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円環的な人生とWho Am I?

7/25(日曜)のラジオ「今こそ永遠」(FM軽井沢 77.5MHz)をお聞きになっていただいた方、ありがとうございました。


7月も最終です。8月はお盆の時期ですが、この時期はご先祖様をお迎えし、亡くなった方に想いを馳せる時期でもあります。

ラジオでは、改めて人生の全体性や生と死の全体性について話しました。



自分は「全体性」という視点をいつでも大事にしています。

というのも、わたしたちの視野というのは、どうしても局所へ局所へとうつっていく傾向があり、ズームアウトするように視点を引いて全体像を把握するように注意しないと、木を見て森を見ず、となり、今やっていることの目的や意味を見失ってしまうことがあるからです。


人の感情には喜怒哀楽があります。こうした感情も人生全体の一コマとして起きていると考えます。そうした視点があれば、自分の感情を客観的に冷静に追うようにできるようになります。一時期の突発的な感情に飲み込まれ支配されないように。感情を観察している俯瞰的な視点も、わたしの全体性の一部なのですから。


人生全体の中で、日々はその部分として展開されています。

人生という全体像の中に、このかけがえのない日々がある。そうした視点を忘れず、日々を大切にしています。




人生の全体像を考えるとき、直線的な人生観ではなく、円環的な人生観をこそ大切にしています。

直線的な人生観とはどういうイメージを持たれるでしょうか。

たとえば壮年期などの生産性が高い時期を人生のピークと見て、そのピークを目指すように人生を上り詰めていく、そのピークの後には人生の坂を転がるように衰えていく、というような考え方です。

ただ、こうした考え方では、子どもやお年寄りは生産性がないため価値がない、という偏った考えに陥ることになります。突然病気になった、動けなくなった、というときに、社会からはじき出されたような考えに陥ってしまいます。


そうした直線的なイメージではなく、人生を円環的なイメージでとらえてほしいのです。

ライフサイクル、というように、サイクル(円環)のイメージでライフ(人生)を捉える。

日々は円環的につながっていて、人生全体も円環的にはつながっていると考えるのです。


生まれ、成長して、死ぬ、というサイクルから逃れられません。

生と死は、1日1日の単位で円環的に完結して、かつ人生全体もつながっていると考えるのです。


日々には成功も挫折もありますが、それも人生の一コマです。強さだけではなく、弱さも全体に含み込んだ人生観を生きることが大事なのではないでしょうか。

そのためには、「今こそ永遠」とされるこの「現在」という瞬間を、過去の結果としてだけではなく、未来への準備としても捉えることが、「現在」を生きる実態に近いのではないかと思います。



今回、一曲目としてご紹介する曲は、Nina Simone「Who Am I?」(収録アルバム:Nina Simone『Nina Simone and Piano!』(1969年)です。








この曲は、私が大好きなシンガーNinaSimoneが歌っている曲ですが、作詞・作曲は、なんとLeonard Bernstein。Bernsteinと言えばクラシックの巨匠で、ヨーロッパ中心だったクラシック音楽の世界で、アメリカ人の指揮者として世界的に活躍し、かつ作曲家であり、ピアニストでもあります。

そそて、この曲は「わたしはだれ?(Who Am I?)」という哲学的なタイトルでもあります。



バーンスタインが、ミュージカル「ピーターパン(1950)」のために作った曲ですが、アメリカ人であるバーンスタインが、東洋思想の伝統的な死生観である輪廻や生まれ変わりのことも書いており、歌詞を読んだとき驚きました。



●Nina Simone - Who Am I?





歌詞の解説です。


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WHO AM I?


私は誰?

私は誰なの?

生まれる前から全て決められているの?

それとも、わたしはたまたま七月に生まれただけの存在なの?


私は誰?

わたしの友人は、ただ楽しいことだけを考えればいいって言う 

そんな彼らはとっても変だと思う。

私は、唯一の存在であるに違いないから。

こんな不思議なこと考えるのは私一人だけなのかしら?


いつか、私は死ぬ。

わたしはいつか、また生まれ変わることはあるの?

山に住むライオンとして、

それともオスの鳥やメスの鳥として、

それとも他の鳥?

それともハエ?

ああ、私は誰なの?


あなたは、生まれ変わり(reincarnation)を信じる?

あなたは、生まれ変わりを信じる?

あなたは、以前にもこの世に存在していたことがあるの?

あなたは夢を見たことはある?

あなたはほんとうのことをすでに全部知っている。


あなたは前の人生で、何かすでに経験しているの?

あなたは疑問に感じるでしょう。

あなたはほんとうのことをすでに全部知っている。

人生すべての愛を込めて

あなたは言うのよ、

わたしは何ものなの、って。


いつか、生まれ変わることはあるのかしら?

山のライオンとして、

もしくは鳥として。

それともハエとして。


もし私が、これらの生き物の一つで、

くり返し、くり返し生まれ変わった生き物だったら...


私は何ものなの?   

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すこし意訳もありますが、こうした歌詞です。

私は誰なのか?私は何者なのか?


