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横尾忠則「時々、死んだふり」(ポプラ新書)

横尾忠則「時々、死んだふり」(ポプラ新書)を読む。やはり面白い。2023年9月に出た新刊。


学生時代は、読書には知識や情報を求めていたが、ある程度の知的満足が満たされている今、読書に求めるのは変わってきている。

心の深い場所、自分が到達していない心のずっとずっと深い場所にどこまで光を当て、ぐらつかせ、揺さぶることができるか。そして、自分の心に【重たい魂が宿る】とき(死者から託された時)、その重たさを持ちこたえるぐらいに心が大きくなり、大人の心になれるか、ということ。


そうした基準で言うと、お勉強としての読書も時にはするが、より高次の成長のための読書は欠かせない。

そうした時に、やはり私は横尾さんの文章は好きだ。シンプルな語り口の中に劇薬が混入され、私が見えていないより広大な世界を背景にしてコトバが自然に紡がれているから。





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P63

「死んだ後どうなるのか」と僕に聞いてきた人がいたので、「生きてきた時の想念や思いがそのまま死んだときに具現化する、あるいは形を変えて具現化するので、こちらの世界と向こうの世界はイコールでつながるのではないですか」と答えました。その人は「怖い、怖い」と言っていましたが、ということは、こちらの世界でかなり怖いことをやっていることになります。

だから、死んだらどうなるかということを心配するよりも、今を一生懸命生きることが大事です。それは特別なことではなく、自分の納得した生き方をするということ。さまざまな執念や我欲をなくするようにする、そのように考え方を変えればよいはずです。


近年よく断捨離という言葉が使われていて、物を整理しなさい、物を捨てなさいという意味になっている。

けれど本来はもっと抽象的なもの、その人が抱いている執着を捨てて、空っぽになって向こうの世界に行くことを指すのではないでしょうか。

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結局は、誰かが見ているから、ということではなく、自分の内部に生きる指針、行動規範、羅針盤、善悪の基準、あらゆる物差しを持てるかどうか、ということ。「おてんとうさまが みている」と言いますが、太陽は宇宙にもありますし、内部にも燃える太陽があるのでしょう。ちなみに「おてんとうさま」は、この世だけではなく、あの世にもある(霊界の太陽)と、スエデンボルグさんは語っておりました。


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P64

死んだときに問われるのは、その人の人間性だと僕は思います。

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→死から生の全体像を見ることの大切さ。


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P113

実は子どもが持っている物語やフィクションが創作には必要だと思っています。社会の流行や好み、社会の問題など外部を意識すると作品はどんどん平均化していって、結果として同じようなものが並ぶことになります。

自分だけの物語を持っていないと、本当に創造性のある作品を作ることができないのです。

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→外ではなく中にこそ、自分がいる。


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P136 

絵を描く場合にも、自分が持っている目的や願望や野心は影響します。悪魔の誘惑はものすごい。「いいものを作れ」「評価されるようになれ」「有名になれ」と、常に悪魔の言葉が飛んできます。

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それらは全部、僕にとってマイナスです。

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→外から外部情報から引っ張られるが、そこにかまわず、内部情報、いのちの声、魂の声にどれだけ耳を澄まし、行動できるかどうか。


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P171

寒山拾得のように、あるがままを生きることが大切だと僕は思います。この二人は「死んだふり」をして生きているのかもしれません。そうでないとあんなアホな存在にはなれませんから。

三島由紀夫さんが「知性ではなく霊性を極めなさい」と言っていましたが、寒山拾得は霊性の象徴です。

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→霊性とはなんだろう。そのことは誰もが生涯かけて追求する課題。芸術とは、まさにその課題を含んでいる。それは生きとし生きるもの、誰もが見据えるべきテーマ。課題を子孫にもちこさないよう、自分がしっかり受け止めて解決する。


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迷っている時、ほとんどは外部の情報に惑わされている。

答えは自分の中にあり(中にしかなく)、立ち止まり、深呼吸し、我や執着を捨て去り、その上で、自分の内奥にある純粋で透明で無限で広大なものの中からこそ、暗闇の中から光を見出さないといけない。闇と光は共存している。敵ではない。


私が愛する人たちの著作や作品は、いつもそうした清々しい気持ちにさせてくれます。これは私にとって「くすり」以外の何物でもありません。



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横尾さんは、わたしたちが見ていない(見えていない、見ようとしていない)ところまでしっかりと見据えて生きておられる。その上で絵を描かれている。絵もすごいです。常に気づきがあります。ただ、絵だけではなく、生き方や人間全体のスケール自体が巨大です。それがすごいです。絵は横尾さんの一部でしかないのに、またその絵自体のスケールも巨大で広大で、さらに驚きます。

堂々巡りのようにすべてにおいて驚くことばかりです。驚きは人生の潤滑油。常に学ばせてもらっています。




我が家にある「CLEAR LIGHT 1975 CALENDAR TADANORI YOKOO」。大きいです。


フランスの画家(版画家、挿絵画家、彫刻家)であるギュスターヴ・ドレ(1832年-1883年)を横尾さんがコラージュした作品。1975年の毎月のカレンダーなので13種類も!楽しめる。1975年の作品とは思えません。時代を超えてます。

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