れることはできない。


『オデュッセイア』のアキレウスが、死者の世界から生の尊さを語ったように、『平家物語』もまた、死と無常を通して、生きることの意味を問いかけている。古代ギリシアと中世日本。文化も宗教も異なる二つの世界が、死という問題を通して、深く響き合っている。


能楽の重要な特徴の一つは、死者が舞うことである。

死者は、自分の人生を説明するだけではない。身体を通して、過去の出来事をもう一度表現する。

戦いの記憶。愛する人への思い。果たされなかった願い。怒り、悲しみ、執着、後悔。

そうしたものが、舞という形で現れる。ここで私は、身体と記憶の関係を考える。

沈黙とは、何も存在しないことではない。まだ言葉になっていないものに、耳を澄ませるための場所なのだ。



ここまで考えてくると、私は、芸術というものの本質について、あらためて考えさせられる。

芸術は、美しいものをつくるためだけに存在しているのだろうか。人々を楽しませるためだけに存在しているのだろうか。もちろん、美しさや楽しさも、芸術の大切な働きである。


芸術は、そうした一人ひとりの人生を、もう一度、私たちの前に立ち現れさせる。

能『敦盛』において、笛はその象徴である。戦場で討たれた若者は、単なる敵兵ではなかった。音楽を愛する、一人の人間だった。笛という小さな存在が、戦争の巨大な物語の中から、一人の人間のいのちを取り戻す。


そして、どれほど医学が進歩しても、人間の死を完全になくすことはできない。では、治すことができなくなったとき、医療には、もう何もできることがないのだろうか。私は、そうは思わない。治療が終わっても、ケアは終わらない。生命を救うことができなくなっても、その人の尊厳を守ることはできる。



『オデュッセイア』のオデュッセウスは、死者たちの声を聴いたあと、再び生きる世界へ帰っていく。

能『敦盛』では、死者の霊が舞い、生者の祈りの中で姿を消していく。

そして、私たち医療者は、病室で、一人の人間の生と死の境界に立ち会う。

そのとき、私たちは、何を聴いているのだろう。心臓の音だろうか。それとも、その人が生きてきた時間の中にある、もっと深い声なのだろうか。


医学が聴く生命の音と、人間が聴くいのちの声。その二つは、決して対立するものではない。むしろ、その両方に耳を澄ませることによって、医療は、より人間的な営みへと深まっていくのではないだろうか。



医師として長く臨床の現場に立ってきた私にとって、「死」とは決して抽象的な概念ではない。心臓が止まり、呼吸が止まり、生命活動が不可逆的に失われていく。医療は、その過程を生理学的に理解し、可能な限り生命を守ろうとしてきた。


生物学的な生命活動は終わっても、人間の関係性は、その瞬間にすべて消滅するわけではない。ここには、医学が扱う生命と、私たちが生きている「いのち」との違いがある。医学は、生命を細胞や臓器、身体機能の働きとして捉えることができる。


ある人の死は、一つの生命の終わりであると同時に、その人と関係を結んでいた多くの人々の世界を変えてしまう出来事でもある。だからこそ、死を医学的に理解することと、死を人間として受け止めることは、同じではない。そして医療には、その両方を引き受けることが求められているのではないだろうか。


かつて、死別からの回復は、亡くなった人への愛着を少しずつ手放し、新しい生活へ向かう過程として説明されることがあった。しかし、現代のグリーフ研究では、死者との関係を必ずしも断ち切る必要はないという考え方が重視されている。「継続する絆(Continuing Bonds)」である。



私は、この「継続する絆」という考え方に、『オデュッセイア』の冥界訪問や、日本の能楽と通じるものを感じる。

オデュッセウスは、亡くなった母の声を聴く。能『敦盛』では、亡くなった若武者が、かつて自分を討った武将の前に現れる。


人間は、死者を忘れることによってのみ生きていくのではない。死者との関係を抱えながら、生きていくこともできる。悲しみからの回復とは、死者を忘れることではなく、死者のいない世界で、その人との関係を新しい形に変えながら生きていくことなのかもしれない。



大切な人を亡くしたあと、その人の声が聞こえたように感じたり、気配を感じたりする経験を語る人がいる。こうした経験は、文化や宗教的背景、個人の悲嘆のあり方によって、さまざまな意味を持つ。亡くなった人の存在を身近に感じ、慰めを得る人もいる。一方で、その経験が強い恐怖や苦痛を伴う場合もある。


医療とは、症状を分類するだけではなく、その症状を経験している人間の世界を理解しようとする営みでもある。この視点は、精神医学だけではなく、医療全体にとって重要だと思う。

医療者は、患者の物語の作者になるのではない。その物語が語られる場所を、ともにつくる存在なのだ。



『オデュッセイア』のエルペノルを思い出す。彼は、死者の世界から、自分をきちんと埋葬してほしいと願った。

彼が求めたのは、英雄的な栄光ではなかった。

自分が確かにこの世界に存在したことを、忘れないでほしい。その願いだったのではないだろうか。


オデュッセウスは、死者の声を聞き流さなかった。死者の世界から戻ると、仲間たちとともにエルペノルの遺体を弔い、墓を築き、その上に彼が使っていた櫂を立てた。



どのように生きてきたのか。誰と出会い、何を愛し、何を大切にしてきたのか。そして、どのように見送られたのか。そうしたすべてが、一人の人間の人生を形づくっている。医療は、その人生の最後の時間に立ち会うことがある。それは、医学的な責任であると同時に、人間的な責任でもある。



『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスは、長い旅の末に、故郷イタケへ帰還する。戦争に10年、漂流に10年。20年という歳月を経て、彼はようやく、自分が帰りたかった場所へたどり着く。しかし、そこにあるのは、かつて彼が知っていた世界と、まったく同じ世界ではない。


滅ぼされた都市の人々。命を落とした仲間たち。彼らは、もう帰ってこない。しかし、物語の中では、その声が再び響いている。アキレウスは、死者の世界から、生きていることの尊さを語る。エルペノルは、自分をきちんと弔ってほしいと願う。


生きるということは、死者を忘れて前へ進むことではない。死者との関係を抱えながら、それでも、新しい時間を生きていくことなのではないだろうか。

ここで、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』を、もう一度思い出す。

ジェインズは、古代の人間が神々の声を聞いていたという大胆な仮説を提示した。


死者の声は、生きている人間に、いのちの有限性を教えてくれる。そして、その有限性の中にこそ、一つひとつの出会いや時間の、かけがえのなさがあることを思い出させてくれる。私は、ここに、芸術と医療が出会う場所があると思う。医学は、生命を守るために発展してきた。


生命を救うことができなくなっても、その人の尊厳を守ることはできる。そして、その人が亡くなったあとにも、残された人々の悲しみに寄り添うことはできる。医療とは、生命を守る営みであると同時に、いのちが結んできた関係を大切にする営みでもある。

ここで、私は「鎮魂」という言葉を、もう一度考えたい。


鎮魂とは、死者を忘れることではない。悲しみを消し去ることでもない。死者の声を勝手に代弁することでもない。死者の沈黙を尊重しながら、その存在を忘れないための場所をつくること。失われたものとの関係を、もう一度、丁寧に結び直すこと。


そして、私たち自身の内側に。死者の声を聴くことは、死者の世界へ向かうことではない。

死者の声を聴くことは、死者の世界にとどまることではなく、もう一度、生きる世界へ帰り、死者とともに生きることなのだろう。


色々なテーマを多層的に考えさせられた。強く余韻が残る作品だった。

さすがクリストファーノーランだ。



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