自分はこの歌詞を聞いた時、在宅医療での経験を思い出しました。


認知症の患者さんのご自宅に往診に行った時のことです。


こんにちは、とチャイムを押すと、その方がガラっとドアを開けて、「あなたは誰ですか?」と聞いてこられます。

「わたしは祐ホームクリニックで往診医をしている稲葉と申します」と答えますが、「あなたは誰ですか?」と聞かれます。

「わたしは医師です」と答えると、「あなたは誰ですか?」と聞かれます。

そこで困ってしまい、「わたしは稲葉俊郎と申します」と氏名を答えると、「あなたは誰ですか?」と聞かれます。


さて、こうした場面で、あなたはなんと言いますか?


自分は何度か返答しながら、「確かに、わたしは誰なのだろう?」という気になってきます。自分は職業名でもない、名前でもない。住んでいる住所も自分ではないし、両親の名前も自分ではない。

相手の玄関でこの問答が数回、数分続くのですが、この度に禅問答のような対話は、いいトレーニングでもありました。「わたしはだれ?」という問いは、普段発されることがありません。だからこそ、灯台下暗し、のように自分という存在を改めて考えるきっかけがないからです。


ちなみに、この方はこうした問答を繰り返し、じっと目を見て対話をしていると、ある瞬間に「では、どうぞ」と言われて中に入れていただきました。おそらく、自分が発する言葉や意味や概念ではなく、存在が発する非言語、もしくは自分の心の中やさらに言えば魂の中まで観察されて、「この人は私の仲間なのか、敵なのか」と。そして、私自身の心が閉じているのか、開いているのか、言語の光が届かない内奥をこそ見られているのではないかと、いつもドキドキしたものです。




 

人生の全体性の話に戻ります。


わたしたちは、青年期・壮年期という時期だけではなく、あかちゃん、こども、お年寄り、病者も含め、社会を構成しているすべての存在に等しく敬意を持てる人生観を養う必要があると思います。


柳田国男を含め、過去の民俗学の思想を読み解くと、生者だけではなく死者をも含みこんだ上で、人生や生命の全体性を考えていたことが分かります。


3歳までは神のうち、という言葉があります。

つまり、「七五三」の儀式は、死者の世界から生者の世界へと迎え入れる、精霊のような存在が人間になっていくプロセスを祝う儀式でもあったと祖父母から聞いたことがあります。


そして、盆踊りのときに、踊っている人の間を必ず一人分空けるようにも祖父から言われました。

それは、ひとつ場所をあけておかないと、そこで亡くなった人が踊れないでしょ、ご先祖様の場所も空けておくんだよ、と言われたものです。

盆踊りも、そうして死者や先祖に敬意を持ちながら、同じ空間で同じ踊りと動きをしながら、グルグルと生者と死者が円環的につながっていることを実感として感じるための踊りだったのではないかと思うのです。




人間がこの世へ生まれてくる。それぞれの固有の人生を生き切って、またこの世から去っていく。そうしたことを生と死と呼びます。

ただ、この世とあの世とが円環的につながっていた古代の人々にとって、死ぬことはあの世へと生まれてくることでもあります。あの世から見れば、この世の死は「誕生」なのです。あの世に生まれあの世で死ぬことは、この世での「誕生」へと循環の輪がつながります。

そうして、生と死、この世とあの世も、円環的に循環してつながっていると考えていました。

死者や先祖に敬意を持てる社会は、豊かで健全な社会ではないでしょうか。

そうした考え方を持つからこそ、子どもやお年寄りは、「かみさま」に近い存在として、その存在自体に霊性を感じ、自然に敬える社会になります。そんな社会にこそ、自分は希望を感じます。



わたしは誰なのか。

意味や概念を超えて、わたしは、いまここに存在している。

この今の瞬間の自分の全存在にすべてが含まれ込められていると思います。

そこにすべて答えはあります。

それこそが、ラジオタイトルの「今こそ永遠」です。


今、ここに私がいる。

そうした人生の態度や存在の深さや重さのことをこそ、問われているのだと思います。



ラジオの最後には、同じNina simoneのアルバム『Nina Simone and Piano!』(1969年)から、「Compensation」という曲をお送りしました。

詩人ポール・ローレンス・ダンバーの詩から引用されています。

ニーナ・シモンが、神という大いなる存在に対して愛を持って生きたことで、思いやりや歌という贈り物を受け取った、と、祈りのように謳いあげています。


●Nina Simone - Compensation







次回は、最終日曜の放映ですので、8月29日(日曜日)(AM10:30-10:55)(FM軽井沢 77.5MHz)の放映です。

また、次回お会いしましょう。



第7回 「今こそ永遠(えいえん)」(放送日 2021年7月25日) 

●1曲目:Nina Simone「Who Am I?」(収録アルバム:Nina Simone『Nina Simone and Piano!』(1969年)作詞・作曲:Leonard Bernstein

●2曲目:Nina Simone「Compensation」(収録アルバム:Nina Simone『Nina Simone and Piano!』(1969年)作詞・作曲:Paul Laurence Dunbar, Nina Simone





P.S.

Nina Simone『Nina Simone and Piano!』(1969年)と一緒に持っているアルバムは、バーンスタイン歌曲集「Roberta Alexander, Tan Crone Leonard Bernstein Songs」(1994年)というレコードです。

ソプラノ歌手であるロバータ・アレクサンダーが、バーンスタインの作曲歌を歌っています。このアルバムにも、ミュージカル、ピーターパンから「Who Am I?」も含め、そのほかの曲も収録されています。








●peter pan ; who am I ?(Roberta Alexander)





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