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声の残る車、降りられない劇場 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021)

9月26日
読了時間: 4分

『急に具合が悪くなる』(2026)が素晴らしかったので、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021)を観た。村上春樹やチェーホフの作品世界が響き合い、言葉と声が深く余韻を残し続ける映画だった。




印象的だったのは、死者の声が、生きている人の日常を動かし続けていることだ。


家福の赤い車には、妻・音が録音した『ワーニャ伯父さん』の台詞が流れる。家福はその声を聞き自分の台詞を返す。死者との対話は終わることのない稽古となる。


生きている相手の言葉は変わるが、録音された声は変わらない。


車は前へ進むのに、二人の会話だけが閉じられた輪の中で止まっている。



チェーホフが生きた19世紀後半のロシアは、農奴解放を経て古い身分秩序が揺らぎ、都市化が進む時代だった。社会は変わり始めているのに、人々の日々は変わらない。『ワーニャ伯父さん』に漂う「このまま人生が過ぎてしまう」という痛みは、個人の後悔だけでなく時代の転換期を生きる不安も重なっている。



チェーホフは医師でもあった。医師は苦痛に立ち会うが、いつも原因を取り除けるわけではない。診断する力と同じくらい、治せないもののそばに留まる力が求められる。


『ワーニャ伯父さん』の人々も、取り戻せない時間のなかにいる。尽くしてきた年月は返らず、望んだ愛も得られない。チェーホフは彼らに人生を一変させる「治療」を与えない。それでも、弱さや滑稽さを抱えた一人ひとりを見つめ続ける。その眼差しが、この映画にも流れている。



俳優たちは何度も劇に入り、出てくる。

しかし舞台を降りれば「本当の自分」に戻れるのだろうか。


家福も日常のなかで、「妻を理解していた夫」「穏やかな演出家」という役を演じているように見える。

舞台の言葉は借り物でも、それを発する身体はその人自身の人生を離れられない。


人は本心を直接言えないとき、誰かの書いた言葉を通して初めて本当のことに触れる場合がある。

家福がワーニャを演じるのは、避けてきた言葉を自分の身体で引き受けることでもあったのだろう。



音が語る、やつめうなぎの物語も忘れがたい。

好きな少年の部屋に忍び込む少女。相手の内側に入り痕跡を残したいという願いは、寄生のイメージにまで変わる。

愛には「知りたい」「覚えていてほしい」という切実さと、相手に入り込みたいという怖さが同居する。


村上春樹の作品で性がしばしば映し出すのもこうした境界の揺らぎだと思う。

親密さは、相手を知り尽くすことを意味しない。



家福と運転手のみさきには、喪失とともに「あのとき別のことをしていれば」という記憶がある。

罪悪感が強すぎると、人は失った相手を悲しむ前に過去の自分を裁き続けてしまう。

二人の時間は、それぞれの「あの日」で止まっていた。


車内で二人が少しずつ語り始めても、過去は変わらない。


ただ、自分の内側で繰り返していた記憶を、他者のいる場所へ持ち出すことはできる。

音が物語を生み、家福が台詞を繰り返し、みさきが過去を語る。

物語は失ったものを取り戻さないが、失ったものとともに生きる場所をつくる。



『ワーニャ伯父さん』の終幕で、ソーニャは「生きなければいけないのよ」と語る。それは単なる励ましには聞こえない。苦痛は消えず、長い日々が続くからだ。

ただ、その現実を知ったうえで、私たちは生き続けるのだ。



多言語の舞台では、同じ言語を持たない人々が、声や間合い、身体を通じて言葉を受け取る。

手話で語られるソーニャの言葉も、音声はなくても確かに届く。手と手が触れ合う音の強さに、感情の重さを感じながら。


録音された音の声が家福を過去につなぎ留めたとすれば、その声なき言葉はいま目の前にいる人から届く。


私たちは人生という劇場から降りることができない。他者を知り尽くせず、過去もやり直せない。

それでも、誰かの声に耳を澄ませながら、同じ時間を進むことはできる。

「生きなければいけないのよ」。

その言葉が、不完全なまま生きる私たちへの、静かな祈りとして残った。




チェーホフ「ワーニャ伯父さん」(神西清 訳)

「でも、仕方がないわ、生きていかなければ!

ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。

長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。

運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。

今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。

そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。


あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。

すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。

その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。

そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち私たち ほっと息がつけるんだわ。」




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